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1対40の情報処理の方法

 40人を相手に話をする機会が多い教師にとって,1人とか2人によって話された言葉ではなく,

 40人のどこからくるかもしれない

 つぶやき,

 うなずき,

 40人の複雑な表情などを

 「読み取る」技能が自分の「指導力」の前提になります。

 研究授業では「めざわり」「邪魔」になってしまう多くの参観者のせいで,

 とても優れた「つぶやき」を聞き逃してしまう教師によく出会います。

 それがのちの研究協議の話題になることもありますが,

 私の経験では,あまり勉強が得意ではない,

 その先生の授業ではいつも寝ているような子どもに限って,

 研究授業の場になると,張り切って?とても大切な(的はずれになっていることもありますが,それも逆に使える)言葉をつぶやくことが多いです。

 それは,授業者の先生には認められていないけれど,参観している多くの先生には気づいてほしい,または,今日はさすがに生徒の方にもいつもより注意が向けられているはずだから,私の方を見てほしい,というメッセージがこめられていると考えることができます。

 しかし,まさかそこから小さい声の発言(つぶやき)が出てくるとは思わない教師は,どうしても気づけない。

 聞き取れなければ,そして,その生徒がそれでつぶやくのをやめてしまったら,

 もう「指導」の機会は失われてしまったと言っていい。

 こういうレベルの話を教育ブログでは読みたいものですが,

 あくまでも1対1の情報処理だけにこだわって,かつ,

 「私の言いたいことにかかわる反応以外は認めない」なんていう

 「情報遮断型」の教師の「言い訳」書みたいなものにお目にかかってしまう。

 そもそも「現場の教師の話なんて関係ない」なんて記事を読む価値は全くないのですが,そんな態度は教育界に蔓延している汚染物質のようなものですから,どうにか視界を晴らしていきたい。

 指導力のレベルの低さを象徴するような内容を読むと,本当にがっかりする一方,まだ教育に関心があるうちに,目を覚ませる方法はないのか?と考えているのです。

 あまりにも独りよがりな情報発信,あまりにも独善的な情報受信,そんなものが教育ブログの特徴だ,なんて言われるのは心外です。

 教育の世界では,40人のどこから発せられるかわからない,言葉ではないものも含んだ

 「情報発信」をどうやって処理するかが課題なのです。

 指導力不足教師の授業をみると,どんな反応も「受信」できず(参観者の不満や怒りの雰囲気は十分に「受信」できているのはよくわかります),適切な反応を導き出す「発信」ができないのが特徴です。

 まずは,どんな反応にも「否定的な対応」はしない。「批判的な反応」をする。

 「批判的」=「否定的」ではありません。

 どういう思考のもので,その発信がなされたのか,その発信者の特性と,授業の流れを総合的に見ながら,推論し,場合によっては確かめ,場合によってはそこからさらに発展させて,新しい授業の流れをつくりだしていく。

 これが「指導力」の一面です。

 小学校教師が大好きな教祖たちの本を読むと,そのごく一部だけが切り出されてる授業場面を知ることができます。

 大事なのは,そこで切り捨てられた子どもたちをどうするか,ということなのです。

 1対40の情報処理は,決して機械ではできません。

 子どもを「壊れた機械」なんていう扱い方しかできない教師には,教育なんてつとまりません。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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