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教育の機能の「二極化」現象は,学校を解体に向かわせるか?

 経験のある方はご存じだろうが,中学受験では,本来は中学校で学ぶような内容を,「暗記っぽく」小学校時代に学んでいく。

 たとえば日本の地理。中2で学ぶような内容は,小学校5年生には終わってしまう。

 「考える力」が邪魔になる前に,「覚えさせまくる」のが中学受験の単純な近道である。

 塾のテキストが圧縮されたような本も出版されているので,「手の内」はよくわかる。

 日経の記事で,中堅の私立学校が塾と提携関係を持つようになっていることが紹介されている。

 そのうち,小学校ではなく,

 塾からの「学習履歴書」が「内申書」の代わりになる時代が来るだろう(もうすでに始まっている)。

 小学校の担任が知らないうちに,中学校の進路が決まっている,そういう時代が来るかもしれない。

 小学校のカリキュラムと,

 中学受験のカリキュラムは明らかに異なっている。

 つまり,塾に行かなければ,能力に応じたパフォーマンスを入試で発揮できない。

 これは公立中高一貫でも同じ。

 「近道」の研究を企業としてやっているのだから,そのノウハウが「売り物」になるのである。

 そして,成果が出るから,ビジネスとして成り立っている。

 どうしてこういうカリキュラムが,公立小学校ではダメなのか。

 現行の学習指導要領の内容は,実際の時間の半分でできてしまう,なんて教師もいるだろう。

 公立小学校の場合,こういう教師は,残った時間を新聞作りとか,お遊びの企画の時間とかでつぶしたりする(要は自分の授業の用意がいらないことで時間をつぶす)のだが,

 余った時間を「発展的な学習」にふりあてるカリキュラムを編成する小学校ができてもよいのである。

 ・・・・中学校だから,そんな無茶なことが言える・・・・なんて言われるかもしれないが,

 確かに,中学校だったら,余った時間は部活動や行事に使いたい教師がほとんどだろう。

 つまり,いつの時代からか,中学校(高校も?)は部活動や学校行事のために存在するようになってしまっている。
 
 「それが今の日本の強さだ!」

 「日本人の協調性の高さは,そこで培われている!」

 なんて力説したい人もいるかもしれない。

 「教育」の機能の「二極化現象」は,本当にとどまるところを知らないようだ。

 
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コメント

算数の大家,なんて言われる人が,難しいことを話しているのを聞いたことがありますが,私たちからすると,

あなたが教えて,できるようにさせられるのですか?

と言いたくなってしまう。

つまり,できるようにさせられない人の話を,一生懸命に聞いて,実践して,できない子どもをますます増やす,なんて変なサイクルにはまっている学校はないのか?

・・・・実は,私のすぐ足下でこれがおこっているのがこわいことなのですが・・・。

小学校の算数の授業でかける数とかけられる数に関して文章題でめちゃくちゃな理屈をこねて交換法則を認めないという先生がいますね。これどうして割り算についてやらないでかけ算でそういうことを教えるのでしょうか?
最初に大嘘を教えると子供はそれ以降そのことがどうしても引っかかり正しい理解に結びつきにくくなります。算数や理科について特にそういうデタラメな授業をする人がいますね。困ったものです。
つまり、公立の学校にしか行かないで(塾に行かない)そのままならそういうデタラメを直すチャンスが完全になくなってしまうのです。
公立の小学校で教えられた奇妙な理屈をこねたルールは中学になると全く別世界のもので、王国から脱出するとそこでは塾で習わなかったの?と言う世界ですね。もちろん公立の小学校で学習する内容なのですが、小学校ではどうしても教師の都合に合わせた奇妙な考え方が子供の学力をゆがめているように思えます。塾に行かなければ正しい知識は得られないかよほどしっかりして客観的に教師のごまかしを見抜かない限り正しい知識は得られないでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より