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強力な「いじめ対策」で完成する「身勝手人間」の天下

 この記事で言いたいことは,「いじめられるのは身勝手な人間だからだ」ということではないことを最初に確認しておきます。

 「いじめ対策」を徹底させて,その直接的な成果・・・いじめが減る,なくなる,

 ということが現れるとき,同時に問題になってくるかもしれないのが,

 「従来はいじめられていた人がいじめられなくなり,それをいいことに,さらに身勝手な行動が増えてくる」

 というものです。

 私自身の体験からすると,

 まさに「身勝手の塊」のような人間を遊び仲間に入れなかった(正確にいうと,一つのゲームが終わるまで待っていてもらおうとした)ところ,

 「いじめだ!」と騒ぎだし,担任の教師に訴えて,私が「いじめっ子」扱いをされ,大変なことになりました。

 その後の「身勝手人間」はやりたい放題で,担任教師まで手を焼く始末。

 本当にやっかいなのは,何か不満があると父親に訴え,父親がすぐに学校に怒鳴り込んでくる,という家庭で,

 本人に落ち度があっても,すぐに逆ギレして話を別の方向にすり替えていく。

 「いじめはいけない」わけですが,こういう人間に「ものをわからせる」ためにできることが,

 小学生や中学生の段階ではわからないわけですね。

 「正義」を実行しようとすると,「いじめ」の加害者=悪人になってしまう。

 いまや,こういう「身勝手人間」の天下になってしまっている学校や学級はないでしょうか。

 もちろん,この「身勝手人間」があの症候群であった場合は,

 排除するより良さを認めていい気にさせておいた方が,問題は減る傾向にあることを教師は知っています。

 しかし,小学生や中学生の「がまんの限界」水準は決して高くない。

 「いじめ」はないが,本当にぎくしゃくした,というか,

 まわりに無関心,無反応の子どもは増えてしまっていないか,というのが私の危惧です。

 まだ,「いじめよう」と思う気がある方が,子どもとしては「正常」ではないか・・・・なんて言ったら,怒られますかね・・・。

 「いじめよう」と思うことまで「禁止」することはできません。

 もちろん,「いじめる」のは「禁止」です。

 昔から,無反応傾向の子どもを「いじめる」というケースがありました。

 こういうのはもちろん「思うこと」すらいけない「いじめ」です。

 最近は,アメリカのプロスポーツの世界の「いじめ」までが話題に上がるようになりました。

 日本だけが特殊なのではありません。

 ネットいじめが深刻化する国は増えていくでしょう。

 ネットの世界は,「身勝手人間」の巣窟になってしまうのでしょうか。

 いや,リアルの世界でも,「身勝手人間」こそが人生の成功を収めることができる,なんて時代にこれからはなっていってしまうのでしょうか?


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コメント

教師の暴言に対して,暴動を起こす中学生をご覧になったことがありますか?
実は,教師の行動を抑止できる力を中学生や高校生ならもっています。
部活動のように特殊な世界は別として。
しかし,まともに注意をしても,授業の妨害行動,施設の破壊行動をやめない子どもたちを「おさえつける」力も,同時に教師には求められてきました。
私は,子どもに注意すらできない「無法地帯」に異動した経験から,「荒れた学校」に存在する「負の連鎖」「悪循環」を断ち切る方法を編み出すことができました。
最終的には,教師と子どもとの間の信頼関係です。
信頼関係を築くのに,暴力や暴言が有効的であるわけがありません。
プラスの方向をめざしている教師,学校は必ずあるはずです。
逆に,マイナスの溝を深めている教師,学校があったら,見つけ次第,対処することが求められているのが,教育委員会なんですけどね。
そこが元校長たちの巣窟になってしまっていたら,本当に目も当てられません。
ただそういう自治体の首長が,同じような人間なら,権限をどこに持っていこうが,効果がないかもしれないのが哀しいところです。

いじめは虐待の連鎖と同じ構造を持っています、「外傷性転移」という用語をご存じでしょうか
加害者のきょうじつには必ず、むしゃくしゃしてというものがありますね。
もし、教師が思い通りにならない子供を見て、カッとなり、暴言や暴力を指導という名目の元に行使したなら、、、少し前までは教師の暴行は指導であると認知されていましたが、ここ最近エスカレートして死に追い詰める教師が出現しました。今後こういう教師が増えるのは間違いないでしょう。

学校という組織に大変な問題があると認識しています。
中野富士見中でいじめに教師が数人加わっていたこと、大津市皇子山中でにたような事件があっても
根底から見直されることはなく、第3者組織とかでお茶を濁してしまう。根本的な対策を行わず何かやっているという見世物だけ、それが現実?

家庭と、学校両方が変わらなければならないのに、現状維持を好む人の多いこと、大阪市の校長公募の失敗を見ても明らかに故意に改革しない人を選んで公募制度を内側から破壊しようとしているように見えてなりません。

直したい、という気持ちより現状維持を優先する大きな組織、巨大組織病とでも言う状態ですよ、今の学校は、、、

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
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    「奇貨居くべし 黄河編」より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
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  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より