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学習指導要領 一般編(試案)=昭和22年版 に示された「学習指導法」(その2)

 今から振り返れば,昭和22年版の「試案」で示された学力観は,平成10年版のそれに近い。

 学習指導とは,児童生徒が行う学習に対する指導のこと,という表現をした方が分かりやすいかもしれない。

 さて,児童生徒の学習過程に沿って,どのような点に配慮して学習指導を行うべきなのか。

 下線は私が注目するために引いたものである。

*************************

二 学習指導法を考えるにどんな問題があるか

 以上述べたような立場から学習指導の方法を工夫しようとすると,われわれはいろいろな問題について考えてみなくてはならない。いま,これを簡単に,学習の進められる道筋,すなわち,学習の過程に従って述べてみよう。

1.学習の進められる実情を調べてみて,その発端になるものを求めると,それは目的が知られるということである。学習は,この目的を知ることと,同時にその目的に向かって進もうとする意欲を持つことからはじめられるのである。そして学習がほんとうに進められるには,この目的が児童や青年自身の目的として,学習のはじめから終りまで持ち続けられ,意欲が,また,しょっちゅう動力として働くのでなくてはならない

2.こうして,学習の発端がつかまれると,児童や青年は,これによって自分の計画をたてて,これを試みるようになる。この場合,計画や試みは,かれらのすでに持っている経験や知識を基礎としてなされる。だから,この基礎になる経験や知識が正しく豊富であれば,学習はなめらかに進むが,そうでなければ進まない。ここに,学習の基礎となり素材になる児童青年の経験や知識の問題がある。

3.上に述べたような計画や試みは,児童や青年自身で営まなくては,真の学習とはいわれない。この計画や試みは,その思考活動によるのであるから,ここに,学習の指導を考える場合には,児童や青年の思考活動の本性の如何が問題となる。

4.児童や青年はこの試みによって正しい理解に達し,結局そこに一つの知識のまとまりなり,考え方なり,技術の形なりを形作るのであるが,学習は,これが更に習熟することによって,身についたときに,完成される。身につくに至らない場合は,その理解はくずれ,忘れられて,学習の効果はみとめられないことになる。ここに,学習の完成のために,練習ということのたいせつな意味がある

 いま次に,これらの問題からみて,指導の方法を考える上に必要と思われることを少しく述べてみよう。


(一)学習の目的と意欲

 学習は,どんな場合でも,何かの目的をもっている。だから,児童や青年が学習を進めるには,この目標を知ることが,第一に,たいせつになる。ただしかしこの目標を知るということは,「これを学ぶのだ」と知りさえすればよいのではない。かれらは,その目標を自分の目標として,自分のものにしなければならないのである。そこで,学習の指導をするにあたっては,児童や青年が,ほんとうに,その目標を自分のものとして取り入れるような方法を考えて行かなければならない。そのために,われわれは,かれらがどんな場合にそれを自分の問題として活動を起すかを知って,それを考えあわせて,自分の学習の目的をほんとうに知ることのできる方法を工夫する必要がある。たとえば,音楽を学ばせる場合に,児童のこれから学ぼうとする音楽を,美しく奏したり,うたったりしてみせて,児童に,それを学ぶことが自分にとってどんなに楽しいことかを感じさせたり,粘土細工を学ばせるときに,りっぱにできたものを見せて,児童を刺げきすること,などがその一つで,これらは児童や青年が,その身のまわりに,実際のものを見たり,聞いたりすることで刺げきされて活動する事実を知れば,当然考えられる方法といってよいだろう。

 このような事を考えると,それは当然,先にいった児童や青年が積極的な活動を起す動力になる学ぼうとする意欲の問題に関係して来る。つまり,かれらは学習の目的を知るだけでなく,それについての意欲を持たなければならない。この意欲は興味と関係し,そこに自発性が現れて来るのである。この自発性は,単に目的を自分のものとして学習を出発させる動力になるばかりでなく,学習のはじめから終りまで,学習進行の動力として,極めてたいせつな意味を持っている。もちろん,そうはいっても,学習の指導は興味の問題だけに左右されるのではなく,目的によっては,興味がなくても,これを進めなくてはならない場合もあるし,また,興味だけにひきずられて方向をあやまってはならない。ただ,ここでいうのは指導の方法を考える場合には,興味の問題,ひいては自発性の問題が極めて重要であるということを考えておきたいのである。

