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「自分」「自分」「自分」・・・の大氾濫

 日本のように40人もの大人数での学級で「個性重視」の教育をすると,どういうことになるかというと

 「自分」の大氾濫が始まる。

 40人の「自分」が「自分」を主張し出すから,収拾がつなかくなる。

 小学校の「子どもが活発」という定評のある授業を見学してみると,よくわかる。

 他の子どもの発言をまともに聞かず,自分の言いたいことを言っている。

 教師は「それは前の人が言った。どうして聞いていなかったのだ」などとは言わない。

 言いたいことを言わせるのが,いい授業だと信じてしまっている。

 そして,「自分」たちが大量生産される。

 「自分」の大洪水が起こる。

 浸水した場所でも,なおも「自分」を訴える。

 欧米の学校の場合には,人口密度が日本より低いから,

 「自分」がいっぱいでも「あふれる」ことはない。

 そしてどこかに余裕が感じられるが,

 日本のそれは,本当に見苦しい。というか,息苦しい。

 ブログというのは,そもそも「自分」の大陳列会である。

 「自分」はこうですよ,ああですよ,と主張したい欲求にかられて公開されているように見える記事が多い。

 これは,先に述べた「立派な」教育の成果でもある。

 人間にはもともと,承認欲求があるから,社会的に満たされない思いをしている人ほど,

 ネット上でのアピールが過熱する。

 自己満足のための場所だから,少しでもけなされるとだまっていられなくなる。

 これは今,学校で起こっている現在進行形の問題と重なるのである。

 「自分」が抑制できない子どもを指導するのは・・・小学校時代に徹底して「自分」のバーゲンセールだけで生きてきた中学生に「そのおかしさ」を気づかせるのは,至難の業である。時間も要する。

 社会の授業でも,「自分」を大切にするのが小学校である。

 もう,「社会科」とよぶのはやめにしたらどうだろう。

 自分たちの勘違いに気づくきっかけになるかもしれない。

 中国の故事に笑われている自分に気づいてほしい。


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コメント

学校や教育委員会が「自分」を守るための「組織」になったら,子どもたちは救われません。

私は自分の子どもを犠牲にしてきましたが,子どもから見れば「自分のことばかり」とうつったことでしょう。

自分たちの保身と体裁を、事実を捻じ曲げてでも最優先する、教師、学校、教育委員会・・・

まさに「自分」「自分」「自分」・・・の大氾濫ですね(笑)

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より