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2014年1月

「自分」「自分」「自分」・・・の大氾濫

 日本のように40人もの大人数での学級で「個性重視」の教育をすると,どういうことになるかというと

 「自分」の大氾濫が始まる。

 40人の「自分」が「自分」を主張し出すから,収拾がつなかくなる。

 小学校の「子どもが活発」という定評のある授業を見学してみると,よくわかる。

 他の子どもの発言をまともに聞かず,自分の言いたいことを言っている。

 教師は「それは前の人が言った。どうして聞いていなかったのだ」などとは言わない。

 言いたいことを言わせるのが,いい授業だと信じてしまっている。

 そして,「自分」たちが大量生産される。

 「自分」の大洪水が起こる。

 浸水した場所でも,なおも「自分」を訴える。

 欧米の学校の場合には,人口密度が日本より低いから,

 「自分」がいっぱいでも「あふれる」ことはない。

 そしてどこかに余裕が感じられるが,

 日本のそれは,本当に見苦しい。というか,息苦しい。

 ブログというのは,そもそも「自分」の大陳列会である。

 「自分」はこうですよ,ああですよ,と主張したい欲求にかられて公開されているように見える記事が多い。

 これは,先に述べた「立派な」教育の成果でもある。

 人間にはもともと,承認欲求があるから,社会的に満たされない思いをしている人ほど,

 ネット上でのアピールが過熱する。

 自己満足のための場所だから,少しでもけなされるとだまっていられなくなる。

 これは今,学校で起こっている現在進行形の問題と重なるのである。

 「自分」が抑制できない子どもを指導するのは・・・小学校時代に徹底して「自分」のバーゲンセールだけで生きてきた中学生に「そのおかしさ」を気づかせるのは,至難の業である。時間も要する。

 社会の授業でも,「自分」を大切にするのが小学校である。

 もう,「社会科」とよぶのはやめにしたらどうだろう。

 自分たちの勘違いに気づくきっかけになるかもしれない。

 中国の故事に笑われている自分に気づいてほしい。


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「フィクション」によってズタズタにされる子どもたち

 台本の内容が,完全に「大人の作文」であることがよくわかるドラマがある。

 子どもが台詞を覚えてしゃべっているが,それを当たり前の言葉のように思ってしまっていくのが,職業人としての子どもの悲劇である。

 フィクションなら許される,なんて話が通用すると思っている人がいる。

 いじめをしている子どもが,「本気じゃなかった」「そのつもりじゃなかった」といって

 「許されて当然」という姿勢でふんぞりかえっているのは,そういう社会で育てられたからだろう。

 「抗議は織り込み済み」なんて態度で教師の指導を受け入れない「子ども」が生まれてくるかもしれない。


 研究授業,公開授業でしか,普通は他校の先生の授業を参観できない。

 そういうとき,多くのケースで,「フィクション」に出会う。

 つくりものの世界が広がっている,という感覚に襲われる。

 授業研究を,ひたすら教師目線で研究する人たちがいる。

 その真逆で,ひたすら子ども目線で研究する人たちがいる。

 両方とも,フィクションである。

 実態をつかんでいそうで,全くの的外れの議論になることがあるのは,

 それがフィクションに基づいた話だからである。
 
 そのうち,教師の目線を実際の映像で追いながら=生徒を見ながらの授業研究が,はやりだすだろう。

 フィクションから脱出するための方法の一つである。

 しかし,授業は,教師と子ども,子どもと子どもとの間でつくられるものである。

 ・・・・そもそも,学校での子どもの姿はフィクションにすぎない,という面もある。

 だから,それを前提とした研究でよいのではという考えもあろう。

 しかし,「偽物」をすぐに見分ける教師たちにとって,

 フィクションをフィクションのままでおくことは使命感が許してくれない。

 子どもに「演技をさせない」真剣さが教師には求められている。

 私も,「この演技はくさいな」と自分で思いながら生徒に話をすることがあるが,

 すでにそういう自分には,指導をする資格はないなと思い始めている。

 教育は,フィクションであってはならない。

 わかったようなことばかりが書いてある雑誌に目を通さなければならないのがつらい。

 「嘘つき」とまでは言わないが,40人中,5人や6人くらいがまともな反応をするような授業のどこが

 「すばらしい」のか?
 
 34~35人にとっての授業は何だったのか?
 
 ドラマのなかの話だけではない。

 子どもたちはフィクションによってズタズタにされている。

 
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『明日ママ』は文字通りの「問題作」か,「話題作」か?

 第3話の放映を「強行放映」と呼びたい人もいるだろう。

 今回の騒動で,児童養護施設の子どもや職員の方々への理解は,深まるだろうと考えられる。

 きっと,「人間の愛情とは何か」について,深く考えるきっかけになる視聴者も多いと考えられる。

 批判に対して毅然とした態度で臨んだテレビ局の態度や,

 さっとスポンサーから降りた企業の態度に対しても,

 今後,それなりの評価が下されるであろうことはわかる。

 しかし,教育の立場からするとただ一つ許せないのは,

 「子どもを金儲けのために利用する」企業のあり方である。

 ドラマで「里親の庇護欲をそそるように泣け」と強制される子どもと,

 それを演じることを強制されている子どもとでは何が違うのか?

 後者はギャラをもらってやっているからいいのか?

 「金儲け」が悪いわけでは決してない。

 「子どもを利用する」ことが許せないのである。

 「子役のその後」を今は語るつもりはない。

 『明日ママ』の放映によって,どれだけ「実際の被害」が生まれているか,知ることはできないが,

 芸人のコントなどで見られる暴力とは違って,

 「真面目なドラマ」のなかの「真面目な演技」は,子どもに「真面目な心の痛み」を突きつけることになる。

 ある芸人は,予想通りのコメントを発表している。

 「嫌なら見るな」・・・・・・

 ぜひ,番組の冒頭でこのメッセージを流してほしい。

 「嫌なやつは見るな」

 「内容が気に入らないやつは見るな」

 観る人がいなくなる恐怖やプレッシャーと闘っている芸人のつらさはわかるが,

 「何でも反対するやつがいる」といって「面倒くさいクレーマー」扱いすることに慣れてしまうと,

 今の荒れた学校をさらに荒れた状態にしている教師たちと同じレベルになってしまう。

 いつか,本当に社会から見捨てられる人間,学校になってみないと,

 何が問題になっているかがわからないまま「去る」ことになってしまうだろう。

 
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「点」にこだわる教師は成長できない

 このタイトルの「点」とは,「テストの点数」の意味ではありません。

 「立ち位置」「立脚点」と言い換えてもいいかもしれません。

 教師には,個人としての高い能力が求められています。

 そしてその「高い能力」への自覚が強い人が,多くの場合,リーダーシップを発揮します。

 ただ,そこについてこられない教師や子どももたくさん生まれます。

 摩擦やストレスも「大量生産」されます。

 たとえそうでも,「少しでも前に進むことが大事」という学校も,もちろんあるでしょう。

 しかし,多くの学校で今,求められているのは,

 個人の力を伸ばすことよりも,今ある資源を有効活用できる力をつけることです。

 今,「優秀な力をもっている専門家が先に捨てられる時代がやってきた」という人がいます。

 それは,どこかに頼んですませられるから,というのが理由のようです。

 どういう人が最後まで残るかというと,

 「自分以外の人が生かせる人」らしいのです。

 教師集団がどんなに信用を失っても,最後まで子どもから希望を捨てられない教師でありたいものです。

 そのときの心構えは何かと言えば,

 「人と人とをつなげる力をもつ人」であろうとする気持ちです。

 「点」ではなく,「間」を大事にする人です。

 「点」と「点」をつなぐ「間」にこだわることが,教師としてどんどん成長できる極意なのかもしれません。

 中学校で言えば,特に社会科の教師にこだわってほしいところです。

 それは,「社会」科の教師だからです。


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公立学校の教師の「心の健康ケア」を義務化すべき?

 教師の犯罪から目を背けてはならない。愛知県岡崎警察署に逮捕された教師は,すでに窃盗で逮捕され,小学校に脅迫文を出して威力業務妨害の疑いで再逮捕され,不審火についても調査中だったらしい。

 ここまでは昨年の話である。

 ニュースでは,この件にふれていないものが多かった。

 もし,セットで報道されていたら,どういう反応があっただろうか。

 なぜ,昨年の話をセットにしないで報道したのだろうか。

 この人は,今年になっても,まだ「先生」だったのだろうか・・・・。

 自然な豊かな地域の小学校が,こんな犯罪で名を知られるようになってしまった。

 同じようなことを繰り返さないためにも,行政は・・・いや,国は早急に対策を講じるべきである。

 「担任の先生は犯罪者だった」という子どもをできるだけ増やさないようにしたい。

 教師の多くは,相当のストレスを抱えている。

 教育とはそういう仕事だから,当然である。

 だからストレスへの耐性がない人にはつとまらない。

 ストレスのはけ口が,子どもに向かっている教師もいるだろう。

 パソコンがプールに捨てられるくらい,子どもが犠牲になるよりましである。

 私が今まで勤務していたすべての学校は,

 教員のストレス解消の方法がはっきりしていた。

 子どもの話で盛り上がる,そういう学校だった。

 よい話も悪い話もであるが,そこには子どもへの愛情であふれていた。

 教員のストレスは,子どもへの愛情で解消していくしかない。

 自律的な行動が必要である。

 だから,「心の専門家」をいくら投入しても,大きな効果が期待できるとは思えない。

 「心の健康ケア」は,本音で語り合える教員集団をつくるのが一番である。

 小学校という職場には,そういう空間が絶対に必要である。


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スポンサーゼロの番組にかける意地

 とうとう『明日ママ』のスポンサーがいなくなったらしい。

 話題をふりまくことで視聴率UPを目論むこともできるだろうが,スポンサーがすべて去っても放映を続けるという決断は,「報道」の使命ももっているテレビ局の意地だろうか。
 
 しかし,批判を浴びているのは報道ではなく,つくりもののドラマである。

 ドラマの作り手のメッセージが伝えられているが,

 「他の方法がいくらでもあるだろう」という見方もできる。

 そこまで子どもを「さらしもの」「道具」にして,

 「さらしきる」「道具として利用し尽くす」という根性は私には理解できない。

 子どもだけどそれで金を稼いでいるプロだ,という感性も,私には理解不可能である。

 子どもをそうやって利用している学校も現実に存在する。

 私が「子どもは見世物ではない」という訴えを直接なげかけたいのは,

 「つくりもの」の世界ではなく,現実の世界の話である。

 第3話以降,「児童虐待反対」とか,「いじめはやめよう」というような啓発系の映像が流れるとき,

 あらためて,ではこの番組は何なんだ?という問いがさらに生まれてしまうかもしれない。 


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スルーすべき問題とスルーすべきでない問題が区別できない教師

 教育の仕事にストレスを抱えている教師を見ていると,その「不器用さ」が気の毒に思えてくることがある。

 若い時はみんな同じような経験をしているので,年配の教師からきちんとした「教育」を受けているかどうかの違いが大切なのかもしれないが,今のように学校規模が小さくなってくると,そういう機会に恵まれない教師も大量に生まれている。

