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「貧しいと心が蝕まれる」という感覚の人は教師をしてはいけない

 そういう感覚の人は,ぜひ私立学校の教師になってほしい。

 それは私立学校の教師を軽蔑しているわけではなくて,

 とりあえず学費が払える家庭の子どもが集まってくるということで,

 経済的に厳しい子どもや家庭への蔑視によって

 子どもの心が蝕まれる心配が少なくてすむだろうから,という理由だけである。

 できればそんな感覚の人間は教師になるべきではない。

 学校の教師がさまざまな犯罪をおかしていることが報道される。

 こういう教師たちは,「貧しい」からそうなったのか?

 「心の貧しさ」と,「経済的な厳しさ」を簡単に結びつけようとする人間がいるのは日本の恥である。

 「心」の問題を非常に軽く見る態度が多くの教師に見られているが,

 その影響は直接的に子どもたちに及んでしまう。

 40年とか50年前なら,

 経済的に厳しい子どもが

 「あいつんち,貧乏なんだぜ」

 などと自分たちよりさらに厳しい家庭の子どもを「下に見る」ことがあったかもしれないが,

 今は同じような目が途上国の人々に向けられるおそれがある。

 社会科の授業ではどのような子どもを育てようとしているか,と問われたとき,

 たくさんの目標があることは言うまでもないが,

 私がこのブログで主張しているように,

 「べからず」の内容も非常に多い。

 「べからず」ばかり繰り返していているようでは,極端な話,社会科の教師は何もしないで読書の時間にする方がよほどましである。

 「貧しいと心が蝕まれる」などと

 何の迷いもなく口にするような人間が教える社会科とは何か。

 想像するだけでもおそろしい。

 私が11年間つとめていた東京都の足立区というところは,経済的に豊かとは言えない家庭が他の区よりも多い。口の悪い人は,だから学力調査の結果が一番悪いんだ,という。

 確かにペーパーテストの結果と家庭の所得水準を統計的にまとめてしまうと,相関関係はあるだろう。

 しかし,あくまで一定の範囲の所得の子どもの成績の平均であり,所得に幅もあれば,成績にも幅がある。

 こんな当たり前のことを説明しなければならない人間がいるのが哀しい。

 今回取り上げているのは「テストの成績」ではなく,

 「心の貧しさ」である。

 かつて,この足立区というところで教員をしていた人間(他の区から異動してきた教員)が,タクシーに乗って同僚と足立区の家庭の悪口を言っていて問題になったことを紹介したことがある。
 
 タクシーの車内という空間が,公的な空間だとは思っていなかったらしい。

 「タクシーの運転手さん」自体を「人間だと思っていなかった」と考えるのに等しい行動である。

 その運転手さんは,足立区内の学校に子どもを通わせている保護者だった。

 怒るのは当然である。

 教員は,学校外で,自分が勤めている区の家庭の「貧しさ」をバカにして歩いているような人間なのだ。

 たった1人か2人のこのような行動が,教員全体,学校全体への信用を失わせる結果となる。

 本当に恥ずかしいことに,足立区内の教員に向けて,教育委員会から

 「公的な場所での会話のマナー」に関する通達が出された。

 心が貧しいのは,どういう人間か。

 私はこういう話を「道徳」で取り上げる。

 「大人」の醜さを決して隠さない。

 そういう教師の存在自体が,立派な「社会科の教材」「道徳の教材」になってしまっている。

 「差別を許さない」という気魄を堂々と「公務員」にも向けられる教員になりたいものである。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「歴史の活力」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より