ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 想像力・創造力の欠如がいじめや体罰を生む | トップページ | 小学校社会科学習指導要領補説=昭和23年 に示された社会科の目標 »

小学校社会科学習指導要領補説=昭和23年 に示された当時の課題

 日本で社会科が誕生したときの様子を伝えてくれる,歴史的な資料のようなものです。

 私が注目したかった部分は,太文字で示しました。

**************************

 (第一章 序説より)

第一節 現在の問題
 
 社会科の学習指導要領を手がかりとして、全国の教師たちは社会科の教育を開始しました。全く新しい教科なので、さまざまの疑問や困難につきあたっていますが、教師たちの努力はそれを乗りこえて、学校に生き生きとした新しい気分を生みだしています。
 その疑問や困難のもとになるものをだんだんつきつめていくと、それらの原因は、次のようないくつかの問題がまだ正しく解決されていないからだと思います。

 すなわちその問題は、

一、小学校の教科課程の中で、社会科はどのような位置を占めているか。

二、社会科の目標と地域の要求との関係はどうなっているか。

三、社会科の学習内容の選択およびその指導に対して、児童生活の研究はどのような意味をもつか。

四、どのようにして作業単元を作り、どのように展開するのが適当であるか。

五、社会科の教育の効果を判定していくのにはどうすればよいか。

六、社会科を実施するのにどんな資料や設備をととのえればよいか。
などであります。

 もちろん学習指導要領には、これらの問題に対する解決が示されていますが、それだけでは十分なっとくできないという人も多いようです。

 ことに三と四の問題は、学習指導計画の立てかたあるいは作業単元の選びかたとして、重要な問題となっており、どうも学習指導要領だけによっては解決しにくいという意見が強いのであります。

 したがって、これに対するもう少し詳しい説明をする必要があります。これがこの本の作られるようになった理由の一つです。

 前にあげた六つの問題は、決してばらばらのものでなく、たがいに入りくんでいるものであります。社会科の目標が具体的に理解され、児童の生活の動きやその発展のしかたがはっきりしてくれば、学習活動の選びかたもその展開のしかたもわかってきます。すなわち作業単元のありかたがきまってくるわけです。また作業単元のありかたがきまってくれば、その効果の判定方法もはっきりしてきますし、どのように資料や設備を準備したらよいかという目やすも立ってきます。さらに他の教科とどのように関連させるか、すなわち社会科を具体的にどんな位置におくかという見当もついてきます。

 作業単元はどのように実施したらよいかという目やすが立てば、逆にそれを手がかりとして、社会科の目標をその土地の実状に即して具体化していくこともできますし、児童の動きの中ではどのようなものを調査すればよいかという見当もついてくるわけです。

 そのようなわけで、作業単元の作りかたや展開のしかたが現在の社会科の第一の問題になっているといえます。

 学習指導要領では、その学習指導計画の立てかた、作業単元の作りかたについて簡単な説明を加え、作業単元の実例を三つあげてあります。そして教師がそれぞれ自分で学習指導計画を立てることを要求しております。

 ところで、その要求に基づいて各学校で作った作業単元なり学習指導計画なりの一般的傾向を見ますと、はじめてのことですから当然のことともいえますが、小さな題目の下にいくつかの学習活動がぽつぽつとならべられていて、学習活動が次から次へと展開していくようになっておらず、その小さな題目ごとに無理にまとめてしまおうとして、活動が表面的なものになり、児童に十分その問題を解決させる余裕を与えず、安易に社会道徳がおし売りされるようなきらいがみえます。もちろん非常によくできている学習指導計画もあり、適当な作業単元も多数生みだされてきていますし、たとえ小さな題目がならべられていても、その間に自然なそしてしっかりしたつながりがあり、学習指導が深く展開され、人間生活、社会生活の理解を一歩一歩深めていくものも相当見受けられます。

 それゆえ作業単元の作りかたや実施のしかたを説明し、適当と思われる作業単元の実例を示して一般の先生がたの参考に供することは、この際たしかに有益なことでありましょう。これがこの本のつくられたいま一つの理由であります。そのためにはまず、さきにあげた問題とも関連して、小学校の教科課程と社会科との関係を、

一、社会科の目標

二、社会科の内容

三、社会科学習の系統

四、社会科の方法

 の諸項目に分けて説明することが必要であると思います。


**************************

 大学の先生でもつくるのは難しそうなことを平気で要求していますね。

 チャレンジングな先生たちもたくさんいて,そういう人たちが,一時期の社会科教育界をリードされてきたのはわかりますが,これを全国の先生に一律に求めるのは,無理がある。

 次回は,「社会科の目標」に注目です。キーワードは「公民的資質」。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ  

« 想像力・創造力の欠如がいじめや体罰を生む | トップページ | 小学校社会科学習指導要領補説=昭和23年 に示された社会科の目標 »

学習指導要領」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

社会科」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/58801062

この記事へのトラックバック一覧です: 小学校社会科学習指導要領補説=昭和23年 に示された当時の課題:

« 想像力・創造力の欠如がいじめや体罰を生む | トップページ | 小学校社会科学習指導要領補説=昭和23年 に示された社会科の目標 »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より