 何度も繰り返すが,子どもの数が減っているのに,教師の数はあまり減っていない。学校の数も同様である。

 教師を減らせとは言わないが,学校の数は減らすべきである。そうでないと,

 「教師から教師へ」受け継がれてきた大事な財産が,そのうち完全に失われてしまう。

 そもそも「学級王国の壁」を高く築いてきた小学校教師にはこんな話が通用するわけもないのだが,

 中学校では「優れた教師」の指導をいくらでも目の当たりにできる環境がある。

 問題は,それを目にしても「自分のもの」にできない教師がいることである。

 マニュアルのように,これこれこういうケースでは,こうしなければならない,と教わらないと何もできない教師が増えている。

 残念ながら,それは子どもの状況にもよるから,Aに成功した指導がBにも成功するとは限らないのが,教育という仕事である。

 教師がストレスを抱えると,子どもにもそれは伝染する。

 こうして悪循環に陥るケースは,子育て経験のある人ならいくらでも想定できるだろう。

 子どもにストレスをかけない方がいいケースと,かけた方がいいケースの区別は簡単に説明することができないが,指導が下手な教師を見ていると,

 子どもから見て,「どうしてこれはスルーされるのに,こっちでキレるのか,理解できない」と不満に思われるような行動をとっている。

 この「ツボ」があまりに不規則だと,子どもなりに

 「あっちの方」の問題を予想し,かえって警戒して不用意な行動をとらなくなることもある。


 教師からみて「おかしい」子どもはもちろん多いが,

 教師自身が子どもから見れば十分「おかしい」存在なのである。


 単純に,「ウソは許せない」という気持ちは当然だが,

 どんなときに,どのようについた「ウソ」かによって,スルーできる場合もあれば,できない場合もある。

 スルーする,スルーしない・・・・どっちが正しいのか。

 最低限のアドバイスとしては,

 どんなときも「子どもから目を離さない」ことが重要である。

 子どもの反応をしっかりと見てとる。

 それができなさそうな人は,下手な声かけをしない方がよい。

 中途半端な指導は,子どもが教師の指導力不足,自信のなさに気づいてしまうという最悪の結果を招く。

 どんな時でも,子どもから目をそらなさい・・・・というか,

 心をそらさない。

 それができない人は,明日にでも教師をやめてもらいたい。

 
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ドラマ『明日ママ』の存続条件

 児童養護施設や子どもたちへの偏見の発生や助長を防ぐために,テレビ局はどのような責任を果たすべきだろうか。

 ドラマの内容については,

 「そんなことは今はあり得ない」とか,

 「実際に起こっている面もある」とか,

 様々な意見が寄せられている。

 放映中止の要請が出されるまでになっていることをふまえれば,

 「最後まで見てから感想を」などと悠長なことは言っていられないだろう。

 「視聴していてつらい」という声に,「じゃあ,見るな」などと言えないことは,子どもでもわかるだろう。

 ドラマにお決まりの

 「この物語はフィクションで,実在の~には関係ありません」なんて言葉を出しても,

 実際に児童養護施設はあるし,

 実際に「ありそう」な場面がたくさん出てくるということで,

 懸念される悪影響は「絶対に起こらない」とは言えないはずである。

 「いじめ方」を知った子どもが,その通りにだれかをいじめることは十分にあり得る。

 すでにそのような被害が学校で発生していても不思議ではない。

 ドラマ存続の条件を,私なりに提案すると,以下の通りになる。

 ********

 このドラマに登場する人物の会話や行動の中には,現在の児童養護施設では起こりえないものがたくさん含まれています。これは,物語に登場する子どもたちへの愛情を持ってもらったり,それを高めてもらったりするための演出であり,制作側の恣意的なものであることをお断りいたします。

 ですから,児童養護施設の職員や,子どもたちがこのドラマのとおりであるとは決して思わないでください。

 このドラマのテーマは,「・・・・」です。

 この「・・・・」というテーマについて,視聴者の皆さんに考えていただいたり,感じ取っていただいたりしたいというのが制作者の願いです。

 放映反対の声もありますが,ぜひ最後まで,この物語を「・・・・」というテーマのもので,ご覧いただければと思います。

 ********

 このような内容を,主演の役者に語らせてから,番組を始めてもらいたい。

 しらけた感じになったとしても,そういうメッセージを伝えてほしいと思う。


 それにしても,社会的に弱い立場の人たちを「悪役」にいたぶるだけいたぶらせて,

 そういう逆境に負けずにがんばる人間の素晴らしさを訴えるようなやり方は,

 「上等な啓発行為」とは言い難い。


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被災地の学校における問題行動の見方・考え方

 日教組の教研集会で,被災地の教員から子どもの問題行動等の報告があったらしい(今日の読売新聞から)。

 小さい学校からの報告では,問題行動を起こしている児童個人の特定が可能になるため,情報の公開には注意を要するだろう。おそらく発表した教員も,学校名はふせて行っていると考えたい。

 報告では,「適切なケアをしている」ことがセットになっているようなのだが,私たち保護者が知りたいのは,

 それが本当に「被災地だから起こった問題なのか」ということである。

 「被災地ならでは」ということを強調したいわけではなかったと思うが,

 私の経験からも,人から聞いた話でも,

 「3年生を中心に不安定な言動が目立つ」というのは,一般的なことではなかろうか。

 「仮設住宅の生活」が原因だとか,

 「震災直後の生活指導が不十分だ」とか,

 いくら原因を過去にさかのぼってみても,現実の子どもを救うことにはならない。

 一番大切なのは,

 教師自身がどのような学級経営をしているか,

 であったり,

 学年の教師の連携がどれだけとれているか,

 であったり,

 教師が校内でどれだけ情報を共有しているか,

 だったりする。

 今回,教研集会に参加した教師が,どのような発表をしたか,どのような発表を聞いたか,同じ学校の教師にきちんと伝えることができないような学校には,決して成果や改善は期待できない。

 個人の力で問題の解決は図れない。

 そのことをしっかりと自覚している教員たちの集まりであったと願いたい。


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ご訪問いただきありがとうございます(大学,教育委員会,マスメディア等)

 勤務先でこっそりブログをご覧いただいた方には申し訳ございませんが,どのような組織の方が訪問されたかを知らせてくれる機能がココログにはあります。

 今月だけで,2回以上訪問いただいた大学(学生さんかもしれませんね),教育委員会等をご紹介します。

 青山学院大学,
 東京聖徳学園,
 信州大学,
 中部大学,
 京都教育大学,
 尼崎市立教育総合センター,
 沖縄県立総合教育センター,
 山口県教育委員会,
 文教大学,
 上越教育大学,
 イーエスピー学園,
 佐世保市教育委員会が運用する教育ネットワーク,
 豊中市立教育研究所,
 日立市教育委員会が運用する教育ネットワーク,
 ヤフー,
 高知大学,
 東京大学,
 日産自動車,
 愛知県愛西市,
 仙台白百合女子大学,
 天理大学,
 農林水産省農林水産技術会議,
 千葉県教育委員会が運用する教育ネットワーク,
 関西学院大学,
 國學院大學,
 エヌ・ティ・ティ・ドコモ,
 日本福祉大学,
 朝日新聞社,
 東京医科歯科大学,
 鹿児島大学,
 伊藤忠テクノソリューションズ,
 日本放送協会,
 博報堂,
 柏市教育委員会が運用する教育ネットワーク

 どんな方に読んでいただいたかは分かりませんが,「お名刺」を頂戴した気分になっています。

 ご訪問いただいたときの検索語としては,

 教師としての心構え,教員の使命感,コンピテンシー,協調性,教師の成長,学力向上,学習指導要領,小学校 褒める,小中連携,公募の指導主事,スクールバスモデル,いじめ 教師 荷担,お金のかからない教育改革

 などがありました。

 たとえば大学の先生などは,こんな匿名のブログを相手にしていると信用を失ってしまうことになるかもしれませんが,

 子どもが公立学校に通っている

 行政(指導主事)の経験が3年以上ある

 中学校の現職の教師である

 (地域内でも有名な)荒れた中学校を経験している

 (地域内でも数少ない)マンモス校を経験している

 (地域内でも有名な)人気校(部活が強い,進路実績がよい学校)を経験している

 といった条件を満たしている人間はそれほど多くはないでしょうから,これからもできるだけ参考になりそうな記事を掲載していこうと思っています。
 

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ちゃりこ父さんからの大切な言葉

 「子どもに向き合っている教員などいない」という言葉は,重く受け止める必要があるでしょう。

 多くの教師たちは,反論したくなると思います。

 たとえば,最初につとめていた大規模な中学校の学年会(同じ学年の担任の会議)では,不登校の生徒について,1週間の生活の様子などを話して終わるのに2時間かかることはざらでした。当時は不登校の原因はいじめではなく,小学校からずっと通っていないとか,怠学などの方がたくさんありました。

 生徒の情報交換やそれに対する質疑応答が終わってから,学年の行事の計画,生活指導(問題行動)に関する内容,進路に関する内容と会議の議題が続きますから,夜の7時,8時をまわるということもよくありました。

 不登校の生徒に対して,担任の教師は授業のプリントやノートのコピーをとりまとめて毎日FAXで送ったり,「保健室登校」するときは1時間くらい話をしたり,家庭訪問を行ったりと,「1人だけのため」に多くの時間を使うようになります。


 保護者の側からは,それだけの時間を教師がとってくれることに対して,

 「本来の仕事以外のことなのに,申し訳ない」と口にされることもあります。

 私の想像では,そういう保護者のうち,過去に生活指導などで,子どもが

 「本業でもないことに時間を使わせるな」という言葉を教師から浴びせられたことを知っていたり,

 直接,教師から言われたりした経験がある人がいるのかもしれません。


 もちろん教師の中には,「大人に世話をかけて申し訳なく思いなさい」という意味を込めて,

 「本業ではないこと」と口にする人もいるでしょう。

 ただその言葉の裏にある思いを察する能力がある子どもなら,そもそもそんな問題は起こさないわけです。

 子どもは,「私のためにこのことで時間をとらされることが本当に嫌なんだな」と受け止めてしまう。


 こういう話を子どもから聞けば,親としては

 「教師は子どもに向き合ってくれていない」と思って当然でしょう。

 すべての教師が,心ない言葉を子どもや親に浴びせるわけではありませんし,そういう言葉を実際に口に出す教師の多くは,むしろ子どものことを本当に心配に思っていたりするわけです。

 中学校の教師なら,こういう子どもを成長させることが立派な「教師の本業」なのです。

 ですから,教師は

 「今までは十分に子どもに向き合ってこれなかった」

 ことを毎日の出発点として,子どもに向き合う努力をしなければなりません。

 もちろん,前回の記事で書いたように,時間的な意味よりも,実質的な意味の方が重要です。

 「子どもに向き合う」のは,直接,面と向かって話をする,ということに限りません。

 「時間だけが過ぎていく」という面もなくはないですが,

 「時間が解決する」などと「放置」することなく,

 やはり努力によって解決できる,という信念をもって教育に臨みたいものです。

 少なくとも,「不信の連鎖」から抜け出すことなく,「解決の道」を見いだすことは不可能です。


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「この先生は,本気で子どもと向き合っているか?」という問い

 成長する人間は,自ら壁のある方に進んでいく,という。

 いつまでたっても成長しない人間は,いつも障害物を避けて先に進もうとする,ともいう。

 教師が「子どもに向き合う」というとき,それは

 「いつも一緒にいる」ことだけを指すのではない。

 むしろ,

 「本気で子どもと向き合うために,自分には何が足りないのか」を

 自問自答する時間,

 足りないものを補おうとする時間,

 さらに自分を伸ばす時間を確保するために,

 あえて子どもから離れる時間を増やす,という方法もある。

 親としては,教師に対して常に,

 「この先生は,本気で子どもに向き合っているか?」という目を向けていたい。

 子どもと向き合う,ということは,

 今の社会に向き合っている,ということでもある。

 さらに,これからの社会をどうするか,という問題に向き合っていることでもある。

 小学校なら,その教師が社会科をどれくらい勉強しているかで,教育の「本気度」がわかるだろう。

 中学校の社会科教師なら,自分をどういう社会人として位置づけているかを語ってもらうことで,その「本気度」がわかるだろう。


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研修の講師が最も喜ぶ褒め言葉とは?

