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教師と子どもの意思疎通のズレは,そんな程度のものではない!

 「学級崩壊」の発生と無縁の教師生活を送っている人には,

 「そもそもなぜそんなことが起きるのだろう」と不思議でならないかもしれない。
 
 「荒れた学校」と無縁の教師生活を送ってきた人には,

 そもそも「荒れる」とはどういうことか,理解できないかもしれない。

 かわいそうなのは,そういうのを経験したことがなく(だからこそ,教師を志望したのかもしれませんが),

 教師になってしまった人である。

 初めて「崩壊」「荒れ」に遭遇すると,精神的にまいってしまうことが考えられる。

 自分のクラスで起こらなくても,たとえば「荒れ」は,別のクラス,別の学年からの「波及効果」がある。

 今日は,ある勉強会に参加していたが,講師の先生がおもしろい表現をされていた。

 中学校の教師は,自分が担任をしている学年ではない学年・・・いわゆる「他学年」の授業を受け持つことがある。

 その「他学年」が荒れていて,自分の学年がしっかりしていると,ときに

 「完全なアウェー」の状態で授業をすることになる,というような内容だった。

 この先生はサッカーの指導者だからこそ,そのような表現になったのかもしれないが,

 言っていることはよくわかる。

 ある人が,教師と生徒のコミュニケーションの関係を二次元のグラフで説明しているが,

 本当のズレは,三次元,いや,四次元の世界で起こっているのだ。

 一言で表現すれば,それだけ致命的に「ずれている」人が,教員のなかにいる。

 人柄のおかげで崩壊しないところもあるが,

 崩壊するにはそれなりの理由がはっきりと存在する。

 「どうして・・・?」と不思議な人も,実際にその教室に入れば,すぐに「悟る」ことができるだろう。

 学校の「荒れ」も同様である。

 「学級崩壊」というと,何となく,先生は生徒のためを思って改善したいと努力している,というイメージもあるだろうが,実際には,教師の方がすでに崩壊しているケースもある。

 学校の「荒れ」の多くは,「指導すべき時に指導すべき人が指導しない」ことを主因として発生する。

 重度の指導力不足教員がいる場合は,「指導すべき時」すらわからないので,話にならない。

 一般の指導力不足教員は,「指導すべき時」はわかるのだが,「指導すべき人」がだれかがわからないので,指導できない。おまえはだれだ?と質問したくなる。

 いじめの拡大と同じで,普通の教員でも,「指導すべき時」も「指導すべき人」もわかっているのに「指導しない」人が多いと,生徒は手が付けられなくなる。

 鈍感と傍観が,「学校の荒れ」を助長させるのである。

 もし教師の指導力について電気関係のものでたとえるなら,

 アンテナの機能と重ね合わせて説明してみたらどうだろうか。

 昔,原爆投下のための仕組みに,日本の技術が生かされていることをどこかで書いたことがある。

 教師とアンテナ。まずは,学校の教師は家庭教師ではない,というところを出発点にしてほしい。
 
 指導力について語るのは,そのあとだ。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より