ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 内田樹の『憂国論』と教育 ~その4 小学校レベルの大学~ | トップページ | 中高英語教師の海外留学必修化 »

大阪府独自統一テスト実施が投げかけている問題

 大阪府における高校入試では,合否判定材料になっている「内申点」を目標準拠評価(絶対評価)ではなく,相対評価による数字としている。

 全国で大阪府だけらしい。

 10年前に,相対評価から絶対評価にかわった理由をくわしくふり返ることはしないが,

 少なくとも,絶対評価を行うには,教師の側に教科の目標に対する理解が不可欠だし,それにもまして,それを実現させるための指導が必要だし,さらにいえば,それが実現できているかどうか,適切に評価する能力も必要となる。大阪市の教師だけでなく,それ以外の自治体の教師に,それらすべてがそろっているかといえば,もちろんそんなことは言えない。

 だから,相対評価の数字を入試の合否判定の材料に使うという判断は,ある意味では適切であるともいえる。
 
 しかし,相対評価であっても「5」とか「4」とか「3」の生徒の学力の質が,学校によってまちまちであることに変わりはない。気の毒なことを言うようだが,「2」とか「1」とかいう生徒の場合は,そもそも高校で学ぶための力を身につけていないのだから,中学校を卒業させること自体,教育機関としては無責任であるとも言える。

 それはさておき,相対評価の問題の1つは,教師が授業を質を向上させる必要を感じないことがあげられよう。極端な話,すべての授業が自習であっても,何%かの生徒が「5」になり,「4」になっていくのである。

 大阪の教育のレベル(なのか,子どもの学力のレベルなのかはわからないが)が全国最低の水準であることの原因のひとつが,10年たっても絶対評価を採用できなかったことにあることは間違いないだろう。

 絶対評価に切り替わったとき,「5」が1人もいない教科があるとか,「2」の方が「3」より多い,ということになれば,それだけ「信頼性」は向上すると思われるが,中学校現場の「支持率」は下がるだろう。

 批判は,子どもの学力の低さよりも,教師の指導力の低さの方に向かうからである。

 そして高校から中学校,中学校から小学校へと批判の矛先はうつっていき,挙句の果ては家庭が悪い,となるのがお決まりのコースである。

 いずれにせよ,全国学力調査の結果は,大阪府が全国最低レベルであることには間違いがない。

 「テストで測れる学力がすべてではない」という批判もごもっともだが,

 「大阪府の子どもはこっちの意味での学力が優れている」などという話を聞いたことはない。

 言い方をかえれば,「学力」という言葉を使わずに,「この程度のレベルの問題を全国で実施してみて,大阪府は最低レベルでした」という話である。
 

 さて,中1,中2で実施する統一テストの話だが,これを入試の合否の判定材料にするという考えは,ナンセンスだろう。

 もし中1のテスト結果が高校進学にかかわってくるということになると,勉強しない子どもはますます勉強しなくなる。学習への意欲を失う子どもは,今以上に増えていくだろう。

 私は大阪とは全く違ったレベルで荒れた中学校の現場を経験しているが,中1,中2のときにはどんなにすさんだ生活を送り,家で勉強など全くしなかった子どもでさえ,中3になると,受験を意識して机に向かうようになるのである。

 こういう子どもにとって,中1,中2の悪い成績が足枷になることは,決してプラスに働くことはない。

 たいてい,「借金」を返済できないまま中3の成績が出るわけだから,最後の一年間の努力が報われない,という形で結末を迎えることになる。

 観点別学習状況の評価を出すとき,学習の初期の段階で見られたレベルの低い学習状況を,まとめの段階で達成した高いレベルの学習状況と合算して,平均を評価結果とする,なんて馬鹿げたことをしている学校がある。

 評価に関する基本的な知識を欠いている人間が教師をしていること自体が問題なのだ。

 そもそも評価への信頼性以前に,教師への信頼性がないから,事務方がいろいろとヘンな案を出してくる。

 話がそれてしまった。


 入試は,どうしても客観的な数字によって合否を分けざるを得ない。

 面接が100点分で実施されて,学校が気に入らなかったら0点にして,まじめな子をみんな100点にする,というのも,方法として可能であるが,説明責任が果たせないかたちの合否判定は実施できない。

 大阪府は,まず第一に,10年の遅れをとった目標準拠評価の妥当性を向上させることに注力すべきである。

 正しい目標準拠評価のためには,評価可能な場面があるはずである。その場面を公開し(試験問題でもよい),教師が適切な評価をしていることのお墨付きをもらうという,地道な作業が必要である。

 しかし,15万人の子どもへの適切な評価というのが,そもそも可能なものなのかどうか。

 評価には,時間とコストがかかる。実は,指導以上に評価には時間がかかる。

 評価とは,一人一人に対して行う作業だからである。

 利益が第一の私立大学の入試と,それを一応,度外視できる国立大学の入試を比べてみてもその違いは明白である。

 義務教育は,国民の税金でまかなわれている。

 国立大学ですら,独立行政法人になって,市場原理がどんどん導入されている。

 唯一,「忙しい」とか「仕事がきつい」なんていう泣き言を前に打つべき手を講じていない

 公立小中学校の教育の充実には,厳しい目を投げかけられる人間を増やすべきである。

 部活が忙しい,なんていって「授業に力を入れない」教師たちには,「放課後部活動支援員」などの,公務員とは別の新しい「職場」を用意してあげるべきである。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

« 内田樹の『憂国論』と教育 ~その4 小学校レベルの大学~ | トップページ | 中高英語教師の海外留学必修化 »

ニュースより」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

学習指導要領」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教育」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92794/58634594

この記事へのトラックバック一覧です: 大阪府独自統一テスト実施が投げかけている問題:

« 内田樹の『憂国論』と教育 ~その4 小学校レベルの大学~ | トップページ | 中高英語教師の海外留学必修化 »

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より