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想像力・創造力の欠如がいじめや体罰を生む

 いじめや暴力などの生活指導の問題が起こって生徒に説諭するとき,

 教師は「想像力が足りない」ことを指摘することがあります。

 「こうすれば,どういう結果が起こり得るのか,考えてみればわかるでしょう」

 というタイプのもの。

 (それをそっくりそのまま,体罰教師にお返し申し上げたいという方もいらっしゃるでしょう。)

 最近は,何でも「脳のせい」にするのがはやりのようですから,

 「想像力の欠如」の問題も,どこかのはたらきが弱いから,と説明できてしまうかもしれないのですが,

 ではどうしたら想像力を高めることができるのか,などと真剣に考えて,
 
 実際の指導にうつさなければならないのが現場の教師です。

 指導する現場でやりにくいのは,

 「想像力」がとても大切な,本当に人間らしい機能であるのに,それを「フィクションだ」などというとんでもない解釈をする子どもがいるからです。

 「相手が何を感じているかを知ることができるのは神のみ」などと訳のわからない言葉を発しつつ,何の反省もしない子ども。

 フィクションには,確かに「想像上のもの」「虚構」という意味がありますが,

 「捏造」というと,またちょっと意味が違ってきます。

 人間は,よく自分の都合がよくなるような解釈を人にせまったり,自分自身で意識もなくしてしまったりすることがあります。

 自己防衛本能とでも呼べるものでしょうか。

 しかし,相手を傷つけるような行為をしておいて,「相手が傷ついているかどうかはわからない」などと開き直る子どもを前にすると,

 「自衛のための戦争」の話を延々としてみたくなってしまいます。

 残念ながら,そういう話をしても,「~は自衛のための戦争だった。だから正しい戦争だ」などと言いかねないことです。

 戦争の場合は,そのように解釈することも不可能ではありませんし,そういう解釈があることを認めることも大事ですが,

 相手を傷つける行為をしても平気でいられる人間を認めるわけにはいきません。

 仮に,幼児期に想像力の生成システムが破壊されてしまった人間だったとしても,

 それを最初からつくりなおす必要にせまられているのが学校現場なのです。

 そのうち,教育公務員には臨床心理士の資格も必須になる,という時代が来るかもしれません。

 それくらい,今までは体罰で「けり」がつけられてきたような事態が,体罰など許されない今となってますます増加しているのが現場の状況なのです。

 想像力や想像力を鍛えることは,単語を覚えさせるのとは違い,そう簡単にできるものではありません。

 結局のところ,大きな問題を繰り返しつつ,徐々に理解していく,というのが現状である子どもがたくさんいます。

 長期的に見て,中学校時代に問題を起こすことを抑えることに成功してしまった結果,

 「学ぶことができないまま」に年齢だけ増している「大人」になり,そして・・・・

 という事件・事故が相次いで発生している。

 「考える脳」をつくるために,どんな教育をすべきか。

 答えはそう簡単ではありません。

 
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コメント

障害にもさまざまなタイプのものがあります。

私は指導力不足教員を何人か実際に見たことがありますが,こういう人に教えられるのでは子どもはかわいそうだ,と思いました。

しかし一方,指導力のある教員のなかにも,子どもの一部を犠牲にすることによって,大きな成果を手に入れる人もいる。

功利主義は,子どもにも受け入れられる考え方なので,油断はなりません。

一人の子どもも決して傷つけないようにする,という方法で仕事をすると,あらゆる障害にもやさしく接する必要が出てきます。

もぐらたたきのような世界です。

いじめには「外傷性転移」が深く関係があると私は考えています。
外傷性転移はググってみたらすぐにどういうことなのか簡単な説明が出てきます。
どうして優しい子がターゲットにされるのか外傷性転移の定義を読めばわかります。

生活指導を厳しくする、というのは結果の方に対処しているのであり根本的な解決にはならないのです。
体罰は、いじめとは少し異なっている点として、タイムラグが大きいということ、子供の頃善意の虐待をうけ、それを親になり、教師になったときに教え子に転移するのです。
 その連鎖を断ち切ることが必要です。

端から見てると、学校という組織が腐った組織に見えてしまいます。なにせ体罰で自殺させても、たいして反省していない学校関係者の存在。そして教育委員会に問題校長が引きこもり、ほとぼりが冷めたら、教育長に??? そういう組織ですよ学校というところは。

私の知っているいじめの加害者であった者がいま現役教員でいます。特に精神障害や人格障害を持つ者が積極的に教員に採用されるのです。おかしな制度だと思います。教員採用試験を考え直す必要があると思います。

学校のように対処すべき課題が多すぎる組織の場合,「一枚岩」にならないと,本当にばらばらな状態になってしまう。

「荒れた学校」の本当に救いようのない状態をご存じでしょうか。

そのためにかつてとってきた手段は,生活指導を厳しくするというもの。

見かけ上は「落ち着いた状態」になるけれど,生徒の不満は生徒の中で解消するように動いていく。

だから,「荒れた学校」の方がいじめが少ないのではないか,と思える(こういうデータはないので経験から語るしかないのですが)ほど。

子どもを守るつもりの策が,自分たちを守っているように見えてしまう,あるいは,本当に自分たちを守ってしまう・・・こんなことを繰り返さないようにしなければなりません。

この文のタイトルは正しくて、私があちこちで説いてやってることだ。
盗作じゃないのかと思うくらい。
でも、想像,創造力のいちばん欠如しているのは、教師をはじめとした教育関係者だよ。
自分たちの組織中心にでも地球が回っているという思考しかできないから、校外のひとたちに迷惑をかけても「大勢の子供を抱えているから仕方ない」という理屈で逃げ、校内では子供に対してだけ理不尽なことを強制、要求する。
腐った制度はいらない。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より