 このような点から,学習の指導法を考える場含には,児童や青年の興味,ないし,自発性がどういうところにあるかを知ることは,極めてたいせつなことであるが,いま,その一般のことを次にあげてみよう。

1.まず,児童や青年がみずから進んで学ぼうとする自発性の源は,その一つをかれらが生まれつき持っているいろいろな活動の興味のうちに見出すことかできる。そこで,学習指導の方法を工夫する場合,このような活動に注意して行くことがたいせつになる。この児童や青年の興味による活動の最もよくあらわれているのは,その遊びの生活である。というのは,遊びとは一つの活動によって生まれるおもしろさが次の活動を誘い出すような形のものであるから,そこに,かれらがどんな事に興味を持って活動するかがよく示されているのである。われわれは,この意味から,児童や青年の遊びをよく見て,その活動を指導方法のうちに取り入れて行くようにすべきである。たとえば,児童がものを組み立てたり,作ったりするような,いわゆる,構成的な遊びをするのを見れば,このような作ったり,組み立てたりする活動を,指導方法として取り扱っていくといったふうにである。

2.次に,児童や青年の自発性の源として考えられるのは,その生活での必要性である。ことに,やや成長した児童または青年になると,必要ということがよく感ぜられるようになるので,このことはいっそう著しい。たとえば,遊びに必要なものを作る時の態度,必要なものをなくした時のそれをさがす態度といったものを見れば,このことがうなずかれるだろう。こういうことを見れば,われわれは,児童または青年がどんな生活の要求を持ち,その要求を満足させるためにどんな活動をするかをよく知って,そのような活動を,指導方法を考える時に,取り入れて行くように工夫することが大切である。たとえば,絵本にある絵を見た児童に,そこに書いてある文字を読みたいと強く感じさせて,児童の求める心持を起させ,そこで文字を学ぶようにするといった工夫が求められるのである。

3.児童や青年の自発性は,かれらがある困難にうちかって,それに成功した場合にもあらわれる。幼い児童が苦心して高いところにのぼった時の喜び,書き取りのできたときの児童の喜びは,次の活動を自発的に起す大きい力となるものであることは,だれでも知っているところである。この意味で,学習指導は児童や青年の能力の発達を考え合わせなくてはならないのであって,能力からとびはなれた指導法をとって,いつも失敗をくり返させるようでは,自発性は失われることになる。そこで,われわれは,児童または青年の精神や身体の発達について知り,その個人による違いに注意して,指導方法を工夫することがたいせつである。すなわち,教材はもちろん,方法の難易についても,その成長や能力にふさわしいものを選び,いつも努力すればうまく行くという心持が持てるように,工夫して行くべきで,かれらはこれによって,いっそう自発的に努力するようになるのである。

 凡そ以上のようなことは,たがいに関係していることで,これを分けて考えることは,適当ではないとも思える。たとえば,成功の喜びは,遊びになって行く動機だといえるし,必要への努力は,遊びの中にみられるといえるのである。ここでは,ただ説明のために分けてみただけである。

 こうして目的を自分のものとし,学習の全体が自発的に営まれる事情を見渡すと,どれを見ても,児童や青年の生活活動に注意しなくてはならないことがわかる。先にかかげた児童生活の特徴のあらましは,その意味で参考になると思うが,教師はただこの表だけにたよるようなことなく,その地城の児童,または,青年の生活をよく見て,そこに以上のような点から見て,指導方法としてねうちのある活動をたくさんに見出だすことにつとめることがたいせつである。


(二)児童青年の経験と知識

 学習が進められるためには,その基礎になる知識経験を,児童や青年が持っていなくてはならない。というのは,結局学習は,この今までに持っている知識経験を基礎として,新しいものをつかんで行く働きだからである。たとえば,5+3を学ぶには,5や3の数観念,加えることの意味が児童にまえもってわかっていなければならない。これを無視して学ばせようとしても,学習は進まない。児童が学ぶのだということは,このような点に関係しても,考えられなくてはならないのである。

 このようなことから,学習指導の方法を考える場合には,次のようなことに注意する必要がある。

1.児童や青年の生活経験について注意すること。

 児童や青年の知識経験は,その生活から得られるものが多い。そこで,われわれはその地域の児童青年がどんな生活をしているか,そこでどんな知識や経験を得ているかを知って,それらに応じた指導をすることが必要である。たとヘば,理科の指導には,その地域で児童が経験する動植物や気象,あるいは機械などに,どんなものがあるかを見て,指導の内容や方法を考えなくてはならないし,交通機関について学ばせようとすれば,まず,児童の身ぢかな交通機関についての経験を基にしなくてはならない。鉄道のない地方では,自転車や,馬車や,牛車から出発して行く必要があるのである。

