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「わかりやすく病」と「好きにさせなきゃ病」の合併症で子どもの学力が低下する

 わかりやすく話すことは,教師にとって基礎的な技能である。

 しかし,それは「レベルの低い内容を話す」ことではない。

 中学校や高校はともかく,小学校の教師には,高いレベルの話をする能力は必要ないのではないか,と思われる人がいるかもしれない。特に,小学校の教師の中に。

 もう何十年も前から,小学生は家庭で大人向けの情報にひたりきって育ってきた。もちろんテレビのことである。

 最近は聞かれなくなったが,PTAが低俗番組への抗議を行うことがあった。

 「こんなのは子どもに見せられない」と。

 そういうのを喜んで見ているのは子どもより大人の方かもしれないのに。

 勘違い教師が受け持ちになってしまうと,子どもは教科書という狭い世界の枠内のみの言葉しか耳にすることができなくなる。

 そんなことでは本当の「勉強好き」は生まれない。

 小学校のころに,中学校,高校で学ぶことのおもしろさを語れる教師はどのくらいいるだろうか。

 「中学校,高校の勉強は難しいよ」などという「脅し」しかできない教師は山のようにいるかもしれないが。 

 小学校教師自身の「学力」が問題視されるようになるまで,それほどの時間はかからないだろう。

 本当の意味での「学力向上」が必要なのは,学校の教師である。

 そもそも小学校の教師になる人の「基礎学力」とは,どの程度のものなのか。

 私は立場上,小学校の教師向けの教育書を手に取ることが多いが,中には,高校受験の参考書よりも,小学生向けの通信添削の教材程度(印象的にはさらにそれ以下)の本が見られる。

 挿絵がたくさんあり,文字が大きく,内容が乏しい。

 編集者の人に聞くと,「こういう本ほどよく売れる」というのだから,驚きである。

 小学校の教師の多くは,難しそうな本は手に取っても読むのをすぐにやめてしまうそうだ。

 (もちろん,これは別の校種の教師にもあてはまることだろうが)

 私の造語で表現すれば,こういう教師は

 「わかりやすく病」にかかっている。

 もう一つの「好きにさせなきゃ病」との合併症を併発していることが多い。

 誤解されるのをあえて考慮せずに書くと,

 小学生は頭が悪い=難しいことを言ってもわからない=やさしい言葉で説明してあげなければならない

 という発想である。

 私なりの考えはこうである。

 小学生の頭はやわらかい=難しいことでもどんどん吸収できる=やさしい言葉で励ましてあげればどんどんついてくる

 小学校の教師は言う。

 「小学生は抽象概念を操ることが苦手だ」と。

 そんなもの,大人だって苦手な人は少なくない。

 では,いつも具体的なものばかりで考えていたら,いつかは抽象的な思考を自ら発揮できるようになるのか?

 「権威」や「正義」は小学生にとって理解できないものなのか?

 とんでもない。

 大人の都合で,小学生に「理解させたくないことがある」のは,教師として理解できる。

 しかし,どんな小学生でも,自分の学力を高めたくないと思っている子どもは一人もいないことを知っておいてほしい。

 わざわざ説明しなくてもわかるような「わかりやすい言葉」を,小学生は期待しているのだろうか?

 「わからない」=「嫌い」という単純な「感情回路」しかもっていないのは,

 小学生ではなくて教師の方ではないのか?

 それが,「好きにさせなきゃ病」がもたらす「感情回路」の一つである。

 「わかりやすく病」との合併症は,

 わからないと思わせたくない→だれでもわかること=言わなくてもいいことしか,話せない・・・

 これでは学力は向上しない。

 ほっといても子どもの学力は上がるが,

 「向上」はしない。

 
 「わかりやすく病」や「好きにさせなきゃ病」の実態は,これまでも述べてきたが,

 どんなに高いハードルを用意しても,必ずそれを超えようとする子どもがいる。

 こういう子どもを教師は大切にしなければならない。

 「向学心に燃えた子ども」が浮かないように,教師は最大限の配慮をすべきである。

 向学心の炎をもらって自らも光を発しだす子どもを増やすような配慮を教師はすべきである。

 教室は,教師と子どもの1対1で学習する場ではない。

 教師が子どもと1対40で学習する場でもない。

 子ども1人と子ども39人の,子ども2人と子ども2人の・・・など,規模と組み合わせは有限の時間の中で,ほとんど無限に存在する。

 子どもによい影響を与えるのは教師よりも子どもたち自身である。

 そのお膳立てをするのが教師である。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より