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朝日新聞の社説の一節が事実なら・・・・

 今日の朝日新聞の社説

 ~「道徳」教育―教科化にこだわるな~

に,こんな一節がある。

>今の「道徳の時間」は正式な教科ではない。教科書も成績もない。

>道徳の授業は軽くみられ、往々にして他教科に振り替えられる

 下線部を私が引いた部分は,何を根拠に記事にしたのだろう。
 
 教育課程の実施状況調査では,そのような事実があることは示されていない。

 「往々にして」がどの程度の頻度で,どの程度の学校で行われているか,

 朝日新聞は独自の調査で事実を把握しているということだろうか。

 そうすると,学校は虚偽の報告を市区町村教育委員会にあげ,

 市区町村は虚偽の内容が紛れた報告を都道府県教育委員会にあげ,

 都道府県教育委員会は虚偽の内容が紛れた文部科学省にあげ,

 文部科学省は虚偽の内容を調査結果として公開しているということになる。

 実は,こんなことは朝日新聞が書かなくても,中学校時代に学校に通っていた・・・・

 月曜日の1時間目に遅刻をせずに登校していた大多数の人は,

 知っている事実なのだろう。

 道徳が教科になると,他の数学や体育を社会や理科にすることがないように,

 「今日はかわりに社会科にします」ということができなくなる。

 (ただ,小学校では起こり得るのかもしれない。担任教師が本当のことを報告しなければよいだけだから。)

 それだけでも教科化する意義はあるだろう。

 そして,相変わらず「評価」への問題を記事にしているが,

 「どのような態度で議論に望むことができたか」は十分に評価可能である。

 「発表のための準備をどの程度することができたか」

 「議論のなかで,自分の主張を明確に相手に伝えることができたか」などなど,

 評価すべき項目はさまざまである。

 もちろん,道徳的な価値にかかわる評価は,道徳の授業のなかだけで行うべきものではないし,

 教師が一方的に生徒に対して行うべきものではない。

 だから,「360度評価」というものの意義が認識されてくる。

 いわゆる自己評価,相互評価の意味も重要性を帯びてくる。

 これらを「教科にしなくてもできる」というのは,間違いではないが,

 「教科にすればよりよくできる」というのであれば,前進する方がよいだろう。

 今のままだと,担任教師が何をどのように評価したかが見えない。

 だから,記事の実例であったように,

>「森を守るより工場を造って雇用を増やそう」と言ったらペケがつく。

 ということがおきかねないのだ。

 そう。道徳が教科でないから起こっている問題(指導の時間数をごまかすなど)の方が,

 教科にするから起こるだろうと言われている問題(国家による統制が強くなる)よりも大きいのである。

>「この随筆で愛国心が育つのか」と突き返されるようなことも起きかねない。

 検定でそこまでのことが起こるというのは,時代錯誤である。

 メディアとして,釘を刺しておく,という機能を発揮していることは理解するが,

 当たり前の話として,検定を通過した教科書に,そのような批判が集まる可能性はゼロではない。

 思想・表現の自由とは,そういうものである。

 一方では,それで十分だ,という人がおり,他方ではそんなのでは不足だ,という人がいて,

 それぞれが自分の主張を堂々と表明できるのが理想である。

 だから,新聞というのは「すでに偏っている」と見られてしまい,子どもからも敬遠されてしまうのである。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より