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内田樹の『憂国論』と教育 ~その2 救われたこと~

 『街場の憂国論』(内田樹著,晶文社)のまえがきに,私がほっと胸をなでおろした記述がありました。

 内田樹は,仕事を減らそうとして,「他の人があまり言わないこと」を書くようにしたとのことです。

 でも,それが人気を集める結果となり,逆に仕事が増えてしまった・・・

 これはただの戦略ではないかと思ってしまいましたが,・・・・。

 ところで,以前の著書で,

 ネットに匿名で攻撃的なことを書く人のことを批判している文章を読んだことがありました。

 斜め読みをしていたせいか,その批判の具体的な内容をつかみ損ねていたのです。

 それが,この「まえがき」ではっきりしました。

**************

 その人自身は「多くの人が自分と同じことを言っている」という事実を根拠にして「だから私の言うことは正しいのだ」と思っています。ネットに匿名で攻撃的なことを書く人のほとんどはそういう前提に立っています。

 あまり言われないことですけれど,「私と同意見の人間がたくさんいる」というのはある意味で自分に対する「呪い」として機能するからです。それは「私がいなくなっても,私が口を閉ざしても,誰も困らない。私はいくらでも替えが効く人間である」と宣言するに等しいことなのです。

**************

 これは内田樹流の「反撃」なのでしょうが,私もかなり攻撃的なことを書いていますので,自分は自分に「呪い」をかけているのか?と気にかけたことがありました。

 でも,それが払拭されました(・・・もちろん,「敵」を想定して怒りをもとに文章を書いている,という指摘は正しいのですが,それはみんなに当てはまるでしょう)。

 教育界には,

 「教育はちゃんと成り立っている」ことにする,暗黙の了解というものがあります。

 文部科学省に提出する書類も,もとは各学校から集められているものですが,これはみんな「正しい」前提で集計がされている。いちいち,たとえば授業時数をチェックしにいくことはありません。

 学級日誌を調べれば,いろいろわかってくるはずなのですが。

 しかし,実際に学校訪問すると,「短縮授業」などをバンバン行って,標準時数をクリアしていないところがたくさん「見えて」くる。

 それは,「見ないことにする」のが礼儀です(ただし,東京都教育委員会だけは,甘く見ない方がよいです)。

 ある都道府県の人はみんな知っていることだと思いますが,

 ここでは何と「目標準拠評価」ではなく,「相対評価」がまだ生きている。

 高校入試には,「相対評価」の方の信頼性が高いから,というのが理由でしょうが,

 公文書である「指導要録」に書かれている評価は嘘っぱち,ということになる。

 こういう話を公開している人はいないでしょう。

 

 当たり前だけど,そういう話を「支持」してくれるような人はあまりいない。

 なあなあでながく過ごせてきた人に,子どもの学力が低いままでも自分の給料には何の影響もない人たちに,私の話など,読む価値はないのです。

 手遅れになってからでは遅いのですが,現状はすでに手遅れの状態です。

 小6の算数の学習状況があれでは,中学校の数学にはついてこられないことは明白。

 そういう「事実」を明るみにする最大の材料が,全国学力調査。

 もちろん学校ごとの成績公表に反対する人はいる(特に成績が低い学校の関係者は)でしょう。

 公表することに効果はあるか?

 ありますよ。成績の低い学校には,異動でいい教師がやってきます。

 意地悪な自治体の場合は,問題教師だけ集めて,どうにもならないところまで荒れさせて,学力を低下させて,統廃合にもっていくこともあるでしょうが。

 いつもの話に脱線してしまいました。

 今日の趣旨は,「他の人が書かないことを書く」というスタンスの単なる確認でした。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より