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学習指導要領 一般編(試案)=昭和22年版 に示された「学習指導法」(その1)

 学習指導の基本は大学の教職課程で学ぶことができる。

 ここでは,敗戦から2年後の昭和22年に出された学習指導要領(試案)の「一般編」から,学習指導の方法に関する一般論を紹介しながら,現代の教育でも取り組みたいことを述べてみたい。

 下線は私が引いており,番号がついている内容について,後でふれることとする。

 まずは,学習指導の目標について。(「第四章 学習指導法の一般」より)

********************

一 学習指導は何を目ざすか

 学習指導とは,これまで,教授とか授業とかいって来たのと同じ意味のことばである。このことばを聞いて,その意味をごく常識的に考えると,知識や技能を教師が児童や青年に伝えることだと解するかも知れない。しかし,教育の目標としていることがどんなことであるかを考えてみれば,ただ知識や技能を伝えて,それを児童や青年のうちに積み重ねさえすればよいのだとはいえない。学習の指導は,もちろん,それによって人類が過去幾千年かの努力で作りあげて来た知識や技能を,わからせることが一つの課題であるにしても,それだけでその目的を達したとはいわれない。児童や青年は,現在ならびに将来の生活に起る,いろいろな問題を適切に解決して行かなければならない。そのような生活を営む力が,またここで養われなくてはならないのである。それでなければ,教育の目標は達せられたとは言われない。

 このような学習指導の目ざすところを考えてみると,児童や青年は,現在並びに将来の生活に力になるようなことを,力になるように学ばなくてはならない。そこで,われわれは,その指導にあたって,このような生活についてよく考えた教材を用意して,これを将来の力になるように学ぶよう指導しなくてはならないのである

 では,このような学習の指導を適切にするには,どうしたらよいだろうか。この問に対して第一に答えなくてはならないのは,このような教材をこのような学び方で学んで行くように指導するには,まず「学ぶのは児童だ」ということを,頭の底にしっかりおくことがたいせつだということである。教師が独りよがりにしゃべりたてればそれでよろしいと考えたり,教師が教えさえすればそれが指導だと考えるような,教師中心の考え方は,この際すっかり捨ててしまわなければなるまい。

 次に,第二に答えなくてはならないのは,児童や青年をそういうふうに学ばせて行くには,かれらがほんとうに学んでいく道すじに従って,学習の指導をしなくてはならないということである。児童や青年がほんとうに学ぶには,一つの道すじがある。学習の指導はこの道すじに従って,その要点をとらえてなされなくてはならない。

 このようなことを考えてみると,ほんとうの学習は,すらすら学ぶことのできるように,こしらえあげた事を記憶するようなことからは生まれて来ない。児童や青年は,まず,自分でみずからの目的をもって,そのやり口を計画し,それによって学習をみずからの力で進め,更に,その努力の結果を自分で反省してみるような,実際の経験を持たなくてはならない。だから,ほんとうの知識,ほんとうの技能は,児童や青年が自分でたてた目的から出た要求を満足させようとする活動からでなければ,できて来ないということを知って,そこから指導法を工夫しなくてはならないのである。

 以上のような見方から,ここに学習指導の方法について述べてみたいと思う。この委員会の案は,いわば,一つの試案に過ぎないのであるが,これから,これを手がかりとして,実際家各位が実地の経験による協力をおしまないならば,やがて完全なものに近づくことができようと思う。

********************

 ①,② 「生きる力」を身に付けさせることが大切であることは,半世紀以上前から言われていることである。
 
  現在では,「総合的な学習の時間」の指導がこれに該当する。果たして,趣旨どおりの教材が準備されているかどうか。

  「ゆとり教育」が出てくるころから,さかんに言われるようになったことである。「詰め込み教育」が問題だと。

  これは,教師の「教え方」に問題があったのであって,学習指導要領の示す内容に問題があったわけではなかった。

  この点の誤解がまだ存在する。というか,理解されていない状況が続いている。

  だから,新しい学習指導要領に変わっても,同じような混乱が繰り返されるだけである。

 ⑤,⑥ ここに,学習指導法の大原則が示されている。

  分かりやすいたとえを用いれば,「教科書」読むような学習ではなく,「教科書」に書かれているようなことを自ら調べ,まとめ,理解する,そういう学習が求められているわけである。

 「教科書」学ぶ・・・というレベル以上のことを児童生徒はしなければならない,ということである。

 「そんなことができるか!」という話なのだが・・・。(その2に続く)

  
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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