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小中高一貫校の理数教育で,「受験学力」を追い抜くことは可能か?

 東京都の小中高一貫校構想は白紙に戻されたそうである。

 4・4・4という変則的な区切りによって,途中で入ったり出たりするのが
 
 困難な「ガラパゴス学校」となる可能性があった。

 個人的には,小学校「お受験」をさせられる子どもは不憫でならない。

 地域と切り離されて,親のエゴに6歳から(実際にはもっと前からか)

 付き合わされるわけだから。

 いやいや,そんな一面的な見方はおかしいだろう,という立場ももちろん理解できる。

 そもそも画一的な教育制度自体が問題なのだと。

 しかし,今のような日本という国のなかで,

 「他と違うこと」が本当にメリットとなるのかどうかは分からない。

 「分からないからこそ,やってみる価値がある」というスタンスは素晴らしいが,

 平成10年版学習指導要領と同様,

 「やってみたがダメだった」

 という結果になったら,子どもは気の毒である。

 タイトルの内容については,

 そもそも「中学受験」「高校受験」が「悪いこと」とされている前提そのものへの批判も含めて考えなければならない。

 受験を経験して中学校に入学した子どもは,

 あの「受験算数」を学習している。

 小学校のカリキュラムにはない学習を通して,相当に「考える力」を鍛えられている子どもと,

 そういう経験がない子どもの「考える力」は,大学受験の段階になってどのくらい差があるのか,それともないのか。

 予備校関係者は自分に有利ならそういうデータを利用するだろうし,不利なら知っていても公開しないだろう。

 予備校の財産は教材(模擬テストも含む)である。

 予備校がもっている教材は,生徒になれば全員が手に入れることができるから,オープンなものである。

 「学校でこういう教材を授業で使ってほしい」などと真剣に考える小学校の保護者がいてもおかしくはない。

 そういう意識のある親は,通信添削などを利用して子どもに学ばせているのだろうが。

 今後,設立に向けての動きが再開されるかもしれない「小中高一貫校」では,

 「理数系に力を入れる」ことで,どのような資質・能力が育つのか?

 せっかく「ゆとり」のためにつくられた都立の中高一貫校は,結局,大学進学実績で評価されるだけの「ふつうの高校」になってしまった。

 一部の教師は嘆いているかもしれない。

 確かに,小学生から,優秀な子どもたちを集めることはできた。

 しかし,高校受験を経験しないことで,この子どもたちの可能性はどのくらい奪われてしまっているのだろう?

 今は,どの高校も業者テストを実施させているから,学校ごとの成績はお互いによく知りあっている。

 国語や数学,英語の教師たちは,この業者テストの点数に一喜一憂する生活を送っているのかもしれない。

 一貫教育は何のために立ち上げたのか?

 「優秀な子どもを先取りするため」でしかないとしたら,小中高一貫なども似たような結果になっただろう。

 しかし,さすがに「小学校入学時点」で高い意識をもっている親の子どもたちを集めると,途中で学力の定着度が低くなってしまった子どもがどういうことになるのか。

 その実態を知る人間は少ないだろう。

 子どもを気の毒がっている場合ではない。

 教師の責任もたいへん重いものである。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より