 教師になると,実に様々な研修を受けることになります。

 それはつまり,実に多くの「講師」と出会う,という意味でもあります。

 教師たちにとって,多くの「講師」の話のうち,どのような話が強く印象に残っていくものでしょうか。

 最も印象に残りにくいのは,事務的な褒め言葉や機械的な内容の説明です。

 別に,その人から聞くということに特別な意味はないだろう,と感じてしまうと,「印象」に残ることはありません。

 研修に求められるものは何でしょうか。

 私の学校の先生たちは,「すぐに役に立つようなことを教えてください」などと聞かれると,たいてい

 「そんなものはありません」と答えます。

 研修とは,そういうものではないのです。

 小学校の場合,「どうしたら子どもを静かにさせられるか」なんてことをわざわざ本で紹介している人もいますが,そういう本を読む人にとって必要なのは,研修ではなく,実践経験です。

 「先生のおかげで,子どもたちが静かになりました」なんて感想を聞いて,うれしくなるような人間にはなりたくありません。

 社会科の研修で講師を頼まれるということは,社会科という教科の専門性が土台になっていないといけないのですが,たとえば研修を受けた先生方が,全く新しい資料の使い方とか,子どもの動かし方を聞いて,そのときは「あっ」「なるほど」と感じても,いざその単元を教えるようになって生かせるようになるかというと,そんな簡単な話ではないでしょう。

 知識として知らなかったことを聞いて,それをすぐに実践にうつせるようになるほど,教師の仕事というのは簡単ではありません。本来,教育実習でそのことを痛いほどわかっている人に教師になってほしいのですが。

 教師は,常に学び続ける存在なのです。
 
 「社会科のことをたくさん知っているから,優れている」なんて思われて,いい気分になるようなのが「講師」では,研修の成果はたかが知れています。 

 「社会科への造詣が深いですね」なんて褒め方をされても,うれしく感じない人間が「教師」でしょう。

 「自分はまだまだ」と思っていて当然だし,「学ぶことなんてもうないのでしょうね」なんていう目でもし見られたとしたら,「教師失格」と言われているのと同じになってしまうのです。

 教師は,「学び続ける人」のモデルでなければなりません。

 研修では演習も行いましたが,そのおかげで,参加の先生方から多くのことを学ぶことができました。

 「正解を探そうとする癖」を直に感じました。

 だから,「失敗が堂々とできる癖をつけること」の大切さを訴えることができました。

 「授業は勉強ができる子どもだけが活躍できる場にしない」ことの大切さを改めて実感してもらうことができました。

 私が指導主事の先生を通して研修の感想をお聞きしてうれしかったのは,

 「これでまた明日から,リフレッシュした気分で生徒と向き合うことができる」とか,

 「社会科の教師というよりも,一人の教師として学べたことが多かった」というものです。

 それは,本当にお互い様だからです。

 「社会科の教師の逆コンピテンシー」の話を続けようと思いましたが,長くなりそうなのでここでやめておきます。

 
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生々しい人間模様を垂れ流している小学校教師

 昔,生徒や親の愚痴ばかり公開していた「組合の先生」のブログによくコメントをしたものでしたが,異動をきっかけにブログの更新がとまり,職務に専念されるようになったようです。

 今日は,タイトルの餌に引っかかった私が似たようなブログに出会いました。

 学校の具体的な人間模様を,それも,現在進行形のことを,どこまでブログで公開してよいものか,普通の教師なら考えるものでしょうが,ネットの世界は常識の歯止めが緩くなる場のようで,管理職の一挙手一投足に至るまで克明に出しているのがありますね。

 話を読むと,やはり小学校というのは,個人商店が集まっている商店街のようなもので,校長はそこの住民の商店会長ではなく,どうせすぐにいなくなる「よそ者」「面倒くさい存在」として描かれているのがわかります。

 教師自身も似たような存在なのに,2~3年もすると10年くらいずっといるような雰囲気を出す人っていますよね。「地域を背負っている」というしっかりした自覚をもたれているものと解釈することにしていますが。

 小学校という職場は,若い先生が増えているのと,小規模化しているために「独自の風習」がきちんと伝わるルートができていないので,情報を握っている一部のわかったようなのが困っている先生を横目で見ながらせせら笑っている空気まで記事からよく伝わってきます。

 そのような学校情報を垂れ流すことは,私は決して悪いこととは思いません。生徒の個人情報に関するようなことでなければ。研究指定を受けるかどうか,なんていうのを会議で図っているような学校ですから,情報の管理など行き届いているわけがありません。今,こんな古いタイプの学校は少なくなっています。経営者が経営者らしい仕事ができないのは学校くらいなものでしょう。

 小学校の実態がオープンになって初めて,いじめにしろ,学力低下にしろ,危機感が直に親に伝わるようになるからです。できたら,いじめに対する教師の対応の仕方まで,どんどん公開してほしいですね。

 問題が起こって裁判になったときに,いい参考資料となるでしょう。

 ただ,あまりにも生々しい情報を流す人間がいるということがわかったら,教師たちにとっては愉快なことではないでしょうね。

 嘲笑の対象になっている管理職やら同僚やらは,ネットに非常にうといことを知っているのか,「読まれる心配がない」「自分が書いているとバレることは絶対にない」という安心感も伝わってくるのですが,もし本当にばれたとしたら,そのあとどういう態度でその学校に居続けられるのでしょう?

 どこかのアンケートで「空気を読まない県民」のベスト1に大阪,ベスト2に東京が選ばれていますが,こういう都市の学校の教師ならではの「ネット生活」があるのでしょう。

 完全に子どもをバカにしているタイトルなので以前にも何か書いた記憶がありますが,小学校は本当に学級王国の閉鎖空間が延々と続いているし,公立なら何かもめたら簡単に異動もできるので,理性のブレーキが非常にかかりにくい「業種の人たち」であることもよくわかります。

 どうでもいい話が長くなってしまいましたが,私が言いたいことは次のことだけです。

 そこに描かれている学校の教師たちの動きは,私が見聞きしてきた範囲で言えば,相当に「時代遅れ」です。

 同じように,30年くらい前で完全に時間が止まってしまったような人の記事をよく見かけますが,学校は,変わらないといけません。

 学級会のようなことを職員会議でやっている時代は終わりました。

 「時間がない」と言い訳する前に,無駄な時間を省いていくべきでしょう。


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「きまり」が自由を保障している社会と「きまり」が自由を制限している社会

 学校が封建社会のようにみえるとしたら,

 封建社会の「良さ」と「課題」を知る上で重要な鍵になるかもしれません。

 自分たちのことを自分たちに決めさせるタイミングをどこにおくか。

 明治維新のころに奮闘していた人々は,

 「理想とする社会」を実現するより先にすることがあった。

 だからその政策は多くの人々を不平不満をかいましたが,

 では人々との要求をのんでいたら,どういうことがおこったのか。

 「きまり」と「自由」あるいは「秩序」との関係を考える上で,

 小学生でもわかるお話を一つ。

 信号機が故障したら,自動車は道路を自由にすいすい走り回ることができますか?

 信号機が故障したら,いつでもどんなときでも,歩行者は道路を自由に渡ることができますか?

 「きまり」は社会の秩序を生み,人々が目的のために行動しやすい空間をつくります。

 「きまり」が「自由を制限する」というのは,

 そういう「きまり」をつくろうとする人間の心の声であって,

 私たちの「自由」は,「きまり」で保障されている社会であることを忘れてはなりません。


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センター試験で手塚マンガが使われて・・・

 ニュースになっていますが,本当に取り上げてほしい「問題」は,問題の「問題」なのです。

 日本史の問題で,手塚マンガの一部が掲載されていますが,

 別にマンガが資料として提示されてなくても解けてしまう問題です。

 しかも,「戦局の悪化」に関する問題として,

 カイロ宣言(1943年)とミッドウェー海戦(1942年)と原爆投下(1945年)の3つを古い順に並べかえるだけ,というもの。

 原爆投下は,もはや「戦局の悪化」のレベルを通り越したところで起こった問題だから,

 これが含まれているだけでおかしい,ということにもなるのですね。

 次に,「軍需工場への動員」に関して,「満州事変以後の軍需産業と経済」について述べたもののうち,誤っているものを1つ選ぶ,という問題。

 「日本労働組合総評議会」が戦後のものだと知っていれば,それだけで解けてしまう。

 もちろん,少しだけ考えて,「労働組合が解散させられ,日本労働組合総評議会が結成」っておかしいでしょ・・・という感性で答えた人もいるかもしれませんが・・・。「産業報国会」結成の経緯を知っていても解くことができます。

 このように,重要語句を年表のなかで覚えてしまっていれば,それで終わり,

 という問題ばかりが出題されているから,知識偏重の歴史の勉強に飽き飽きしてしまうわけですね。

 
 それよりも,手塚治虫の人生とともに,戦前・戦後の日本の歴史の流れを考えていく,という学習方法のあり方に注目をしてほしいところです。

 こういう授業をしていれば,歴史をもっと身近に感じて学習してくれるようになる,というメッセージ性をマスコミには読み取り,広げていってほしいところです。

 マンガが出ました。商業マンガがセンター試験に出たことはなかった。終わり。では,何の意味もないわけです。


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心と頭の財産の使い方(1) ~出し惜しみしない教師に~

 「財産」というと,「貯め込む」というイメージがありますが,

 「豊かな自然は日本の財産だ」とか「子どもたちが日本の財産だ」とかいう場合もありますね。

 そうだとしても,「守るもの」「守るべきもの」「育てるもの」というイメージがついてまわります。

 お金のような「財産」をもっている高齢者には,

 「豊かな使いみち」というのを考え,実践してほしいと思います。

 心や頭の財産も,使って,活用して,その価値が発揮されるとも言えます。

************

 儒教的道徳のなかで,あなたが日頃,大切にしていることは何ですか?

 という問いに,選択肢をいくつか掲げて聞いてみたら,

 「この中には1つもありません」

 という人はいないでしょう。

 しかし,道徳教育にアレルギーをもっている人はいる。

 戦前からの日本人の強さ・・・・災害にもめげないで協力して乗り越えられる・・・

 は存続している一方,

 今そこにある危機に立ち向かっていく勇気は失われているように思っている人は多いでしょう。

 特に,70歳以上の方々にとっては。

 戦争を支える一員になったことへの反省もあるかもしれませんが,

 一方で,戦後,未解決の問題への心残りを後世に伝えたいのに,それを受け入れる土壌がなくなってしまっていることへの危機感の方が強いのかもしれません。

 日本の教育は,表面的に成功しているかのように見える部分にだけ,力を注いできた経緯があります。

 人間を根っこの部分からしっかりと鍛えなおすには,まずは読み書きをしっかりと定着させる。

 「考える力を伸ばす」のはもちろん大切だが,「これだけは知っておくべき」という知識はしっかりと定着させる。

 「こういう話は知っておいて損はない」という話は,どんどん読ませていく。

 当たり前のようでも,これがなかなか学校では実現していないのが現状です。

 ごく一部の子どもだけ,どんどん本を読み,どんどん知識を増やし,どんどん思考力を伸ばしていく。

 それでグローバル人材は育っていき,リーダーの資質をもつ人間を確保するのには十分かもしれませんが,

 「残された人たち」はどうなるのか。

 「残された人たち」になりそうな子どもたちに日々多く接しているのはだれですか?

 その人たちには,何ができるのでしょうか。

 
 1日1日,心や頭の財産を増やす。

 そして,それをどんどん活用する。

 日本の現在の社会,未来の社会と自分がしっかりつながっているという実感をもたせるためにも,

 「賢い生き方」について考えさせるきっかけは,毎日のたとえ5分間という短い時間でも,提供していきたいものです。


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「学校のきまり(校則)=自由度をせばめるもの」という偏見の由来

 社会科にしろ,道徳にしろ,特別活動にしろ,

 活動の「主体性」「自主性」「自律性」の大切さを学べないものはありません。

 総合的な学習の時間は言うまでもなく,他教科でも同様です。

 「法教育」という言葉やその教育上の意義が明確に語られるようになった現在,
 
 「きまり=自由をしばるもの」

 という認識は,あまりにも時代遅れというか,

 封建社会,身分制度のもとでの発想であり,

 そういう認識が残存しているということ自体,

 まだ日本は本当の意味での「民主主義」が浸透していないことがわかります。

 その代表格が学校であり,学校のなかでの教師と教師,教師と子ども,子どもと子どもの人間関係なのです。

 今回は,部活動の話を出すのはやめておきましょう。

 「自由度が高まる」という考え方自体にも問題があるのですが,そのことも今日のところは脇に置いておきます。

 「自分の自由は他人の不自由」という社会の一面が見えていないと,「きまりが多いと・・・」という単純な法意識しかもてないのです。

 日本国憲法が,どのような「きまりごと」なのかも理解していない人は多いでしょう。

 これは,国民が定めた(という形になっている)ものです。

 (→日本国憲法のどこに示されているでしょう?)