2.児童や青年のすでに持っている知識に注意すること。

 上のように,児童や青年の経験世界に学習を出発させることは,いわゆる知識といわれないものをも含んでのことであるが,知識といわれるものについても,もちろんそのことが注意されなくてはならない。たとえば,新しく入学した児童に算数を指導しようとすれば,これらの児童の持っている数観念がどんなものかを確かめて,それで,指導をどんなふうにするかを考えなくてはならない。もし,そういう知識が弱い場合は,指導のはじめに,いろいろと方法を講じて,その知識を確かにしておくことも考えなくてはならない。たとえば,ぼんやりした知識をはっきりさせるために,お話しをしたり,絵を見せたり,また思ひ出すような刺げきを与えたりするようなのも,かような方法の一つだし,遠足や見学などをするのも,この意味で必要な場合があるわけである。


(三)児童青年の思考の性質

 先に述べたように,児童がほんとうに学ぶには,自分でやり方の計画をたて,それをみずから試みて,それで理解するようにならなければならない。つまり,児童や青年が自分で考え,自分で試みて,一つの知識に達し,考え方に達し,技術に達しなくてはならない。このことは,学習の進められる中心の動きとして見のがしてはならないたいせつな点である。これまでの指導は,ともすると,この点を無視して,教師だけが活動して,児童や青年が自分で考え,試みるかどうかをかえりみないで,うわすべりでもなんでも,無理にもひっぱって行こうとし,そのために,かれらがほんとうには学ばないことが少なくなかった。われわれは,これからの学習指導において,この児童や青年が,みずからの活動によって学んで行くように注意することが特にたいせつである。

 このようにして,児童や青年みずから考え,みずから試みて学習することが欠くことのできないことだとすると,この考えたり試みたりする働きは,その思考の性質によってきまって来るのだから,学習の指導には,どうしても,児童や青年の思考が,どんな働きをするかを考え合わせなくてはならないこととなる。しかし,また,かれらの思考の働き方は,その発達によって違っているから,われわれは,この思考の発達について知って,そこから,学習活動を導いて行く道を見つけ出すことが必要になる。このことは,児童や青年が,毎日の生活で,どんな活動をするかをよくみれば,自然にわかることだが,参考のために,その発達の概略と,それにもとづく指導法の工夫について,簡単に述べておくこととする。

1.一二年くらいまでの児童は,先に第二章で見たように,いわゆる自己中心的で,普通にいう論理をたどって考えることをしない。物事を知るのは,やってみて知る,つまり行動で認識するものだといってよい。しかも,この行動は児童の興味によって出て来るのである。だから,このころの児童は,興味を持って行うことで,はじめて学ぶことができる。児童はこのような活動で,その身のまわりと融け合った一つの世界を作りながら,自分というものを見出だし,また自分とその世界との関係がわかって来る。児童は,こうして,ほんとうに学ぶのである。たとえば,積み木に興味を持って,いろいろやっている児童は,積み木と自分との間に,なんのへだたりもない。それと一体になった一つの世界を作っている。しかも,自分の思うように行ったり行かなかったりするところで,問題がわかると同時に,そこにあるいろいろな関係がわかって来る。そこで,ほんとうに積み木について学ぶことができるのである。

 こうしてみると,このころの児童の指導方法を考えるには,まず,なんといっても児童の興味に注意し,それから生まれて来る自発的な活動を見出だし,そこに児童の学習活動が営まれるように工夫することがたいせつである。

2.三年あるいは四年くらいの児童になると,自己中心的な傾向はやや脱けて来るので,簡単な論理のすじをとって考えることができるようにはなるが,なお行動によって物事を知ろうとする傾向は著しい。そこで,多少とも知的に考えるような指導方法もとり得るが,なお,興味によって生まれて来る行動によって学ぶことは,その学習の中心の動きとして考えて行く必要がある。したがって,ここでもなお自発的な行動に注意して,指導を工夫することがたいせつである。

