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文部科学省が検証すべき大問題 ~無免許教師の指導力~

 静岡県の中学校における「無免許教師の英語指導」がニュースになっていたが,

 多くの人が,「無免許教師の実力」自体にあまり疑問を投げかけないばかりか,

 「教えるのが上手な人,生徒から人望がある人の方が,免許があるけど教えるのが下手な人,生徒からの人望がない人よりよほど教育力・指導力があると言えるのではないか」

 ということに気づき始めている事態を問題として取り上げたい。

 「塾の先生」のように,限られた教材を限られた人数で指導する場合は,

 免許がなくても指導の効果が認められることは言うまでもない。

 しかし,「学校の先生」として,「英語の授業」を無免許ながら担当させられて,

 免許を持った教師と同等の指導ができてしまっていたとしたら,

 「そもそも免許は何のためにあるか」と思われて当然だろう。

 教師にはなっていないが,教員免許をもっている,という人は少なくない。

 そういう人が,採用試験なしでぱっと現場に送り込まれて,教えられるか,と言えば,

 よほどの海外経験とか,実務上で英語に常にふれていた,ということがなければ,難しいに違いない。

 また,学校現場では,採用試験に合格していない教師たちが,

 「非常勤講師」などとして活躍している。

 この教師たちは,教員免許はもっているが,採用試験には合格していない。

 子どもたちに,10分ほどの模擬授業のVTRを見せてから,教師を自由に選べる権限が認められるとしたら,どういう人を選ぶだろう。

 迷いもなく,「教え方が上手」だという印象をもてた人を選ぶだろう。

 管理職から見て,信頼できる教師もいる。学力調査などによって,「実績」が証明されている教師もいる。

 「教え方」ではなく,「学ばせ方」が上手な人も,教育現場にはたくさんいる。

 小中学校段階では,「教える内容の知識」も大事だが,「学ばせ方」の方がより大事であることを,教育に本当の意味での関心を持っている教師たちは気づいているはずである。

 「免許更新講習」の無意味さは,そう遠くない未来に露呈されるだろう。

 大教室に押し込まれて,一方的な話を聞く,というスタイルは,もはや「終わっている授業」である。

 それよりも,「10年経験者研修」を残すべきである。さらに言えば,「20年経験者研修」を増設してもよい。

 特に20年たって,初任者の段階と指導力がほとんど変わらないような教師が,免許更新講習でかろうじて「資格をもちこたえさせる」ことに,何の意味があるだろう。

 教師の日常的な授業の実態を,ぜひ明らかにしていってほしい。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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