 だれに対して,この憲法を尊重し,擁護する義務を負わせているか。

 その対象は,天皇や国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員なのです。

 (→日本国憲法の第何条に示されているでしょう?)

 そういう「きまりごと」がこの国の大前提になっているにもかかわらず,

 「きまり」というと,「上が下をおさえつけるもの」という発想しかできない人がいる。

 あるいは,「自分たちが自分たちをしばるもの」という発想しかできない人がいる。

 だから,そもそもその「きまり」の「決まり方」すら変えようとする発想ができない。

 社会全体が,もし「民主主義」だけを観点として評価すると,「未成熟である」のがその原因です。

 そうではない,大人は子どもより偉いんだから,子どもは大人の言うことに従うのだ,

 そういう儒教的道徳こそがいいのだ,という人間ばかりが,自分たちにとって過ごしやすい世界を過ごしている,

 それが学校という社会の本質に見てくるのでしょう。

 「それぞれの良いところどり」に成功している(成功できる)学校がごくわずかに存在していることだけ,最後に付け加えておきます。


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犯人はお前だ!(戦力外捜査官より)

 ドラマにはさまざまな「お約束」があります。最近は,「お約束」を破る「お約束」まで登場していますが,

 学校が舞台となるドラマの「お約束」は生きています。

 戦力外捜査官・第1話では,いじめがテーマになっていました。

 そして,「学校=いじめ隠蔽機関」であることが確認されていました。

 主人公が過去にいじめられていたという設定もあり,今後も学校が舞台となることもあり得ます。

 それにしても,学校が舞台のドラマの「お約束」は,30年以上前から「不変」のようです。

 頼りない校長と,体力しか能がなさそうなジャージ姿の生活指導担当の教員。

 そして「事件」が起こる場所は,必ず「屋上」。

 「屋上」が基本的に立ち入り禁止場所になっており,生徒が自由に出入りできないことは,だれでも知っています。

 しかし,逆に言うとだれもいない場所だし,障害物もないので撮影はやりやすい。

 みんなそういうことがわかっていて,ドラマの進行を見つめています。

 「いじめ問題を正面から見つめようとしない校長たちが犯人だ!」として手錠をかけてしまうあたりはコントみたいなドラマでしたが,お笑い芸人も「真面目」に「真剣な人」を演じているので,とりあえず刑事ドラマの枠内におさまっている,という感じでした。

 法律までできた「いじめ」への対策ですが,さすがに

 「いじめ」「恐喝」の加害者の一人を「校庭で見つけた銃で撃ち殺す」なんていう設定は現実離れしています。
 
 4歳の子どもがライフル銃で同じ4歳を撃ち殺してしまうような国とは違うわけです。

 が,小学生や中学生が,大人の書いたシナリオで踊らされて,
 
 商業的に利用されている姿を「幸せそうだ」ととらえる感性は私のような人間にはありません。

 人間を踊らせるシナリオライターのような教師にはなりたくないのですが,

 一部の小学校の教師がそれと全く同じように見えてしまうのは,目の錯覚でしょうか?


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心と頭の財産の貯め方(3) ~学校で育んだ「共通財産」の生かし方~

 前回,「道徳の教科書」を分厚い「読み物」=「本」にして,

 学校では日本人として最低限,知っておきたい,

 「心の財産」にしたい話をまとめ,共通の財産にしたい,という話を最後に書きました。

 その生かし方の案も提案いたします。

 この教科書に書かれた内容をもとに,「感想文」をどんどん書き,それを

 学校のHPを通じてどんどん公開しましょう。

 そこに,その学校の教師,他校の教師,他校の生徒,地域の方々,後輩となる小学生,などなどから,

 コメントをつけてもらいましょう。

 そして,「感想文コンクール」なんてものはなくし,

 いろんな生徒による,「心と頭への刺激のある」リアクションを共有し合って,

 より強く,

 より朗らかで,

 より日本の未来を明るくするような「対話」の場をつくっていきましょう。

 何%入るかわからない,誹謗中傷やからかいの内容の排除もたいへんな仕事かもしれませんが,

 それよりも「いい話」が読める確率は高いと思いますから,保護者のボランティアの方々に活躍していただきましょう。

 どんな内容を教科書に盛り込むか,それが最も悩み深い話ですが,

 その研究をする学校を100くらい選んで,素材となる文章をどんどん読ませて感想を書いてもらい,

 感想の内容を分析して絞り込んでいく手法はどうでしょう。

 朝読書の時間が輝きますよ。

 未来の輝きのためにもなる取り組みです。

 ・・・・もちろん,タブレット端末を生徒が利用できるような環境になれば,

 冊子の本はいりません。

 毎朝,朝読書の時間に配信すればよいのです。

 新聞社と提携する,という方法もありますが,今のように新聞社がそれぞれ偏りのある時代では無理でしょう。

 最後の頼りは,全く視聴をしない人からもお金をとっているNHKですかね。


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心と頭の財産の貯め方(2) ~学校における日本人の「共通財産」の築き方~

 どうでもいい記事の方が「注目記事」にあがってしまうと,何だか哀しいというか,恥ずかしいというか,複雑な気持ちになりますね。

 まともなことは書いていませんでしたから。

 何か資格をもっている人の言いなりになっていたら,幸せになれるんですかね?

同じ場所をぐるぐるとまわっていても,仕方がない。

 相談できる人は大切ですけど,最終的には自分で判断して,自分で責任を負える人間になりたいものです。

 さて,心の頭の財産の貯め方として,絶対にふれなければならないとすれば,

 それはもちろん「読書」ですね。

 「読書」は,本と暇と場所と明かりさえあれば,いつでもだれでもできることですし。

 読めば読むほど,蓄えられていく一方でしょう。

 「財産」というと,「正」の価値しかあてはまらないように考えられてしまうかもしれませんが,

 当然,「負」の経験,大失敗も「財産」になることは言うまでもありません。

 自然との戦い?で言えば,日本人はいつも負けてばっかりですね。

 「負けるのが当然」という考えはいただけないのですが,

 「準備したから勝てて当然」なんて考えは絶対にいけない。

 「想定外も想定している」なんて言っても矛盾してますからね。

 「読書」では,自分の失敗だけでなく,歴史上の人物の失敗も知ることができます。

 読んだ途端に忘れていくような内容もあるでしょうが,

 内容は忘れてもその精神は忘れない,なんていう発言を促してくれるような本がたくさんあります。

 たった今,思いついたので,提案です。

 多くの学校で,「朝読書」の取り組みが進んでいますが,

 「特別の教科」になる「道徳」の教科書は,分厚い「読み物」にして,こういう時間に生徒に読んでもらいましょう。

 どきどき,はらはらするような話ではないかもしれませんが,子どもたちの心と頭の財産になっていきます。

 道徳の時間には,読書の感想や,読書から得た知恵,自分の行動に生かしていきたいことなどを,

 「3年日記(週1回の日記)」のノートに綴っていく。

 「個人主義」だと,

 それぞれが好きな本を読めばいい,となってしまいますが,

 日本人全員が必ず読んで大人になっている,

 なんていう「共通財産」を築いていくような仕事は,やっぱり学校だからこそ,

 取り組む価値があるのでしょう。


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ドラマ 『明日、ママがいない』 をきっかけとした人権侵害

 教材として扱うものに対して,「発達段階」という分かったようで分からない基準によって,

 「それはふさわしい」とか「ふさわしくない」などと言われることがあります。

 そういう判断こそが「ふさわしくない」ことがなかなか分かってもらえません。


 「赤ちゃんポスト」を設置する熊本市の病院が,児童養護施設を舞台としたドラマについて,

>養護施設の子どもや職員への誤解偏見を与える

 として,人権の侵害にあたるから放送の中止を求めることになるらしい。

 病院の主張は,おおむね理解できるでしょう。

 ドラマの一部を見せて,その影響を子どもに考えさせることもできるでしょう。

 ドラマの制作者と病院の関係者という立場で,討論させることもできるはずです。

 ただ,今の学校現場では,ここまではっきりと対立が浮かび上がる,しかも現実の生々しい問題について討論させることができるほど,

 「足下」

 がしっかりしていない現状があります。

 さらに,「特別な配慮」を求める声が必ずあがる。

 そして,教材化を構想するだけで,「学習問題」は

 「消滅」していくのです。

 学校という場は,いったい何なのか。

 様々な問題は起こす。

 一方で,問題を起こさせないようにと,様々な成長の可能性をつぶしていく。

 
 差別とは何か。

 子どもの権利とは何か。

 
 子どもには目をつむっておいてほしい問題がある,という大人の弱さが,

 今の日本の最大の問題なのかもしれません。


 「視聴率」稼ぎのために,小学生の子役たちが奮闘する芸能界。

 そここそが・・・・。


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学校が子どもに提供するウィルス?

 浜松市の14の小学校で,同じ日に900人という規模の子どもと教員が体調を崩した。

 ニュースを見ている子どもの目はとても不安そうである。

 まだ原因は特定されていないようだが,給食はすべて自校でつくられていた。

 共通する食材に問題があったのだろうか。

 こういうニュースにふれるたびに,

 学校は安心できる安全な場であるはずなのだが,子どもを中心として大人数がまとめて被害を受ける場になることが,どうして防げないのだろうか,という憤りがこみあげてくる。

 だれも,意図的に悪いものを提供したわけではないだろう。

 しかし,「安全なはず」という「思い込み」だけで子どもに何かを提供していないか。

 これは,給食に限らない。

 ウィルスのような病原体に限らない。

 ウィルスよりも,もっと質の悪いものを,提供していないだろうか。

*****

 とりあえず,浜松市に聞いておきたい。

 管理職による給食の「検食」は,子どもが食べる何分前に行われたのか。

 子どもの健康や安全に責任を負っている者がだれかは言うまでもない。

 
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心と頭の財産の貯め方

 歳をとってしまうと,なぜか同じ話を何度も繰り返すようになってしまいます。堂々巡りで,まるで進歩のない感じ。

 自分で気づけるうちは,まだ大丈夫だとなぐさめています。

 さて,教師は日々の仕事は本当につらいし,ろくでもない事件を同じ「教師」が起こしてしまうので,被害にあった子どものことを思うと,気持ち的にも本当にきつい毎日を送っています。

 とはいえ,教師は子どもから「成長」という名の贈り物をもらうことがたびたびあり,それが次に進むためのエネルギーになっています。

 「いつの間にか背が伸びたなあ」とか,

 「いつの間にか,打球に勢いがついてきたなあ」とか,

 「いつの間にか,言うことが大人っぽくなってきたな」とか,

 自分が歳をとっている証明を子どもの前でするようになると,教師としての「終わり」が見えてきそうな気がします。

 心は満たされたり,空っぽになったりする「気」になることもありますが,

 心の財産が入るスペースに限りはありません。

 頭の方も,同様です。

 どちらかというと,頭の方は,自分で鍛えなければならない分,なまりがちです。

 授業を見る。

 授業を見てもらう。

 1年に何度できるかで,「頭の財産」の殖え方も変わってきそうです。

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支持している候補者がよくわかる?各新聞社

 本日の朝日新聞と読売新聞の朝刊は,メディアリテラシー教育にはうってつけの「教材」です。

 新聞社が,どの候補者を「支持」しているかが中学生でもわかるようになっています。

 朝日新聞では,最初に出てくる個人名は「小泉氏」です。

 候補者のうしろで,安倍総理と小泉元総理が向かい合って対決するような構図をつくりだし,
 
 「脱原発 争点に」という文字が最大の大きさで示されています。

 図をよく見ると,舛添氏は安倍総理の「原発活用」派よりも,「脱原発派」の方に近いことがわかりますが,そう考えると,舛添氏のすぐ後ろに安倍総理が描かれているのはおかしいことになります。

 今は新聞社自体が個別の政策について,特定の考え・方針を掲げているような時代になっていますから,当然,支持する候補者も決まってきて,「偏り」がいくらでも出せるようになっているのです。

 一方の読売新聞では,「舛添氏」が最初に来て,「細川氏」よりも文字の大きさが大きくなっています。

 候補者以外の顔写真は掲載されていませんが,細川氏の方は後ろに二人の顔の一部が写って,暗い印象になっているのに対し,舛添氏の方はバックが明るく,顔の輪郭がはっきりしています。

