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「浅い思考」と「深い思考」の違い

 人が成功するか,失敗するかの違いは,どうして生まれるのか?

 その人のもつ「運命」か?

 まわりの人たちの「環境」「関係」か?

 あくまでもその人の「能力」か?

 たぶん,そのうちのこれしかない,ということではないだろう。

 「定石どおり」の攻め方ばかりをすると,相手もその「定石」を踏まえていれば

 すぐにばれてしまうから,

 どこかで「意表を突く」こともしなければならない。

 相手を混乱させることも,戦いでは「定石」となる。

 ここでは孫子の兵法にじっくりふれたいところだが,今日はやめておく。

 「定石」とは,こういうことだ,と読んで字のごとくにうけとる「浅い思考」をしているうちは,

 まだまだ「達人」の域にはほど遠いということである。

 「深い思考」とは何か?

 それは,まずは成功するか,失敗するかの違いはその人の「思考」のあり方が決めている,

 という認識を出発点にして, 「多くの人がよしとしていること」にも

 疑問を投げかけられるような態度が必要である。

 これは,特に教師にとって必要な資質・能力であると考えている。

 小学生が,ある独創的なアイデアを思いつき,それを教師が

 「そういうことは,これこれこういう理屈に基づいて言えば,間違いですよ」

 とたしなめてしまったとする。

 その子どもにとっての成長の芽は摘み取られてしまったかもしれない。

 しかし,「それは間違いですよ」というのをためらいもなく子どもに投げかけてしまうタイプの教師は少なくない。

 多くの子どもは,教師たちの無自覚によって,「浅い思考」・・・・特に,教師に気に入られるか,教師に認められるかどうかを基準にする・・・しかできなくなっていく。

 大人も,「浅い思考」の典型的な話しかしないから,子どもは「思考とはそういうものだ」と思い込むようになってしまう。

 教師の資質能力,態度,表現は,子どもの将来を大きく左右しかねないものである。

 私たち教師は,自分がいかに子どもの成長の芽を摘んでしまっているか,いつでもふり返って「思考」する癖をつけておかなければならない。

 世の中は,「定石」が通用しない社会にどんどん移行していく。

 先が長い子どもたちには,そういう社会を生き抜くための「定石ではない定石」を教えてあげることが大人のつとめである。


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コメント

有田和正という小学校の社会科教師の授業をよく知っている人から聞いた話である。

この先生は,歴史の資料を読み解かせるとき,みんなが気づきそうな,指導書などにも載っているような,「大事な箇所」の発言はあまり重視しなかったそうである。

傍目から見ると,どうでもいいことに目を輝かせ,意外な発言をした子どもの評価が高くなることを子どもたちはみんな知っている。だから,一般の学校での「正解」のような答えはなかなかでない。

中学校に上がると,知っていなければならないことをほとんど知らないでいたことに気づいて子どもたちはショックを受ける,というのがオチである。

普通の先生が考える「大事なこと」を犠牲にして,とても大切なものを育ててくれていた先生のようだ。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より