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内田樹の『憂国論』と教育 ~その1 アンサング・ヒーロー~

 ようやく普通の本を手に取って読める時間的な余裕ができました。何か月ぶりかのことです。

 『街場の憂国論』(内田樹著,晶文社)のあとがきに,内田樹が生涯かかえていた「危機感」のことが簡単に説明されています。

 日本の行く末に関する「危機感」と,私が抱いている一つの学校の明日,来週,来月,来年への「危機感」とはスケールが違いすぎるかもしれませんが,「警句」として頂戴できる言葉が見つかり次第,ここに記録しておこう,というのがこのブログ記事(シリーズ)の趣旨です。本の帯に「天下の暴論」とある通り,鵜呑みにすることができない内容については,もちろん批判を加えながら,まとめていきたいと思います。

******************

 原発事故を例に,「事故が起こったら大変なことになる」のは分かっていても,事故が起こらない状態がずーっと続くと,「たぶん事故は起こらない」というようなムードが高まってくる。

 私は通勤途中,ある人物の警護にあたっているSPと毎日すれ違っているのですが,「問題なんて,起こるわけないだろう」と本気で思っています。

 しかし,「問題は起こらない」などと言うことはできない。

 「問題は起こらない」でほしいという強い願望によって,

 「問題を起こさない」ことができる,と考えている人もいるでしょうが,自然災害を例にとってもわかるように,「願望」でそれを防ぐことはできません。

 こんな当たり前のことに神経が鈍くなってしまう理由が,「何も起こらない状態が続くこと」にある。
 
 世の中には,「ほんのわずかな気づかいで防ぐことができたはず」の事故がたくさん起こっています。

******************
 
 学校の教育現場でも,似たような状況がある。

 「今の状態のこの学校が,荒れるはずない」

 「毎日来ているあの生徒が,急に不登校になるはずがない」

 「私たちの学校に,不審者が侵入して生徒に危害を加えることなんてない」

 ・・・みんな「願望」にすぎません。

 問題が実際に発生する学校というのは,それが「願望」だけで終わってしまって,

 「問題を起こさないための手立て」を講じていないケースが多い。

 もちろん,どんな手立てを講じたとしても,予想できない事態が起こることによって,問題の発生を防げないこともあります。しかし,あらかじめ打っていた手によって,被害が最小限に抑えられたり(減災),事後の対応がスムーズで,問題の解決に時間がかからない,というメリットは当然あるのです。

 私がはっとさせられた,あとがきの文章を引用します。

******************

 陰徳を積むよりは,実際に危機が起きてから,華やかな働きをお見せして,それに相応しい報奨を受け取る方が「得だ」というふうに考える人,リスクを未然に防いで「歌われずに」終わるより,リスクが現実化したあとに「歌われる」チャンスを手に入れる方がクレバーだと考える人,そういう人が能力の高い人の中に増えてきている。


 堤防の「蟻の穴」に誰も小石を詰めようとしない社会,それを「リスク社会」と呼ぶのだろうと思います。僕たちが直面しているのは,そういうタイプの危機です。

******************

 学校現場にも,そういう教師はいないでしょうか。

 明らかに問題が発生しそうなクラスがある。子どもがいる。

 それを何も指摘しない。問題が現実化していないのに,それを担任の教師に伝えるのは

 「失礼だから」。

 危機を伝えて,問題が発生しなかったときに,

 「だから言ったでしょ」なんて非難されることが嫌だから。

 でも,実際に問題は起こる。

 問題になるのがわかっていた人のうち,指導力のある人は,

 それなりに問題を収束させることができる。

 そして,そのときに,初めて評価される。

 「アンサング・ヒーロー(歌われざる英雄)」とは,現実の問題を解決した人ではなく,

 問題を起こさないように陰の働きをしていた人のことを言うそうですが,

 たしかに,業績として評価しやすいのは,現実の問題が起こった後に,それを解決した人です。

 事前に問題の発生を予知し,その発生を防いだ人の働きは「見えにくい」ために,なかなか評価されない。

 評価されないことはしない。

 そういう人間が増えていくことへの危惧を内田樹は抱いている,ということです。

 特に国を動かす力のある人たちの基本スタンスがこういう「自己の利益を最大限にする」方法に偏っていったら,防げる問題が防げなくなる可能性が高くなるのですから,本当に問題だと思います。

 それをそのまま教育現場にもあてはめることが可能かというと,そうではない,というのが私の考えです。

 教師の場合,たとえ人事考課があったとしても,たとえばAが3分の1,Bが3分の1,Cが3分の1だったら大騒ぎするかもしれませんが,ほとんどの人間がBである場合は,「業績評価」の心配はほとんどしません。

 だから,わざわざ「問題発生後の高パフォーマンス」をねらって,その前には何もしない,ということは教育現場では起こりません。

 そもそも壊れた機械を修理するようなかたちで「問題発生後の高パフォーマンス」が発揮できる教師などほとんどいません。

 私の一番の心配は,

 「危機感すら抱けない」教師たちの存在です。

 当たり前のことですが,教師にも

 「アンサング・ヒーロー」はたくさんいます。

 たった一言だけの言葉かけや,教師のわずかなしぐさ(うなずきなど)が,生徒を救うこともある。

 いい学校というのは,「顕彰されない英雄」だらけの学校なのです。

 そういう行動規範が学校現場で教師から生徒へと受け継がれること,それが学校に,教師に求められている使命であると感じられました。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より