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学習指導要領 一般編(試案)=昭和22年版 に示された「学習指導法」(その3)

 ポイントになることを太字で示しました。

 初等教育と中等教育という分け方がいかに大事か,本当の意味で自覚のある人が取り組んでいるのが

 「小中一貫」でしょうね。そんなに簡単にいくわけがない。

 学習指導要領を読むだけでわかるのですが,

 「義務教育」という形でひとくくりにされるこの仕事は,そもそも「発達に即して」「経験に即して」と言っている段階で,学校制度そのものが成立しにくいことに気づかないといけません。


**********************

三 具体的な指導法はどうして組み立てるべきか


 以上のような学習指導のいろいろな問題を考えてみると,それらを通じて,具体的に指導法を組み立てて行く上に,考えておかなくてはならない幾つかの事がらが見出だされる。

1.学習の目的を自分の目的とするにも,学習についての意欲をよび起すにも,児童がみずから学んで行くにも,すべて,児童や青年の自学的な活動が求められる。だから,指導法の問題は,いかにして児童や青年の活動をその方向に起こさせ,また,それを続けさせるかが,その中心の問題となる。指導法とは,すなわち,このような方向を持つ自発活動を,どのように取り扱うかの工夫だといっても過言ではない。

2.しかし,この活動は,児童の発達によって異なったものが見られる。したがって,活動の取り扱い方は,児童の発達に即して考えられなくてはならない。

3.学習は一つの過程をとって進められる。そして,この過程の移り行きに従って,児童の動き方が違って来る。だから,児童の活動の取り扱い方も,学習の進行につれて,変わって来なければならない。

4.なお,学習には,児童のすでに持っている経験や,知識がたいせつな役割を持っているし,児童の活動も地域によって違うし,また,そういったことは,個人的の相違もあるから,以上のようなことを考えて行くにあたって,教師は直接に,自分の指導する児童について絶えず観察をし,その状態を確かめて行くことがたいせつである。

 これらのことを基にして,ここに,いっそう具体的に,指導方法をどんなふうに系統づけて行くかについて,参考になることを述べておこう。


(一)児童や青年の自発活動を考える

 先に述べたように,学習の指導は児童や青年の活動を,いかに取り扱うかが中心の問題になる。しかも,それは児童自身の積極的な,また学習の目的に合った活動を求めなくてはならない。すなはち,学習の目的に合った興味による自発活動を中心として,これを考えて行かなくてはならないのである。そこで,いまこの種の自発活動のおもなもの―特に生まれつき持っている活動―を考えてみると次のようなものがあげられる。

1.身体的な活動。

 児童や青年には,筋肉的な活動を喜ぶ性質がある。駆けたり,なわとびをしたり,飛んだりすることをおもしろがり,また歌いながら踊ったり,歩いたりするような運動のリズムを楽しむことは誰でもよく知っている。こういったものは,特に競争の要素がはいっている場合は,それでいっそう興味を感ずるが,そうでなくても,運動やリズムを持った運動をおもしろがる性質は,十分に認められる。われわれは,児童や青年の自発活動を,ここに求めることができる。この意味から,あらゆる運動遊戯―走る,飛ぶ,踊る,投げるなどの―に注意して,そこにねうちのある活動を,学習の指導において取り扱うことが,たいせつである。

2.好奇心を満足させる活動。

 児童や青年が,好奇心を満足させるために,懸命な活動をすることは,これまた,だれでもよく知っていることである。かくれているものをうかがってみる,物を分解してみる,不思議だと思うと手を出したり,質問したりする,といった活動がそれである。このような生活は,いわば,一つの求知心の動きであって,児童や青年の自発的な学習を動かして行く力として,極めてたいせつなものである。だから,学習指導の方法として,この種の活動を重んずべきことはいうまでもない。いわゆる,児童のいたずらと見られている,物にさわってみたり,つついてみたりするようなものから,いろいろな質問をするような動き,更には,児童の知的な発達に従って,調査すること,実験すること,書物を読むことなど,この種の活動として考えらるべき多くのものがある。これらは,いずれも,児童や青年が好奇心を起すことに根本があるので,学習の指導にあたっては,かれらを,そういう興味を起すような事情におくことがたいせつである。

3.社会的な活勧。

 児童には,すでに,幼い時から,おたがいにいっしょになろうとし,また,おたがいにつながりを求めようとする動きがある。児童が独りでいることを嫌い,他を求め,いっしょに話し合ったり,遊んだりする強い要求をもっていることは,だれでも知っている。このような,社会的な動きは,先に児童の生活として述べたように,一般として,幼い児童では,極めて小さい集まり―二人または三人―に過ぎないし,またその関係も浅い。おたがいは,だだいっしょになるというだけで,そのつながりは,しっかりはしていないのである。しかし年をかさねるにつれてだんだん,そのなかまの数も増して,四年ごろになると,たがいのつながりがはっきりして来る。そして,五年ごろには学級という集団さえわかるようになって来るし,青年期になれば,この要求はますます強くなって来る。―ただ女児では,この傾きが少し違っていて,一般として,そのなかまが小さい―このような児童や青年の社会的な動きや,その男女による相違や,更に,年齢によっての相違は,児童や青年の遊びについて観察すれば,よく知られる。社会的な活動は,かれらの生活を通じてみて,極めて著しいものの一つだといってよい。だから,この種の活動に注意して,これによって,学習を進めることは,極めてたいせつである。話すこと,聞くこと,話し合ひ(討議)をすること,手紙を書くこと,共同の遊び,共同の仕事,共同の調査など,いずれもこの社会的な活動として,注意さるべきものである。この社会的な活動は,ただ児童や青年の自発的活動として,他の活動とともに,学習指導において,取り扱うべきだというばかりでなく,それが,一つには社会的な活動の訓練となり,民主的な精神を植えつけて行く上に,大きい意味を持っていることは,注意すべきだろう。すなわち,児童や青年は,このような活動によって,おたがいが他人の自由を尊重し,人格を重んずべきことを学び,また,みずからの社会における責任を自覚するようになって行くことができる。たとえば,ひとの話しをよく聞き,自分の考えをよく話し,たがいに意見をはっきり話し合って,譲るべきはゆずり,仕事をいっしょにする時には,自分の責任をしっかり果たしながら,他人と力を合わせるといったことは,このような活動の導きによって得られるところで,どれも民主的な国民のたいせつな態度だといわなくてはならないのである。