 朝日新聞は何もふれていないのに対し,読売新聞は,細川氏が首相を辞任した経緯について,また,猪瀬前都知事の問題にもふれて,「政治とカネ」も重要な争点の一つ,としています。

 ここまでそろえば,中学生にもう何も説明する必要はありません。

 新聞は新聞。自分の考えを,しっかりと持ちましょう。

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懐かしい頑固親父とご隠居さん

 NHKのニュースにいちゃもんをつける頑固親父はもういなくなってしまったのかと思っていた。

 また,もう「ご隠居さん」と呼んでもいいような人が,大勢の記者に囲まれているのを見て,

 なぜか昔,テレビを通して大人気になった「きんさん,ぎんさん」を思い出した。

 10年以上前,石原都知事にある表彰式でお会いしたが,近くで見るとそのときでもすでにかなりの高齢の方に見えた。

 せめて50歳代くらいの人が活躍できないものかと考えた時,

 私たちの中学校現場で,50歳になろうとしている人から30歳代くらいの人はかなり少ないことに気づいた。

 リーダーはそもそも,大きい集団で,もまれてたくましくなった人から誕生する,という話が正しければ,

 リーダー氷河期が間もなく訪れ,

 きんさん,ぎんさん級の人がトップに立っていないといけないことになってしまう。

 それにしても,選挙前の露出度の違いはどうだろう。

 取り立てて視聴率がとれるような大きなニュースがないからこういうことになっているだけと言えばそれまでかもしれないが,「刷り込み」の恐ろしさを思い知ることになるのかもしれない。

 
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教育の衰退を止めるための最後の手段

 各県で教員採用試験をつくるような立場の人と交わした会話で印象に残っているのは,

 採用数が限られた地域の場合,合格できる人が女性ばかり,

 それも,学校時代から部活動をバリバリやっていたようなタイプではなく,
 
 休み時間も教室で本を読んでいたような静かでまじめで点数がよくとれる人が毎回採用されていく。

 しかし,せっかく採用されたのに,学校現場ではなかなか力が発揮できないで辞めていく人もいる。

 こういう話を聞くと,大量採用の時代というのも,決して悪くはないかなと思ったりもします。
 
 しかし,大量採用が始まっている地域の人から話を聞くと,

 もう学力水準はおろか,規範意識まで崩壊しかけているところがある。

 学級崩壊など,当たり前のように起こる。

 それでは毎週のように教員の犯罪が報道されるのは無理もないことと思われてくる。

 この両極端な問題を解決するには,もう「学校統廃合」などという悠長なことは言わず,

 「学校数大幅削減計画」をスケジュールにのせていくしかないかもしれません。

 以前にも紹介したとおり,

 大量採用時代の教員たちがこれからまとめて退職していくと,

 学校現場を直撃するのは

 「管理職不足」の問題です。

 もう「優秀な人材」とか言っている場合ではなくなり,

 頼み込んで「管理職になってもらう」しかない。

 そんな状況で,公教育がよくなるとは思えません。

 高校の数を減らして,高校の校舎・敷地を小学校や中学校のものにする。

 大規模な小中学校を増やすことが,教育の衰退を止める最後の手段になるかもしれません。

 このようなシミュレーションができる人はどこかの大学や教育行政の事務方にいないでしょうか。


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生徒会活動の「始まり」は「終わりの始まり」でもある

 「言語活動の充実」は,教科よりも,特別活動が先です。部活動も同様。

 生徒が「自分の言葉」で「自分の考え」を表現できる場だからです。

 ですから,生徒会活動などは,「生きる力」を育む上で,非常に成果が上がりやすいものの一つです。

 ある人は「教えたがりを軽蔑する」と言いながら,何だか支離滅裂なことを書いていますが,

 私は「生徒が成長していないのに,それに気づいていない」人に「気づいてほしい」という一心で,本日の記事を書くことにしました。

 生徒会役員の仕事の「終わり」とは何でしょうか。

 それは,次の役員への「引継」です。
 
 次の役員への「引継」がどのようになされたかで,役員の評価を決められると言っても過言ではありません。

 行政の仕事の話にいきなり飛びますが,

 行政では,担当者が変わっても齟齬のないように,徹底的な「引継」を行います。

 3日や4日では終わらない「引継」もあります。

 そこで「すべてを伝えきること」が,前任者の役割です。

 「だれだれさんは,どんな料理が好みか」「どこ出身か」まで話が及ぶこともあります。

 「新参者に厳しい」とか,「若い人に厳しい」とか,

 後任の人が変な誤解を抱き,せっかく深められるはずの協力関係を失ったら気の毒なので,

 「そういう人ほど,信頼を勝ち取ったときの力強さはない」などと伝えたりもします。

 もちろん中学生にも例として話し,分かっておいてほしい人間関係に関するエピソードでもあります。

 さて,中学生は,仕事が始まると,目先の仕事をどうやってクリアしていくかで頭がいっぱいになってしまいがちですが,大切なことは,次の役員にどうやって今の仕事の流れを伝えられるかということになります。

 それが「始まり」は「終わりの始まり」でもある,という表題の意味です。

 生徒会役員を担当する教師も交代してしまうかもしれません。

 こういうとき,次の役員が頼りにすべきなのは,新任の教師ではなくて,

 先任の生徒会役員=先輩なのです。

 教師は「仕事が多い」「忙しい」と言って,このような

 「生徒が生徒にきちんと引継を行う」という指導を怠ってしまうことがありますが,

 そのためにまた自分が一から指導しなければならないことになってしまい,時間を失うのです。

 社会人として身に付けるべきスキルを,

 生徒会役員なら学校で習得することができます。

 それが習得できていないのは,学校の教師の方かもしれません。

 「社会科」って,こういう「社会人の仕事のスキル」を学ぶ時間じゃないんですよね。

 「引継」を1か月後の(たとえば試験期間の)自分のために,自分がノートで行う,

 なんていう考え方をすれば,「勉強の仕方」にも応用できるスキルになります。 


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「第三者」がいることの重要性

 読書編に示した『「分ける」こと「わかる」こと』(講談社学術文庫)の教訓

 ~分類をつくる際には,必ず,「その他」や「雑」の項目をおいておくことが有用である

 について,歴史的な内容を補足しておきたい。

>近代の科学は中世の(ママ)確立された学問,つまり法学・医学・神学とは別のところ,つまり自由七科のなかから,しかも七科とは別のものとして発生した。

 中国の古典の事例も示されている。

 今の世の中には…特にブログの世界の住人には,

 「自分と同意見でないものはすべて敵だ」というスタンスを露骨にとる人がいる。

 本の中ではスターリンが事例として挙げられている。

 ここに,「第三者」が入る余地があれば,歴史は変わっていたはずである。

 日本の対外関係史を二国間だけの問題で捉えるのではなく,

 「第三者」の力の有無で考えてみるのも面白いかもしれない。

 日露戦争のときのイギリスやアメリカを分析をする見方である。

 教員が何か研究をするときも,「第三者」の存在は有効的だと思われる。

 ある指導法に「賛成」「反対」と分かれている場に,

 「両方とも反対」という立場や,「両方ともたいして違いはない」と考える立場が登場してくると,

 無駄な議論をせずに全く新しいものができるようになるかもしれない。

 こういう点では,小中連携事業に,高校や大学の先生が入ってくること,

 教科が異なる人に意見を聞くことも,意義があるだろう。


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どうしても抜けない「添削癖」

 教員には,日常生活でもなかなか抜けない「癖」というものがあります。

 それは,書かれたものに「誤りがないか」と探してしまう癖。
 
 「シミュレーション」を「シュミレーション」と書かれてあったりすると,気になって仕方がない。

 そして,私もそうなのですが,人の書いたものは何度も読み返すことができるけど,

 自分の書いたものはあまり推敲しない。

 推敲しないわけではなくても,おかしいところがたくさん残ってしまう。

 そういうときは,人に自分の文章を読んでもらうに限ります。

 このようなブログは不特定多数の人が読んでくれますから,親切な人は教えてくれるかもしれません。

 これを「おせっかい」なんていうふうに受け止めるのが,

 「指導力のない教師」に典型的に見られる姿勢です。

 こういう教師は,自分の授業を人に説明したがらない。見せたがらない。

 ブログの宣伝文句に,授業で役に立つことを書くとか,具体的な指導法を書くとか言いながら,何も書けない人がいる。

 人にそれを見せて,あれこれ言われるのが嫌なんですね。

 そもそも見せるもの,書くものなど何もないかもしれない。

 こんな人間にいくら研修を受けさせても無駄です。

 一番いい研修は,自分の授業を見せて,そこにどんな問題があるかを指摘してもらうこと。

 そういう研修を受けない限り,教師は変わりません。

 ただ,せっかくの指摘に耳を傾けなかったり,自己反省を全くしないのがいますが。

 これこそ「指導力不足」を超えた「不適格教員」なのです。

 普通の学校の教師には,「研究成果」を文章にする成果があまりありません。あまりというか,一度もそういうものを書いたことがない人が大多数でしょう。

 「研修は何をしているのか」の答えを,明確に答えられる教師はどのくらいの割合でいるのでしょうか。

 「こんな本を読んでいる」ことで「研究と修養」に結びついているとは言えないでしょう。

 研究は,個人ではなく,組織で行うのが一番です。

 4人の組織なら,1年に1回,1人が「研究発表」する。

 その発表のための資料を事前につくり,4人でああでもない,こうでもない,とやる。

 中心は1人でも,4人の協同作業のように進める。

 こうやって「人のおかげで研究ができている」と実感できることが,

 教師には絶対的に必要です。

 そして,そういう研究ができた人は,

 たとえば社会科の授業なら,決定的にそのスタイルや思想が変わってきます。

 社会科とは,何をどのように学ぶのがベストの教科なのか。

 4人1組で試行錯誤させて,ある程度の時間で判断させ,それなりの結論を出させ,発表する。

 そして他のグループからも意見をたくさんもらう。そしてさらに見直し,検討を重ねる。

 そんな授業を年に1回くらいはしたいものですね。

 「おかしいこと」「誤っていること」の指摘を受けることに,何の抵抗もない人間でないと,そういう子どもを育てることは不可能です。


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「ゆとり教育はダメだ」という「あせり」感が目先の数字を改善する

 「ゆとり教育」を評価する声も出始めている,という記事が目にとまりました。

 内容は,学力の問題から逸脱してあくまでも「生きる力」の面に光をあてるものなので,私が予想していたものと違っていたのですが,文部科学省の「基本方針」は「ゆとり」のときも「ポストゆとり」になっても変わっていないことを指摘しているのは重要なことです。
 
 PISA型学力の伸びに関する私の考えは,学力低下の危機感から「ポストゆとり」の教育への転換が求められ,学習指導要領が改訂され,教科書が変わり,教師も勉強し直さないといけなくなったことが背景にある,というものです。

 危機意識が仕事の見直し・改善・充実を促し,一時的には成果が上がる,というのは,

 教育現場だけでなく,どの業種でも言えるのではないでしょうか。

 マンションの勧誘電話が頻繁にかかってくる背景には,いろんなことがあるのが想像できます。

 学習指導要領が変わるときが,教師たちが一番勉強し直さないといけないときなのです。

 免許更新講習などやめて,10年経験者研修を継続することを私は主張しましたが,

 ほぼ10年の間隔で改訂されることをふまえ,学習指導要領改訂期に,すべての教師が研修を受けるようにすべきだ,という考え方も大事だと思われます。

 もちろん,意識の高い教師,学び続ける意欲や使命感をもっている教師は,自腹を切って各研究会に参加しています。

 しかし,すべての教師ではない。

 もし,すべての教師が同じ時期に研修を受けるとすると,そもそも施設などのキャパシティがない。

 だから,時期をずらして研修できる免許更新講習のようなかたちになってしまう。でも,「学ぶべき時に学んでいない人」を放置する結果にもなってしまう。

 私なりの対策は,ネット上でいつでも閲覧できる「講習」を用意して,簡単なレポートを全教員に課すことで,かろうじて,同じ質の教育を提供できることが保障できる,というものです。

 いずれにせよ,「大昔のままの教え方でよい」「教科書が出てから考えればよい」「教科書会社の指導書どおりにやっていればいい」では通用しなくなった現実が,ようやく教師たちに意識づけられたことを「学力向上」の要素と考えてみたいのです。

 教師が変われば学校が変わる。生徒が変わる。

 よく言われることですが,残念ながら,危機意識に伴う一時的な「あせり」によって「ゆとり」を乗り超えた,と言っているうちはダメなのです。

 
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小学校の社会科,もう少し「伸び伸び」できないか?

