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思考は表現のためとは限らない

 思考には,「整理」を目的としたものがある。

 もし「整理」されたものが,正しいものかどうかを第三者が判断する必要にせまられたら,「表現」させなければならない。

 だから,「思考は表現のためのもの」と言えなくもないのかもしれないが,

 だれにでも,「言いたくないこと」はある。

 それは「思考」せずにすませられるものかというと,そうではない。

 むしろ,「考え抜く」という主体的な態度がそこで形成される。

 「思考」したことを何でもかんでも「表現」する,たとえばあの「誹謗中傷ブログ」を思い浮かべてほしい。

 書き手の「思考」も「感情」も手に取るようにわかるが,

 相手を傷つけるようなことは「表現」すべきではない。

 「行動」を「表現活動」と捉えれば,話は別だが,

 「態度」や「行動」というのは,赤ん坊ではないのだから,

 「感情」ではなく「思考」によってコントロールされるべきものである。

 何事も自分の都合のいいように解釈し,

 創造的思考と論理的思考の区別もできないような教員では,

 子どもが気の毒である。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より