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教師の「個」の力に依拠する小学校の教育モデルの終焉

 私の過去の記事で多くの方に読んでいただいているもののうち,

 少なくないのが,

 「小学校教育の問題」にかかわるものです。

 たとえば,「担任のはずれ」の問題。

 保護者としては,不公平感があまりにも強く,4月から「担任外し」の「運動」が起こる学校もあるようです。

 こうした問題に,学校側がとる対策として増えているのが,

 「1年ごとの担任交代=クラス替え」です。

 どのくらいの小学校で,これが実施されているかわかりませんが,

 昔は少なくとも「低学年」「中学年」「高学年」のそれぞれ2年間はクラス替えがなく,同じ教師が担当したものです。

 しかし,「年間指導計画」だったり「評価計画・評価規準」などを提出しなければならなくなって,

 みんながみんな同じような指導と評価をすることで,

 「だれがやっても同じ」が原則の教育になり, 

 それなら1年交代でもいいじゃないか,だれがやってもいいじゃないか,ということになりました。

 本当の意味での教師の「特色」「長所」「創意工夫」が発揮できない仕事場になってしまいました。

 頻繁に担任が変わると,

 「この先生のおかげでこんな力がついた子ども」とか,

 「この先生のおかげで本当に学力がつかなかった子ども」の区別がつけられないようになり,

 教師は安心して手が抜けるようにもなったのです。

 もしこのような体制をとるのであれば,

 もはや「学級担任制」にこだわる必要はないでしょう。

 「学級担任制」のよさはどこにあるのか。

 「教科担任制」にすると,どんな問題が発生するのか。

 両方を天秤にかけたとき,少なくとも,高学年における「教科担任制」の実施は

 法律でしばりをかける方向にいくのではないでしょうか。

 最終的な決断の最大の根拠は,「個」の力ではどうにもならない,というものになるかもしれません。

 ここから先は,フィクションです。

*******************

 英語の授業を担当できる小学校教師は,留学の経験がある者に限ります。

 国語と社会科の授業を担当できる小学校教師は,5タイプの小論文で評価がAの者に限ります。

 算数の授業を担当できる小学校教師は,指導法における基礎知識に関する試験で,評価がAの者に限ります。

 理科の授業を担当できる小学校教師は,10種類の実験の実技テストで,評価がAの者に限ります。

 ・・・そして,これらの授業を担当する人間の多くが,外部からの非常勤講師に変わっていきました・・・。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より