 社会科に限らず,小学校の授業研究では,

 参観者の批判対象が教師の一挙手一投足に及ぶことが多いですね。

 「伝統」のようなものなのでしょう。

 中学校の教師から見ると,授業中の事細かな動きよりも,

 授業以外の時間帯での子どもとのやりとりの中にこそ,批判すべき対象となる行為(なしていないことも含めて)があるのではないか,という気がしますが,ここでは授業中の話だけにします。

 「子どもたちは伸び伸びと発言できた」という感想が出されることがありますが,

 私から見ると,次のような印象になる場合もあります。

 「子どもたちはいつでも教師と結びついていなければならない緊張感にさいなまれていて,かつ,発言機会が与えられる子どもは4人に1人以下なので,これは『伸び伸び』とは呼べないのではないか」

 中学校や高校では,授業では発言しない生徒が多くなりますね。

 小学校の教師は,このことを「おかしいこと」と感じる方が多いでしょう。

 しかし,見方を変えると,この方が「伸び伸び」しているとも言えるのです。

 自分の考えたいことを考えているかもしれないし,そもそも何も考えないでぼーっとしているかもしれない。

 こういう「伸び伸び」もあり得ます。

 中学校に入ると,「演技しなくてすむ」ことに安らぎを覚える子どもが増えてきます。

 それに気づくまでに,やはり1年くらいかかる子もいますが。

 小学校の授業研究のねらいは,

 「いかに教師が子どもを自分のコントロール下におけたか」

 を検証することにあるように見えます。

 そのコントロールが利いたかどうかの判断基準は,

 ある一つの学習課題に収れんできたかどうか。

 ある子どもはAを考えたい,ある子どもはBを考えたい,では,アウトなんですね。

 全員がAを考えようとすることが,大事なんだそうです。

 そういう研究があってもよいのかもしれませんが,

 「教師がいなければ子どもはどうするのか」

 という問いに答えてくれる気はないでしょう。

 「自ら学び,自ら考え」というフレーズが消えていく経緯も分からないではないですが,

 ある子どもがAを考えて,別の子どもは他のことを考えることが,それほど悪いことなのでしょうか。

 少人数指導をするにしても,みんなで同じことを考えるのなら,人数を減らす意味はないと思うのは私だけでしょうか。


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教育界への「信頼」の糸を断ち続けている教師・教育関係者たち

 教育界が信頼されない理由の一つが,分かっていない人間が平気で分かったようなことを言うことにあります。

 教育現場から離れてしまうと,日々,子どもと向き合えないということが,最大の「退化」原因になってしまいます。

 現場経験のない大学の先生の中には,

 理論でうまくいくと思うなら,そのとおり,自分でやってみろ!

 と言われて,ごくまれにチャレンジする勇気のある人もいるのですが,

 1度くらいは切り抜けても,そもそも仕事のかけもちができるわけもなく,理由をつけて逃げ出してしまう。
 
 「教育学はエセ学問だ」と考える「実践家」が多いのも無理もないことなのです。

 日々,子どもたちと向き合っている人間だから言えることと,

 「それ」を言ってはいけないと判断できることがあるのです。

 教育現場で,本当に「お荷物」だったことが分かってしまう人がいる。 

 子どもが「反発」するのは,ちゃんと理由があるのです。

 「指導力のある人」が「反発」されず,「指導力のない人」が「反発」のターゲットになっている例は,どの人でも経験から思い浮かべることができるでしょう。

 「指導力のある人」から学ぼうとする意欲のない人は,「指導力って何のことだ」ととぼけて,自分と相手の何が違っているかをまともに考えようとしない傾向があります。

 「自己評価能力」の欠如というのは,人から信用されない原因の一つであることに気づけない。


 近年,授業の展開はともかく,

 長いスパンで考えるべき子どもの指導を単線系のモデルで考える人はいません。

 スパイラルがモデルとして使われますが,

 それも分かったようで分からない。

 学習に「終わり」はありません。

 「始まり」は,いつでも訪れます。

 子どもたちはもちろん,教師たちにも,問い続ける態度が必要です。

 「教育的ナントカ」と訳が分かっているようなことを書いても,

 結局,自分が手抜きをするための口実にすぎないことがわかってしまう。

 失敗したら,子どものせいにする。

 こういう苦い思いを経験したことがある大人世代の人もたくさんいるはずです。

 教師の中で,生徒に心から信頼されている人は,実質的にどのくらいいるのでしょうか。

 親にも相談できないことを子どもから相談される教師はどのくらいいるでしょうか。

 子どもはいずれ自立しなければなりません。

 が,そのためには,頼るべきときに頼るべき人が近くにいることは大切です。

 教師は,自立しなければなりません。

 自分を頼りに教育できる,そんな教師でありたいものです。

 社会科は,未来の社会をよりよく生き,よりよく変えていってくれる人を育てたいのです。

 しかし,その社会科も学ぶ学校の教師が,社会科で学ぶべき姿とかけ離れた状態であることはおかしい。

 今日も見たくもないニュースを目にすることになってしまいました。

 実名を挙げられた教師にも,親がいたり,子どもがいたり,配偶者がいたりするわけです。

 本人以外が背負っていくものの重さは,はかりしれません。

 被害者も同じです。被害者にも,親がいる。将来は,被害者も親となる。

 とても悲しい現実です。


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謙虚な人間と謙虚でない人間の違い

 謙虚な人間は,批判を受けたとき,その内容を真摯に受け止め,直すべきところは直す。

 謙虚でない人間は,批判を受けたとき,批判をするような姿勢に腹を立てる。

 
 謙虚な人間は,批判を受けている自分自身を見つめることができる。

 謙虚でない人間は,人に謙虚さを求める。


 謙虚でない人間は,人間として醜い。


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発表中心の「言語活動」よりも「考える活動」の充実を!

 「見栄え」がする授業ではなく,

 本当に生徒に力がつく授業をしましょう。

 言語活動の充実をテーマに,さまざまな研究が行われています。

 比重がかかっているのは「表現」活動ですが,

 「表現」は「口頭」とは限りません。

 授業では,「口頭」表現一辺倒で,時間が無駄に使われています。

 特に小学校。

 歯止めを設けましょう。

 そして,「考える活動」を重視しましょう!

 「考える」ときって,人間,すごく集中しないと,うまくいかないですよね。

 まわりも集中してくれていると,「考える」ことに没頭できますよね。

 そういう姿が小学生には似合わないなんて固定観念は捨てましょう。

 どんどん書かせましょう!

 いろんな資料を使ってもいいじゃないですか。

 教師がいろんな資料を提示してあげてもいいじゃないですか。

 「一つにまとめる」という教師の都合を優先して考えるのは,やめにしましょう。


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危なすぎて読めないブログ

 このブログには,「指導主事」というキーワードを通して訪問される方がときどきいらっしゃいます。

 「指導主事」がそもそも何者なのか,知ろうとする方,

 「指導主事」になりたいと思っている方,

 さまざまだと思いますが,

 きっと,現役の「指導主事」の方は見ることはないでしょうね。

 そもそも職場ではこんな危ないブログを開くことはできないでしょうし,

 家に帰ってパソコンを開く時間などないでしょうし。

 通勤時間にスマホでご覧いただく方法があるかもしれませんが・・・。

 「指導主事」の仕事は基本的に,先輩のやっている通りにやることが要求されるから,

 法律や答申のダイジェストなどは役に立つかもしれませんが,

 どこのだれが書いたか分からないようなものを参照するような脳は停止しているでしょう。

 新しいことを考えて試してみる,なんていう,現場の時代に経験できたことは

 指導主事になるといっさいなくなります。

 時間に縛られ,法律に縛られ,「教育委員会としての見解」に縛られ,

 過去の人がつくった文章に縛られる。

 「ここがこういう意味でおかしい」という文章を発見しても,直せない。

 発見しなかったことにしなければならない。

 ・・・・・・

 もし,こういう指導主事などいらない,もっと,学校現場のためになることだけを考えてくれれば,それでいい,

 なんていう方針が橋下市長にあるのなら,

 あるいは,他の教育委員会から,優秀な指導主事を引き抜いてくることが可能かもしれませんね。

 前回の記事を書いた後にすぐ思いついたのが,

 最低限の法律と市長の方針にさえ沿っていたら,何をしてもいい,

 という裁量を与えた上での「指導主事」を公募して任用するなら,

 全国の優秀な指導主事の中から引き抜いてくる方がいいのでは?と・・・。

 きっと,「やりたくてもできない」ことを山ほどかかえている指導主事は,何百人単位でいると思いますから・・・。

 そもそもこんな記事でも人の目にふれないと何の意味もないのですけどもね・・・。

 
 
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小中高一貫校の理数教育で,「受験学力」を追い抜くことは可能か?

 東京都の小中高一貫校構想は白紙に戻されたそうである。

 4・4・4という変則的な区切りによって,途中で入ったり出たりするのが
 
 困難な「ガラパゴス学校」となる可能性があった。

 個人的には,小学校「お受験」をさせられる子どもは不憫でならない。

 地域と切り離されて,親のエゴに6歳から(実際にはもっと前からか)

 付き合わされるわけだから。

 いやいや,そんな一面的な見方はおかしいだろう,という立場ももちろん理解できる。

 そもそも画一的な教育制度自体が問題なのだと。

 しかし,今のような日本という国のなかで,

 「他と違うこと」が本当にメリットとなるのかどうかは分からない。

 「分からないからこそ,やってみる価値がある」というスタンスは素晴らしいが,

 平成10年版学習指導要領と同様,

 「やってみたがダメだった」

 という結果になったら,子どもは気の毒である。

 タイトルの内容については,

 そもそも「中学受験」「高校受験」が「悪いこと」とされている前提そのものへの批判も含めて考えなければならない。

 受験を経験して中学校に入学した子どもは,

 あの「受験算数」を学習している。

 小学校のカリキュラムにはない学習を通して,相当に「考える力」を鍛えられている子どもと,

 そういう経験がない子どもの「考える力」は,大学受験の段階になってどのくらい差があるのか,それともないのか。

 予備校関係者は自分に有利ならそういうデータを利用するだろうし,不利なら知っていても公開しないだろう。

 予備校の財産は教材(模擬テストも含む)である。

 予備校がもっている教材は,生徒になれば全員が手に入れることができるから,オープンなものである。

 「学校でこういう教材を授業で使ってほしい」などと真剣に考える小学校の保護者がいてもおかしくはない。

 そういう意識のある親は,通信添削などを利用して子どもに学ばせているのだろうが。

 今後,設立に向けての動きが再開されるかもしれない「小中高一貫校」では,

 「理数系に力を入れる」ことで,どのような資質・能力が育つのか?

 せっかく「ゆとり」のためにつくられた都立の中高一貫校は,結局,大学進学実績で評価されるだけの「ふつうの高校」になってしまった。

 一部の教師は嘆いているかもしれない。

 確かに,小学生から,優秀な子どもたちを集めることはできた。

 しかし,高校受験を経験しないことで,この子どもたちの可能性はどのくらい奪われてしまっているのだろう?

 今は,どの高校も業者テストを実施させているから,学校ごとの成績はお互いによく知りあっている。

 国語や数学,英語の教師たちは,この業者テストの点数に一喜一憂する生活を送っているのかもしれない。

 一貫教育は何のために立ち上げたのか?

