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大阪府独自統一テスト実施が投げかけている問題

 大阪府における高校入試では,合否判定材料になっている「内申点」を目標準拠評価(絶対評価)ではなく,相対評価による数字としている。

 全国で大阪府だけらしい。

 10年前に,相対評価から絶対評価にかわった理由をくわしくふり返ることはしないが,

 少なくとも,絶対評価を行うには,教師の側に教科の目標に対する理解が不可欠だし,それにもまして,それを実現させるための指導が必要だし,さらにいえば,それが実現できているかどうか,適切に評価する能力も必要となる。大阪市の教師だけでなく,それ以外の自治体の教師に,それらすべてがそろっているかといえば,もちろんそんなことは言えない。

 だから,相対評価の数字を入試の合否判定の材料に使うという判断は,ある意味では適切であるともいえる。
 
 しかし,相対評価であっても「5」とか「4」とか「3」の生徒の学力の質が,学校によってまちまちであることに変わりはない。気の毒なことを言うようだが,「2」とか「1」とかいう生徒の場合は,そもそも高校で学ぶための力を身につけていないのだから,中学校を卒業させること自体,教育機関としては無責任であるとも言える。

 それはさておき,相対評価の問題の1つは,教師が授業を質を向上させる必要を感じないことがあげられよう。極端な話,すべての授業が自習であっても,何%かの生徒が「5」になり,「4」になっていくのである。

 大阪の教育のレベル(なのか,子どもの学力のレベルなのかはわからないが)が全国最低の水準であることの原因のひとつが,10年たっても絶対評価を採用できなかったことにあることは間違いないだろう。

 絶対評価に切り替わったとき,「5」が1人もいない教科があるとか,「2」の方が「3」より多い,ということになれば,それだけ「信頼性」は向上すると思われるが,中学校現場の「支持率」は下がるだろう。

 批判は,子どもの学力の低さよりも,教師の指導力の低さの方に向かうからである。

 そして高校から中学校,中学校から小学校へと批判の矛先はうつっていき,挙句の果ては家庭が悪い,となるのがお決まりのコースである。

 いずれにせよ,全国学力調査の結果は,大阪府が全国最低レベルであることには間違いがない。

 「テストで測れる学力がすべてではない」という批判もごもっともだが,

 「大阪府の子どもはこっちの意味での学力が優れている」などという話を聞いたことはない。

 言い方をかえれば,「学力」という言葉を使わずに,「この程度のレベルの問題を全国で実施してみて,大阪府は最低レベルでした」という話である。
 

 さて,中1,中2で実施する統一テストの話だが,これを入試の合否の判定材料にするという考えは,ナンセンスだろう。

 もし中1のテスト結果が高校進学にかかわってくるということになると,勉強しない子どもはますます勉強しなくなる。学習への意欲を失う子どもは,今以上に増えていくだろう。

 私は大阪とは全く違ったレベルで荒れた中学校の現場を経験しているが,中1,中2のときにはどんなにすさんだ生活を送り,家で勉強など全くしなかった子どもでさえ,中3になると,受験を意識して机に向かうようになるのである。

 こういう子どもにとって,中1,中2の悪い成績が足枷になることは,決してプラスに働くことはない。

 たいてい,「借金」を返済できないまま中3の成績が出るわけだから,最後の一年間の努力が報われない,という形で結末を迎えることになる。

 観点別学習状況の評価を出すとき,学習の初期の段階で見られたレベルの低い学習状況を,まとめの段階で達成した高いレベルの学習状況と合算して,平均を評価結果とする,なんて馬鹿げたことをしている学校がある。

 評価に関する基本的な知識を欠いている人間が教師をしていること自体が問題なのだ。

 そもそも評価への信頼性以前に,教師への信頼性がないから,事務方がいろいろとヘンな案を出してくる。

 話がそれてしまった。


 入試は,どうしても客観的な数字によって合否を分けざるを得ない。

 面接が100点分で実施されて,学校が気に入らなかったら0点にして,まじめな子をみんな100点にする,というのも,方法として可能であるが,説明責任が果たせないかたちの合否判定は実施できない。

 大阪府は,まず第一に,10年の遅れをとった目標準拠評価の妥当性を向上させることに注力すべきである。

 正しい目標準拠評価のためには,評価可能な場面があるはずである。その場面を公開し(試験問題でもよい),教師が適切な評価をしていることのお墨付きをもらうという,地道な作業が必要である。

 しかし,15万人の子どもへの適切な評価というのが,そもそも可能なものなのかどうか。

 評価には,時間とコストがかかる。実は,指導以上に評価には時間がかかる。

 評価とは,一人一人に対して行う作業だからである。

 利益が第一の私立大学の入試と,それを一応,度外視できる国立大学の入試を比べてみてもその違いは明白である。

 義務教育は,国民の税金でまかなわれている。

 国立大学ですら,独立行政法人になって,市場原理がどんどん導入されている。

 唯一,「忙しい」とか「仕事がきつい」なんていう泣き言を前に打つべき手を講じていない

 公立小中学校の教育の充実には,厳しい目を投げかけられる人間を増やすべきである。

 部活が忙しい,なんていって「授業に力を入れない」教師たちには,「放課後部活動支援員」などの,公務員とは別の新しい「職場」を用意してあげるべきである。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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    「楽毅」第二巻より