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「見て見ぬふり」教師が量産された背景は何か?

 地方の教育委員会にいくと,もと教員(校長)が教育長になっていたりする。例の自治体もそうでした。

 教員あがりが教育長になるのは,何となく教育の世界の「理想」のように見えるかもしれませんが,教育委員会という行政機関の存在意義を考えると,そうとも言えない。

 特に,教員で培われたマイナスの「資質・能力」がそのまま行政に持ち込まれたら,・・・という危惧がストレートに現実のものになってしまった事件が相次ぎました。

 匿名の方からいただいた,以下のコメントについて,検討してみたいと思います。

********************

 時代背景から考えて見ると、今までの体育会系の教師のありかたは、高度経済成長に必要だった「言われたとおりにする」そういう人材の育成方法ではなかったでしょうか
 要するに、言われたとおりにする、何も考えなくて良い。
 それだけが求められ、スポーツ根性アニメなどの登場で、ますますこの要求に応える、教育の究極は黄色い物を見せても、この色は赤だと教える、答えは赤だ、それに従う事が教育だと、、、、、
 さて時代はバブルがはじけ、考えないで言われたとおりにする人材の供給源は途上国へ推移した。そうすると国内でのその手の労働者は急に必要がなくなり、企業は大量にリストラを始める、丁度少子化と重なり、しかもゆとり教育で教育が破壊され、再起しようとしても、教育者の人材はすでに境界性や演技性の人格障害者などが集まる、なぜなら景気の良かった時代に安月給の代名詞、教員、でもしか先生が中高年の教師に多く分布し、まともな教育を行えるような体制にない。

 今必要な人材は、自立して考え、行動し、決断し、実行でき、自己分析が出来る人材が必要なのです。境界性や演技性の人たちに出来るはずはなく、いじめなどにより自殺者が出ても見て見ぬ振りをする教育現場。求められることと、育てる側の人材の能力に著しい乖離が生じていると思います。

********************

 私が教員になったころはすでに平成の世になっていましたが,「体育会系」の上下関係は,確かに学校に残っていました。

 しかし,東京都の場合,本来の「長」になるべき位置に,組合関係者ではなく,「校長」が立ち始めた時期でもありました。だから,体罰は理由が何であれ,体罰であれば処分の対象になりました。

 そういう「隠蔽体質」というか,子どもよりも教員を守る,といった悪質な大人社会は急速に失われつつあった時代だったのです。

 その変化が東京だけのものだったのか,どうかはわかりませんが,いわゆるコネ採用が当たり前のように最近でも行われていた地方と比べれば,まともな環境で教員を続けられたことは幸せでした。

 また,大量採用時代の教員の中にも,当たり前ですが優秀な人はたくさんいます。

 そういう「選び抜かれた先生」のなかで仕事ができたのも幸せでした。

 地方の現状は,ニュースで知る,本当に信じられないようなものからしかわからないわけですが,全国大会などで知り合える教員の話を聞く限りは,やはり子どもがだらしない,手の付けられない,学力が低い「悪役」で,教師はそんななかで頑張っている「アンシング・ヒーロー」としてとらえるのが一般的なような気がします。

 だから,多少の「いきすぎ」は大目に見られる。ダークな面も,併せ持つのが現実的な正義だ,なんていう風潮を感じる。

 決してそんなものではなく,教師は正真正銘の「悪」と化してしまっているところはないか,というのが私の危惧です。

 今,文科省が教育現場で「こういう人間に育てよう」とイメージしている姿は,

 実は最も強く教師自身に求められている姿であるということは,否定する人はいないでしょう。

 育てる側の資質・能力の向上には,まずその能力がどの程度のものなのか,

 外部から全くふれられないですむ,という時代でなくなることが,教育改革の第一歩なのかもしれません。

 そういう意味では,教師や元教師が記しているこのブログの記事,その内容の水準が,ある程度,参考になるかもしれないのです。


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コメント

見てみぬふり。
分析は必要だが、制度や時代のせいにしちゃだめだよ。
年端の行かないものたちに、ものを教えるだけで給料をもらおうなんて、そんな人たちの作っている組織ですからね。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より