 「優秀な子どもを先取りするため」でしかないとしたら,小中高一貫なども似たような結果になっただろう。

 しかし,さすがに「小学校入学時点」で高い意識をもっている親の子どもたちを集めると,途中で学力の定着度が低くなってしまった子どもがどういうことになるのか。

 その実態を知る人間は少ないだろう。

 子どもを気の毒がっている場合ではない。

 教師の責任もたいへん重いものである。

 
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橋下市長へ ~「優秀な指導主事」は公募では集まらない~

 橋下市長が指導主事の公募を検討しているようです(産経新聞のニュースで見ました)。

 指導主事の任用制度は都道府県によって異なるのでしょうが,

 東京都の場合は,都で選考をして,都と区市等に配属しています。

 横浜市や大阪市のように大きい市なら,独自で選ぶこともできるのでしょう。

 校長と違って,給料が教員と同じ,給与体系も役所の事務方ではなく教員と同じである

 指導主事というのは,「残業代がかからない」=コストのかからない

 使い放題の人間たちです。1日16時間くらいは電車で帰れるから当たり前に働けますね。

 これは学校現場も一緒ですが。

 一人分の給料で,時間は二人分,仕事の量は普通の教員の二倍以上はできるでしょうから

 最低でも四人の人材を一人分のお金で使える,というのが指導主事です。

 指導主事のままだと生涯賃金が安いままで気の毒だから,たいていは校長になって退職する。

 教員のころから,「いつ寝ているんだ」と言われるくらい仕事をしている人ばかりだから,

 役所に入ってタクシーで帰宅するようになっても,体だけは丈夫。年休をとることもない。

 教員時代は土日も部活動の引率があるから大変なのですが,

 指導主事になると土日は休める。これでトントンという感じでしょうか。

 国の官僚なら残業代は出るんですよね。

 都庁でも,残業が当たり前の部署がありました。

 どこかの市役所かどこかが,あり得ないほどの残業代を出して,

 超高額所得者を出していましたが,

 指導主事に金はかからない。

 私は指導主事になって,拘束時間は長くなりましたが実質的な仕事量は

 現場の方が何倍も多いので,別に給料は高くなくても不満になることはありませんでした。

 むしろ不満になったのは,やりがいのある仕事(教育)ができなくなったことの方。

 で,本題ですが,

 「優秀な指導主事」は「公簿」では集まりません。

 これが「指導主事」の「指導主事」らしいところです。

 現場でフル回転して,この人がいなければ学校がまわっていかない,研究が機能しない,という人を任用しないと,そもそも学校への指導なんてできません。

 だから,地区で力のある校長から,「お前,やれ!」と言われて,

 「直属の上司の命令ではないけど,世話になっているから断れない」という従順な人が,指導主事になっていく。

 だから,校長会への指導ができなくて,大阪市が動き出したんでしょうね。

 あれ?そうすると,

 「優秀な指導主事」を任用するにはどうしたらいいの?

 ・・・そうです。「優秀な指導主事」など,どこにもいないのです。

 優秀な指導主事とは,優秀な指導主事と学校現場に鍛えてもらってこそ,誕生するのです。

 「公簿」ではダメ。

 無理矢理,引き抜かないと。

 市長が高い実績を残している教員を探して,

 実際にその人物に会って,

 「高い志を持った人間かどうか」を確かめる。

 これしかないと思います。

 FAじゃ,だめなんですね。

 絶対に相手が離したがらない人を,無理矢理にでも引っ張ってこようとしないと。

 もちろん,中にはいるかもしれませんよ。

 金銭的な見返りを求めるような人は絶対に公募に応じませんから,

 本当にやる気がある人が来るかもしれない。

 繰り返しますが,はじめから優秀な指導主事はいない。

 それを育てる環境がないとダメです。

 全とっかえもダメです。

 地道に,長い時間をかけて,取り組まないと。

 
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高校で日本史を必修にしても・・・

 英語教育にしろ何にしろ,

 政策で日本史を必修にしたところで,

 ねらい通りの成果が簡単に出るわけではない理由を,このブログでは再三に渡って書いている。

 「日本史軽視」の風潮は,「国際化への対応」から

 世界史を必修にしたことだけが背景になっているわけではない。

 世界史は西洋史中心とはいえ,とにかく窓口が広い。

 一方の日本史は,奥行きが深く,高度な教養も必要とされる。

 大学ではそもそも地理を専攻にしている人が少ない。

 高校地理歴史科の地理だけでなく,日本史や世界史を不安なく指導できる人は決して多くはないだろう。

 大学で専門的に学ぶのは,高校では学習しないような特殊なことを対象にしていることも多いはずである。

 前にも書いたが,ある大学生が「知識がないと(社会科の教師になるのは)きついですかね」と質問してきた。

 「知識のあるなし」は程度にもよるが,やはり「教科書程度の知識」で教えるのはきついだろう。

 高校での教育を,あえて大学への進学を見すえたものと,そうでないものとに分けるとするなら,両方のニーズを満たさなければならないというつらさもある。

 しかし,教師として大事なのは,教師自身がどのような「学び方」を体得し,それを生徒の学力の水準に合わせながら,「学ぶことの意義」が伝えられるように指導することである。これは最低限のこと。

 教師の専門性が高くなければ,日本史の授業などただの暗記でしかなくなる。

 ひたすらプリントの穴埋めをさせられる結果になるだろう。

 学習指導要領解説では,「歴史的な考察」の基本をきちんと示しているが,

 以下のような課題意識をしっかりもって,焦点をしぼり,それなりの論述ができるようになる高校生はどの程度いるのだろうか。
 
 *導入で生徒に自覚させる学習課題の例

 ① どういうことか(事象の意味・内容)

 ② いつから・どのようにしてそうなったのか(事象の起点・推移の過程)

 ③ 何・だれがそうしたのか(事象の主体)

 ④ なぜそうなったのか(事象の背景,事象間の因果関係)

 ⑤ 本当にそうだったのか・何によって分かるのか(事象の信憑性,論拠)

 ⑥ 他の地域や時代とどういう違いがあるのか(事象の特殊性・普遍性)


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小学校時代に「日本史」を学なばい日本人と「アメリカの通史」を学ぶアメリカ人の違い

 日本史を必修にする,という政府の方針を聞いて,

 「高校で日本史を学習しないでよい仕組みがあったのか」

 と逆に驚いた方がいるかもしれない。

 「国際化への対応」という観点から,世界史は必修とされた。

 しかし,自国の歴史への理解がない「国際人」「グローバル人材」などいない,

 ということがやっとわかって,「日本史」必修にたどりついた,という次第である。

 東京都は独自の方針で,すでに都立高校における日本史を必修にしている。

 特に,「江戸の歴史」を大切にする,というメッセージがきいている。

 これまでは,大学入試(センター試験)の弊害で,試験勉強の負担にならないよう,日本史を選択しないという「工夫」ができた。・・・というように,大学入試というのは「本当の勉強」の弊害になっている。

 「世界史未履修」を隠しているところも,さすがに「必修日本史未履修」というのは無理だろうから,

 学習指導要領が改訂されるとほとんどの日本人が高校で「日本史」を学ぶことになる。

 ところで,中学校の歴史学習は,基本的には日本史の通史学習である。世界史は,日本の歴史の動きと関係が深いものに限って学んでいる。

 小学校6年生では,歴史上の人物にスポットをあてて,各時代におけることがらを学ぶ。

 小中高と「日本の歴史」を国が学ばせることの意義は何か。

 これから,小学校の歴史学習,中学校の歴史学習についても「問い直し」が行われるだろう。

 民主的ではなかった時代のことを延々と覚えさせられている日本と,

 植民地時代→独立戦争と新国家建設→南北戦争→インディアン戦争→WWⅠ→WWⅡ→冷戦

 という「戦争の歴史」を通して民主主義の意義を考えさせるアメリカとでは,

 歴史教育を通して描けるようになる「国家像」がかなり異なっていることは言うまでもない。

 日本ではやたらと「学び方」にこだわる(小学校の教師ほど,「学習課題が何か」とか,「学習過程がどう」とかにうるさい)。

 だから,当然,子どもは「読み物としての歴史」に授業でふれることはないし,わずかな資料をたよりにああでもない,こうでもないと意見を発表させられるだけで終わってしまう。

 アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書は,対訳が出版されている。

 日本の小学生に同じような教科書が使えるかどうか,一度ゆっくり考えてみるのもよいだろう。


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学校統廃合は市区町村の合併よりも大事

 自民党の教育再生推進法案の素案に,国が学校統廃合に積極的に関与できるという内容が含まれているそうである。

 今後の日本の教育水準維持のためにも,絶対に欠かせない施策であることは今までも述べてきた。

 「地域の学校がなくなること」に対する反発が多い地域では,学校を設置している市区町村はなかなか手が出せないことだったが,国が関与するとなると,予算的な措置も行われることを意味する。

 反発が大きいのはもともと人口が少なく,児童生徒数が限られている地域だろうが,今後,中規模の学校が増えてくると,その「魅力」にだまっていられない親が増えてくることだろう。

 施設が充実するようになる。

 優秀な教師を育てる条件が整うようになる。

 中学校なら,部活動がさかんになる(種類が増え,選択肢が増えるようにもなる)。

 学校行事が盛り上がる。

 学校内での切磋琢磨が進む。それは子どもだけでなく,教師たちにとっても。

 教師(公務員)を無駄に増やさなくてすむ。

 固定化した人間関係の中で苦しまなければならない子どもが減る。

 学校数が減ることによって,今後,市区町村の合併もやりやすくなるはずである。

 人口減少社会へのスムーズな移行を実現させるためにも,

 日本らしい「集団の力」の良さを見直すいい機会となる。

 これが,すばらしい施策であることを市民に納得させられる政治家がどのくらいいるかだけが懸念である。

 反対する政党がどこかは子どもにもわかることだろう。 

 社会科の教師にとって,近くの学校との統合に,どのような意義を見いだせるか,子どもに問うという授業も成立する。そこで明らかになる,「市民感覚」の質をどう評価するかは,それこそ「市民」の仕事である。

 以下の記事もご覧ください。

 下村新文科大臣に「主張」してほしいこと(2012年12月29日)

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「思考体力」を失った人の書く文章

 読書編で取り上げた本に関連のある話題です。

 「思考体力を失った人」は,おそらく「思考体力」という言葉そのものに拒否反応を示してしまうでしょう。

 別に,「年をとった人」に限った話ではありませんが,

 「聞きなれない言葉」

 「聞きなれている言葉だが,自分の知っている使われ方と異なる方法で使われているもの」

 に不快感・違和感を覚える人は,要するに
 
 思考の柔軟性を失った人間です。

 思考体力を失った人には様々な問題があって,

 一つは

 「そんな言葉の使い方は許せない」

 として思考停止してしまう場合,

 他には

 「その言葉には確かな定義がない」

 として思考停止してしまう場合。

 「その言葉の意味が分からない」

 として思考停止してしまう場合。

 共通点は,「考えるのをやめてしまう」ことにあります。

 学校の教師にも,

 「学力って何だ?」と法律も学習指導要領も教育書も開こうとせず,

 「勝手なことを言うな」と開き直る人間もいれば,

 「言語活動の充実って何?」と「意味がわからないので何もできない」と開き直る人もいる。

 調べればすぐに分かるところに書いてあるのに。

 つまり,「やる気がない」=「自己駆動力がない」ことも問題なんですね。

 自己駆動力がない。

 思考の段階を駆け上がるような力がない。

 「それで自分はいいのか」と疑う力がない。

 大局観をもてない。

 
 選択肢を増やしていく力がない。

 連想やひらめきを生み出す能力も度胸もない。

 創造性の一かけらも感じられない。


 こういう教員と長く接するのは,特に子どもたちにとっては「危険」なことです。

 ということはつまり,日本の将来にとって「危険」なことです。

 子育ては,大変なんですよ。

 子どもは本当にかわいいけど,

 夜中に起こされる経験を何度かしてみて下さい。

 永遠には続かないことがわかっているから,耐えられるんですけどね。

 ただ,永遠に終わりそうもない世迷言の連続は目障りで仕方がありませんね。


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教員免許更新制度に「実技検査」を導入?

