『半沢直樹』が『半沢直子』だったら?
「道徳」という時間は,男尊女卑を絵に描いたような時代の支柱となっていた「儒教」とのつながりが深いこともあって嫌悪されることがあるように,
何かの価値観を教える,といったとき,どうしても顔を出してしまうのが,
「社会全体の風潮」や「個人の趣向」です。
TVドラマ『半沢直樹』の印象も,さまざまなかたちで語られていますが,
「半沢直樹の妻」について,「理想の妻」「理想の女性」という見方がされることについては,
女性の立場ならどのような感じ方をされるのでしょう。
私の場合は,男性中心社会である企業で,男性が奮闘し,女性がそれを陰で支える,という
青鞜社が嘆いていた現状が100年たっても続いている,
そんなイメージを強く感じます。
もし,主役が女性だったら,このTVドラマは成立したのでしょうか。
『半沢直樹』くらいの視聴率をとることができたでしょうか。
女性が男性に土下座させる,・・・・こんな絵柄は,家庭内ではありふれていて,インパクトに欠けるかもしれませんが,少なくとも,『半沢直樹』は,フィクションとはいえ,銀行という企業の姿に違和感がないようなつくりになっていたのではないでしょうか。
ある意味ではあり得ないことがドラマとして演じられており,一方では,本当の姿,
いえ,男性社会にとって「理想とする姿」がそこに描かれていたのではないでしょうか。
女性の側でも,かつての「母性保護論争」のように,価値観や政策への同意は一つにはまとまりません。
現代でも,「論争」がおこるくらいのエネルギーを生み出せるような仕組みは維持しておく必要があると思われます。
もちろんそれは抑圧することによってではなくて,さまざまな価値観があってよいということを教育する過程においてです。
「個性の尊重」などと理想だけを述べていても,「どうやって尊重するのか」「どうやって個性を尊重する人に育てるのか」が語れなければ,教育などできません。
小学校が「女性社会」であることが多いのに対して,「力がものをいう」という面がある中学校が「男性社会」であることはよく知られていることでしょう。
管理職の数で男女を比較するだけでも,実際の教員の男女のバランスを比較するだけでもわかります。
そういう「男性社会」の方が都合がよいと考える教師は,中学生に対しても,「男はこうだからいい」「女はこうだからだめだ」というステレオタイプのものの見方から抜けられず,「個性の尊重」など完全に視野の外にある人間が多くなります。
力のある教師は,さらにそれを子どもにまで押し付けようとするし,力のない教師は,ただただ子どもに反発されるがままになる。
いずれの場合も,問題の解決には結びついていません。
ただ,こういう問題も,男性にとって都合のよい社会を維持していくのが目標なのであれば,そもそも「問題」ですらなかった,というよりも,合理的な指導だった,ということになってきます。
さすがに「もっと女子らしくしろ!」なんていう表現をする教師はいなくなったでしょうが,心のなかで思っていることは,中学生くらいの敏感な子どもにはすぐに伝わってしまうのです。
それこそ,「初対面」「第一印象」で,ばれてしまうのです。
男子がなんだか指導しやすく,女子が指導しにくいという愚痴をこぼしている男性教師は,まずは自分の「道徳観」「教育観」を見直すべきなのです。
« それは古い男の偏った「思考スタイル」 | トップページ | 効率を重視すれば,それは「男女別学」に魅力はあるでしょう »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
「ニュースより」カテゴリの記事
- 止まらないビールの需要減(2018.12.30)
- 五輪ボランティアの数字を見て(2018.12.27)
- 南青山に似た環境の公立学校は,頑張った。(2018.12.23)
- 愛校心によって大切なものを失った経験から(2018.12.16)
「社会科」カテゴリの記事
- 止まらないビールの需要減(2018.12.30)
- 皇族への言論弾圧(2018.11.30)
- ありえない課題設定・・・EUが1つの国?(2018.11.24)
- 1000人当たりの暴力行為発生件数ワースト5は(2018.10.29)
- 創造性を奪うポートフォリオ評価(2018.06.05)
「ブログネタ」カテゴリの記事
- 「大人になったら教師はいなくなる」は大間違い(2017.11.27)
- 歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの(2017.11.19)
- 「功を焦る子ども」に成長が阻害される「弱者たち」(2017.09.26)
「教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事
- 遠慮しないで情報を提供しろ!~いじめを見逃す環境との戦い(2018.12.29)
- 偶然の重なりと緻密な演出~インスタレーションから受けた刺激(2018.12.22)
- 子どもから有能感を奪い取る方法(2018.11.25)
- 量より質が大事なものと,質より量が大事なものとは?(2018.04.23)
- 現実的な教育内容や教育方法の議論がなぜ小学校や高校では役に立たないか(2017.12.29)
「道徳」カテゴリの記事
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 五輪ボランティアの数字を見て(2018.12.27)
- 南青山に似た環境の公立学校は,頑張った。(2018.12.23)
- チコちゃんに叱られる~おやじギャグが言える年齢になると,ホンネも漏れやすい(2018.11.11)
- 道徳教育が成立するための条件とは(2018.10.31)
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
« それは古い男の偏った「思考スタイル」 | トップページ | 効率を重視すれば,それは「男女別学」に魅力はあるでしょう »
まあ、生物学的に男性と女性は脳の使い方に差があるのは明らかです。古来から言われている分析には大きな誤りがあり、実際には女性の脳は脳梁という部分が男性より大きいのです。コンピュータのデータバスの幅に相当するのが脳梁です。女性の方が勘が鋭く、EQも高い傾向があるのです。
また、男性の場合はいわゆる男性脳に近い人から女性の持つ特性を持っている脳の持ち主もいるので、男性だから~女性だから~というやり方では不都合な点が多く出てくると思います。
儒教の考え方には権力者が権力を維持するのに都合が良い暗示が仕込まれていて、心理的に巧妙なトリックだと考えています。
さて、あるべき?~すべきという考え方はこの際、全部なくして、なにも誰からも期待されず、誰からも望ましいと思われる必要な無い自分の自分らしさをどこかで見つけることが良い結果に結びつくと思います。
投稿: 匿名 | 2013/11/04 15:48