4.ものをもてあそんだり組み立てたりする活動。

 児童には,好奇心から,眼の前にあるものに手を出してみたがる動きがあるが,同時にそれを手にしていじってみたり,形を変えてみたり,時には組み立てて何かを作ってみようとする動きがある。砂で山を作って,トンネルをあけたり,積み木に一生懸命になったりするのは,つねひごろ,われわれの見ている,児童の生活であるが,それがつまり,この種の活動なのである。これらの活動はまた児童や青年の自発的な活動として,学習を進めて行く上に,たいせつな働きを持つものである。しかも,これらは,児童や青年の思考を練り,工夫考案の能力をたかめ,手先の運動をたっしゃにするねうちを持っているのである。このいろいろなものを組み立てることや,また,いろいろなものを作ることなどは,この種の活動として,これまでも学習指導法のうちに取り入れられているが,これからも十分に注意して行くべきものということができる。

5.劇的な遊びの活動

 児童は幼いときから,ままごとや人形遊びに興じ,長ずるに従って,いわゆる劇的な遊びをしたがるものであることは,これまた,だれもが知っているところである。この動きは児童の自発活動として,また学習活動として,大きなねうちを持つものである。対話のようなものから,室内劇,野外劇などにいたるまで,このような活動としてあげることができる。

6.表現の活動。

 児童は,自分の見たことを絵にかいたり,感じたり考えたりしたことをしゃべったり,文章にしたり,時にはうたって見たりすることに興味を持っている。やや長ずれば,絵をかき,詩を作り,歌を作り,メロディを口ずさみ,論文を書くなど,さまざまな表現に,強い興味を持って動く。このような自発的な活勧は,児童や青年の学習に,大きい役割を持って働くことはいうまでもない。絵をかき,歌をうたい,曲を作り,装飾をし,詩や歌や文章を作るなどの美的な表現から,図をかき,表を作り,論文をかくような知的な色合いを持つものまで,学習指導の方法として,注意すべき活動がきわめて多いのである。

7.物を集める活動。

 児童や青年が,いろいろなものを集めることに興味を持っていることは,これまたよく知られていることである。千代紙や,絵はがき,切手のようなものから,時には,石ころや,紙切れのようなものまで,はじめはただ数の多くを集めることを楽しむが,長ずるに従って,色や形の違ったものを集めたり,何かの系統によって集めることに興味を持つ。この種の活動も,また学習の活動として,たいせつな意味を持っている。すなはち,貝がらを集めたり,こん虫を集めたり,植物のおし葉をたくさん作ったり,新聞の記事を集めたりするような活動は,学習活動を形作るものとして,注意すべきものなのである。

 以上述べたような,いろいろな種類の自発活動は,いわば児童に一般的に見られるものであって,これらは,ところどころでふれたように,もちろん,幼児から青年までの発達に従って,そのあらわれは異って見られる。たとえば,運動的な活動の一つとして,幼い児童はただボ-ルを投げて興ずるが,長ずれば投げたり受け取ったりして遊ぶだろうし,更に,青年期に近づくに従って,野球のような規則のむずかしい,しかも社会的なつながりの複雑な形の遊びになって行く。また,劇的な活動も,幼い時には,ままごとなどの形であらわれて来るが,長ずると,いわゆる劇としての形をもったり,実際の活動―炊事をするような―となって来る。積み木遊びも幼い時は,単純にただ積み重ねることに興味を持つが,やがて意味のあるものを作るようになり,更に長ずれば実際の小屋を建ててみるような,成人の実生活に近い営みをしようとするようになる。だから,これらの活動は,いうまでもなく,児童や青年の発達に従って,その学習活動としての形が違って来なくてはならない。われわれが,児童や青年の生活をよく見て,その自発的な活動に注意すれば,おのずから,どういう活動が注意さるべきであるかが,わかって来るに相違ない。上に述べたようなことは,ただその場合の参考であるに過ぎない。

*******************

 今では,こうした「活動中心」の指導で力をつけるには膨大な時間が要することが知られているが,このような「活動中心」で無理矢理に教科の「詰め込み学習」を行わせる「学び合い」のような,そもそも「学習指導」などとは呼べない代物も登場する時代になっている。

 おそろしいこの「学び合い」の指導法事例は以前にも紹介したが,一例を挙げれば,

 グループで教え合う。教卓の上には教師用の指導書を開いておいておくので,見たい人は見る。終わり。

 これで給料をもらっている「教科の専門職」としての公務員がいることがばれたら,それこそ教師バッシングはとどまるところを知らないものになるだろう。
 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より