3.五年以上では,その発達の上からみて,自己中心的な思考から離れ,論理的な考え方ができるようになるし,あながち,行動しなければわからないともいえなくなる。

 このころから,児童の興味は多少とも知的なものに向かって来る。したがって,その活動も,単に行動的なものばかりではなくなって来るわけである。そこで,このころ以後では,行動によって学ぶといふ方法のほか,いわゆる知的な活動―たとえば,説明を聞くとか,調査をするとか,話し合い(討議)をするとかいうような―によって学んで行くことを,指導の方法に取り入れることができるようになる。そして,この傾向は,青年期が近づくに従って著しくなって行くのである。だから,中学校の生徒の指導方法としては,行動的な学習とともに,いわゆる知的な活動による学習が,いろいろ考えられることが当然なのである。

 以上のようなことは,もちろん,発達に個人差があるので,ただ単純に年だけにたよって考えたのではこまるが,一応のことは,これらによってわかると思う。要は,児童や青年が,その発達に応じた自発的な活動によって,不自然でない学習をし,それによって,ほんとうに,みずからのものになる学習をするような指導方法を,工夫するようなことがたいせつなのである。


(四)練習

 児童や青年は,上に述べて来たように,まず学習の目的を自分のものとして,それに到達しようとする意欲をもって,一つの自発的な活動を起し,それによって,試みを重ねて,理解に達するのであって,ここに,知識や考え方のまとまりができるのである。しかし,それをそのままに放っておくと,その理解はくずれて,再びわからなくなってしまう。ここに練習が必要になり,練習によって,これが身についたものになって来るのである。学習は,これではじめて,完成したということができ,習熟の域に達するのである。

 このような練習には,そのことを,だだそのままくり返して行く形のもの―たとえば,書き取りの練習とか,計算の練習とかのように―もないわけではないが,単純なくり返しは,多くの場合,むしろ無駄な努力になりやすい。学んだことを,直接に,いろいろなことに,適用してみるようなことが効果が多いのである。たとえば,ことばを学んだら,そのことばを使って,いろいろな文章を作ってみるとか,一つの形の面積の計算法を学んだら,それを,いろいろな実物の形の面積の計算に適用してみるということが,真に練習の効果をあげる方法となる。いわゆる,応用こそ,練習のたいせつな方法なのである。これらについても,指導法を考える場合に,注意しなくてはならないものがあるのである。

 このような練習の形を考えて,指導法を工夫するについては,なお,次のような注意が必要であろう。

1.同じことをくり返して練習する場合には,それを一時に長い時間練習するよりも,短時間長い時期にわたって練習する方が効果が多い。たとえば,運針の練習,計算の練習などをする場合には,できれば,毎日数分の練習を長く続けることが望ましい。

2.この種の練習を,長期にわたってする場合には,とかく,児童でも青年でも,興味を失いやすい。そこで,この興味を持ち続けるような工夫をすることが,たいせつである。たとえば,毎日の成績を記録して,その進歩を自分で知りながら,勇気づけられて練習を続けるといった工夫がいるのである。

3.応用的な練習も,種類によっては,できる限り少しずつ,長期にわたって練習をするように工夫することが望ましい。たとえば,一つの数理の理解についての応用問題を,時々課して,練習を重ねるようなのがそれである。しかし,この種の練習は一つの複雑な活動を工夫することによって,児童や青年の自発的な活動を促すとともに,深く身につくようにすることも,考えらるべきである。学習したことを劇化してみるとか,応用的な問題について話し合い(討議)をしてみるとかいうような方法がそれである。

************************

 当時の教育の理念,学習指導の理想がすばらしいものであることは言うまでもありません。

 今でもこのような理想は大切にすべきです。

 しかし,それを「学校」という場で実践させることがいかに難しいものか。

 教師に限らず,親も,企業の研修担当者も,みんなが感じていることでしょう。

 興味を持ち続ける工夫として「記録をつける」というのも,ダイエットなどの例を出すまでもなく,実践している人はいるでしょう。

 しかし,「学校」は,結局のところ,そういう「工夫」でも「強いる」結果になってしまう場所です。

 「自発性が大事」なのですが,それがなかなか発揮できないものだから,「学校」というものが必要になる。

 こうした教育の理念なり理想なりは,やはり「理想」なのです。

 現代では,こういう「理想」に最も近いことをしているのが小学校ですが,

 この通りにやろうと思えば思うほど,「力がつかない」という現実に襲われる。

 一番わかってほしいのは,まずは「親」でしょうか。

 そして,「子ども」自身です。

 このような教育の「理念」を理解できるような子どもが集まり,それを実践できる能力がある教師が集まり,学校での活動に理解を示せる保護者が協力してくれる,そういう環境をつくるのが,

 教育行政の使命なのでしょう。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
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  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より