 無免許で成功している人に厳しい一方,免許をもって失敗している人にやさしい世界。

 まさか「自動車運転免許はいらない」という人はいないでしょうね。

 しかし,「教員免許があっても・・・採用試験に受かっても・・・」

 子どもに正対できていない教師はいるのです。

 
 
 学校現場で指導力のない人の中には,頭は悪くないという人が多い。

 それなりに論理的な文章は書けるし,読んで理解することもできる。

 早い話が,ペーパーテストをしても,

 「この人が教員としては不適格なんだな」ということは判断できないんですね。

 しかし,同僚の教師たちはみんな分かっているわけです。

 子どもたちも分かっている。

 だから,教員免許更新講習っていうのは,結局,

 指導力不足教員の免許も更新させてしまう代物ってことです。

 教育現場に要請されている課題・・・

 「言語活動の充実」も「道徳教育の充実」も「ICT教育の導入」も,

 実は,子どもよりも,「教員が苦手にしていること」なんですね。

 「苦手」というか,「できていない」こと。

 「言語活動」のようなバズワードのせいで,現場でも何をすべきなのか分かっていない人(というか学校)が多くなってしまっていますが,

 要は「自分の意見を自分の言葉で話せること」

 「相手の意見をしっかり受け止め,双方の考えを尊重する態度がとれること」

 を最低条件とした,ごくごく当たり前のことなのです。

 それができない教師への悩みが,なかなか解消されない。

 自動車免許の更新には,
 
 「実技検査」は必要ありませんが,

 高齢者とか,ペーパードライバーにとっては必要かもしれませんね。


 教員免許の更新には,

 「この人は」という教員のための「実技検査」が必要です。


 しかし,自動車事故を起こした人の情報は「免許」に記録があっても,

 教員の免許の方にはない。

 制度改革の方向性は,明らかすぎるほど明らかなのですが・・・。


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許していい人と許してはならない人(学校とネット編)

 間もなく始まる新年の学校生活。

 小中学校には,アスペルガー症候群など,なかなか集団行動になじめずに,人に迷惑をかけている生徒がいます。

 こういう生徒はいじめの対象にもなりやすいのですが,いじめではないにしろ,孤立を促すようなかたちで周囲の生徒が接すると,症状は悪くなっていく一方です。

 明らかにそうだとわかる生徒に対しては,機械に詳しいとか,何かの名前を全部覚えているとか,できるだけ良い面を見つけてあげて,その良さを認めてあげる場面を増やしていきましょう。

 問題になる行動はきっと減っていき,その長所がどんどん伸びていきます。

 「許していい人」として,接してほしいと思います。

 
 一方,「許してはならない人」が,ネット上に存在します。

 「ネットいじめ」は,匿名ですまされる問題ではないことを,警察の人たちが約束してくれました。

 自分に都合のいいことだけを書いて,人の足を引っ張る人間は,許せません。

 社会が許しません。


 社会から排除されてしまった経験がある人の場合は,気の毒に思えないわけでもないのですが,

 その恨みを人の足を引っ張ることによって晴らそうとしている行為は許せません。

 ネット上では自分の支持者がいるように装い(自分で自分のブログに自分を褒めるコメントを書き込むなど),孤立感を埋めようとしているのですが,そういう行為がますます孤立を深め,事情を知っている人が興味本位で読む対象になっているのです。

 周期的に同じような話が繰り返されるという典型的な病状ですが,子どもと違い,責任をとらされる対象になります。

 「許してはならない人」がどういう末路を迎えるのか。

 あのFC2ブログは,「凍結」されてしまいました。

 これでは「救いようがない人」になってしまいます。

 迷惑をこうむった人を救うには,

 嫌でもその原因をつくった「許してはならない人」を救ってあげるしかありません。

 そして,こういう人をこそ救えるのが,「本物の教育の話」だという信念があるからこそ,私は教育ブログを続けているのです。

 
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許していい人と許してはならない人(歴史編)

 歴史を学習した小中学生に,

 日本の歴史上の人物のうち,

 「許していい人」と「許してはならない人」を3人ずつ挙げてください。

 と質問したら,どんな答えが返ってくるでしょうか。

 「許してはならない人」の方は,たとえば

 「源義経を許さなかった源頼朝」

 「反抗した人々を皆殺しにした織田信長」

 「坂本龍馬を暗殺した人」

 「日本を攻めたモンゴル人」

 などが挙がってくるかもしれません。

 では,「許していい人」の方はどうでしょうか。

 「民衆に重労働を強いたけど,立派な大仏を完成させて国を救おうとした聖武天皇」とか,

 「国書を無視したり使者を殺したりしたけど,国を一つにして侵略者を撃退しようとした北条時宗」とか?

 案外,難しい問いですよね。

 日本は今,グローバル人材の育成を大きな目標にしようとしています。

 もしそういう人材を育てようとするなら,日本から見た日本の歴史ではなく,

 外国から見た日本の歴史という視点も大切になります。

 だから,たとえば「韓国の人から」という視点で考えると,

 「許してはならない人」としては「豊臣秀吉」が,

 「許していい人」としては「伊藤博文」があがってくるかもしれません。

 歴史認識というのは,自国に都合のいいようにもっていくべきだ,という考え方があることは,

 歴史の教科書に関するニュースに接するだけで中学生でも気づくことができます。

 「許していい人」と「許してはならない人」の違いは何か。

 「許していい考え方」と「許してはならない考え方」の違いは何か。

 「寛容」がカバーできる範囲とは何か。

 新年早々ですが,未来を生きる人たちには考えておいてほしいテーマです。

 
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リアリティに満ちた虚構をどう暴くか?

 人間の心理を上手に利用する犯罪の一つが,「振り込め詐欺」です。

 人は,何かを信じることによって生きている動物。

 「その先」のことは考えずに,目の前の問題ばかりにとらわれる。

 目先のリアリティばかりにとらわれて,本質的な問題に視野が及ばない。

 抽象的な話についていけない。

 本当のリアルとは,どういうものか,「深く考える」という習慣ができていない。

 この欠点に立ち向かう智慧を,学校ではどのように育成すべきなのでしょうか。


 企業の決算が「四半期」などというスパンで公表されるようになった背景はよく分かるのですが,

 大学もそれに近づこうとしている。

 経済的な分野で短期的な評価(実際には短絡的な評価)が市民権を得ていることが,

 私たちの生活にどのような影響を与えようとしているのか。

 教育と経済の違いは何か。

 実は,学校現場というところでは,そういう問題への示唆を子どもたちが与え続けてくれてきたわけです。

 子どもたちは,私たち教師に評価の課題を教え続けてくれている。

 それにどう対処したらいいか,右往左往するばかりで,現場からはなかなか声が上げられなかった。

 そろそろ現場も変わるときです。

 このチャンスは,毎年きちんと用意されている。

 それが「教育課程の届け」という重要な仕事です。

 多くの学校では,教務主任と管理職に任せきりになっており,

 一般の教師たちは「年間の行事の日程」くらいしか口を出せない。

 あとは,「おまかせ」。

 こんな姿勢では,いつになっても子どもたちから教えられていることが,

 教育に生かされてこないのです。

 子どもの実態は,どうなっているのか。

 社会科で言えば,基礎的な知識がほとんど定着していない子どもが小学校から中学校に上がってくる。

 小学校の短期的な業者のプリントはできても,

 期末考査のような長いスパンのテストを実施していないから,

 「忘れてしまっていること」にすら気づけない。

 小学校のあの業者テストは,単元が終わった時ではなくて,

 学期の終わりにまとめてするようにしたらいかがでしょう。

 単元が終わった時には,教師が自分でつくった,子どもたちに最適なものを用意して,評価してあげる。

 業者テストなんて,だれでも解けそうなものは,最後にまとめてやったらどうでしょう。

 それができないことでびっくりする経験を通して初めて,

 「何をしていたんだろう」ということに気づくのです。

 教科独自の目標が達成できたのかどうか。

 「話し合い」とか「学び合い」は目標ではなく,手段です。

 教科の目標は何なのか。それを知らないで教科の授業を担当する資格はありません。

 「虚像」が「虚像」であることに気づくには,どうしたらよいか。

 それは,繰り返しになりますが,中学校でやっている「期末考査」のようなものを,小学校でも導入すればよいのです。


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仕事上の致命的なミスとは?その防止法とは?

 読書編ブログで紹介した佐藤優著『人に強くなる極意』(青春出版社)に,

 こんなエピソードが紹介されていました。

 外務省のある研修生が国会で使われる首相の答弁用の書類の閉じ方を間違えたせいで,答弁が頓珍漢になり,国会審議が中断,危うく不信任案にまで行きそうになった,というもの。

 著者は,事務的なイージーミスが命取りになることがあるので,こういうことをした部下は叱りつけた,ということ。

 学校で言えば,たとえば

 成績の入力ミス

 評定の入力ミス

 表計算ソフトの計算式のミス

 転記上のミスなどが考えられます。

 これによって,合格するはずだった受験生が不合格になる,ということも起こり得る(実際に起こっている)。

 大阪府では,採点する側のミスの多発が問題になっていましたが,

 子どもの一生を左右するような出来事が,単純なミスによって引き起こされてしまう。

 ダブルチェックが当たり前,・・・のはずが,チェック機能もマヒしている。

 だから,学校現場でも,著者が危惧しているように,

 仕事が任せられない人間には仕事をふらないようになってきている。

 そうすると,仕事の能力の格差は広がるばかり。

 格差が広がるということは,できる人に仕事が集中するということ。

 昔は,仕事の分散化が『絶対法則』のように動いていた学校の職場も,

 単純ミスへの風当たりが強くなってきたため,ミスは未然に防ぎたくなってきた。

 そして,それを簡単に防ぐ方法に気づいてしまった。

 できない人にはやらせない。

 これでは仕事量の偏りがどうしても目立ってくる。

 「人事考課がしやすくなるからよい」という管理職もいるかもしれない。

 しかし,「育成機能」を果たせない職場は,将来の異動のことを考えれば,

 まさに「負債を拡大するだけの学校」になる。

 公立学校がそういうところばかりになってしまっては,人事もまわっていかない。

 もう,余計な動かし方をするより,何もしない方がまし,なんて空気が蔓延したら,

 人事なんて終わりである。

 人事が終わっている組織は,ただ死を待つ組織。

 ところが,会社ならつぶれるが,公立学校はつぶれない。

 統廃合がせめてもの救いになる。

 ・・・・なんて暗い未来予想はいくらでも浮かんできてしまう。

 簡単な解決方法なんてありません。

 ミスはまわりがカバーするしかない。

 ダブルチェックで危なければ,トリプルチェックをかける(入試は通常そうしているはず)。

 全体の仕事量の増加は,負債を増やさないための努力でもあることを,どうか理解してほしいと思います。

 「人を増やせ」と単純に言う人には,

 「どんな人でもいいのですか」と聞いてみたい。

 「人が増える分だけ,仕事も増える」という話が通じにくいのが学校現場というところです。

********

 受験生の親御さんへ。

 こういう学校がもしかしたらあるかもしれない,という「想像」をするのは自由ですよね。

 各教科のテストが終わると,解答用紙が回収されます。

 そのときに,「どのように解答用紙を置くか」が指示される学校があると仮定します。

 さらなる仮定です。

 その学校は,もしかしたら,「解答用紙が言った通りに置かれているかどうか」も得点にしている(減点対象にしている)かもしれない。

 学校側は面倒ですが,私なら,テストが終わってすぐに注意力が散漫になるような生徒はいりません,というメッセージを出せる学校はすごいと思います。


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明治初期の人々に心をよせながら

 今日が元日となった明治初期,どれだけの混乱があったことでしょう。

 私たちはいつもと変わらない正月を迎えることになりましたが,今日が正月なんて信じられない,という歴史上の「その時」に思いを寄せながら,

 「当たり前」にどっぷりつかった毎日から少し距離がおけるよう,

 また,距離をおきすぎないよう,一日一日を過ごしていきたいと心がけていきたいと思います。

 暦が変わるくらいのインパクトはなかなか起こりそうにありませんが,

 教育の世界に本当に求められている変化とは何か,

 バズワードにふりまわされずに,教育の世界で守り抜くべきことは何かを

 問い続けていきたいと思います。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より