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2013年11月

「テストのための教育」と「テストで学力の確実な定着が証明できる教育」の違い

 教育は,テストでいい点をとるため「だけ」に行っているわけではありません。

 しかし,テストでいい点がとれるようにするための教育(学習指導)は行っています。

 その学習指導の「能力」「態度」が,最も疑われているのが公教育です。

 なぜなら,「テストでいい点がとれたからって,何だっていうの?」とホンネをぶちまける教師がいるのが公教育の現場だからです。

 「頑張って教えてテストでいい点がとれるようにしたからって,給料が上がるわけではない」なんていうホンネを言う教師がいるのが,公務員がつとめる学校という教育現場だからです。

 そして,実際に「この程度では中学校(高校)で困る」子どもを上級学校に送り出しているのが,義務教育の現場だからです。 

 「私の学校の子どもは,本当に勉強に対するやる気がわかなくて,授業もろくに聞かない,そんなことで学力は向上しない」という声をきいたことがありますが,
 
 「あなたは何の仕事をしている人ですか」

 とはなかなか聞けない。

 職業に対する使命感に乏しい人がどうしても目立ってしまうのが,公教育の現場です。

 こういうことを言うと,

 「ただでさえ忙しいのに,もっと仕事を増やさせるつもりか?」

 と反論する人が必ずいますが,もう一度,確認したいのが,

 「あなたは何の仕事をしている人ですか」

 ということ。時間を長くすれば,結果が出るわけではないことは,だれが考えてもわかります。

 授業の質を向上させないから,A問題の出来はいいのにB問題の出来が悪い,という結果で証明されてしまうのです。

 そんな現場をさらに甘やかすのが,「新聞」の言葉です。
 
 学校別の成績を公表したら,

 ~テストのための学校になってしまう~

 ・・・・?

 こういう発想があるから,塾産業が大繁盛するわけでしょうが・・・。

 塾のように,学習指導を懇切丁寧に学校が行うことが,まるで

 「悪い」ことのように扱われるわけですね。

 「テストでいい点をとれるからって,いい人間になるとは限らない」

 ・・・・それはその通りですが,

 「だから,テストでいい点をとれる必要はない」と言い切るのですか?

 全国学力調査問題の内容を知らない人が多いので,説明に時間を要することになるのですが,

 今の全国学力調査の問題は,それ自体に学力向上のヒントがたくさん隠されているのです。

 「こういう問題を解けるようになることが大切なのだな」という意識を児童生徒がもてるようになるだけでも,大いなるプラスになります。

 露骨な質問を児童生徒に出さないのは,一応,文部科学省の良心なのでしょう。
 
 「普段の授業と,このような問題を解く授業と,あなたはどちらの方がためになると思いますか?」

 だれも,「テストのためだけの教育」を学校には求めません。

 しかし,「テストで学力の確実な定着が証明できる教育」を求めることは当然でしょう。

 それを求める根拠になり得るのが,学力調査の得点公表です。

 あらかじめ,起こり得る「教師による悪あがき」を防止するため,

 「教師べからず集」を用意しておいてみたらどうでしょう。

 またいつか話題になったときに,「教師べからず集」を公開したいと思います。


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超優良人気校が「ブラック学校」に変化するとき

 創業から5年が経過して,存続している会社は15%なんだそうです。

 それだけ,起業も会社経営も苦しく難しい面があるというのは,

 公務員が勤めている学校の教師には全く理解できない世界の話でしょう。

 しかし,私が読んだ記事の中のエピソードは,

 地域から信頼される「良い学校」でも起こり得ることと思えたので,書き残しておくことにしました。

 ベンチャー企業のなかには,起業からわずかな期間で大成功を収めることができるところがあります。
 
 「毎日が文化祭」のようなノリで,1日20時間はたらくことなど,何の苦もない。

 決められたことを8時間やらされるのと,

 自由に何でも16時間やっていい,というのと,人によってどっちが「ラク」「キツイ」のかはわかりません。

 ただ,創業メンバーに加え,新しい中途採用の社員を雇うようになると,
 
 仕事観をめぐるお互いのあいだのギャップが際立つようになってくる。

 公立の学校という場でもそういう側面はあって,

 たいへん荒れた状態のときを必死に食いしばり,状況がよくなってさらに良い学校を目指そう,

 というときは,働くことにみんなが充実感をおぼえ,燃えているので,一日12時間働くのは当たり前,

 さすがに家に帰るので20時間というわけにはいきませんが,16時間(つまり夜の10時くらいまで)は学校で仕事をしていることがよくあります。

 それが当たり前のようになっている環境に,

 「定時で帰る」ことを目標にしている人が異動してくると,たいへん。

 「この学校はブラック企業か!」

 ということになります。

 異動がある公立学校には,どうしても

 「波」が生まれてしまいます。

 それでも,長年にわたって様々な活動の成果を残し続けている学校があることも知っています。

 これは奇跡に近い。

 あらゆる教師のモチベーションを向上させる「仕組み」の話はここではやめておきます。

 「それがブラック企業化を招くのだ!」という批判もあるでしょう。

 しかし,救命救急の医師にしろ,

 消防士にしろ,

 勤務時間が終わったからといって,

 目の前に助けを求めている人間がいて,黙って見過ごせるわけがありません。

 学校もそういうところです。

 「たいへんな学校に異動してしまった」

 なんて声はしょっちゅう耳にしていました。

 逆に,「この学校で少しラクをさせてもらおう」という声も耳にしたことがあります。

 「ブラック企業」と,「働き甲斐のある企業」の違いを考えるためのエピソードを一つ紹介します。

 ある職人さんの話。

 仕事(勤務時間)が終わっても,黙々と自分の技術を磨くための努力を作業場で続けている若い子がいる。

 学校に,そういう「若い子」はいますか?


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得点が伸びている生徒の「テストの問題用紙」を見るとわかること

 このような話は,塾などの方にとっては当たり前のことかもしれませんが,

 学校の先生から聞いた記憶がないので,一応,教師の立場で気づいたこととして書いておきます。

 テストの監督中,私は解答用紙だけではなく,問題用紙をどう使っているかを見てまわっています。

 そして,得点がしっかり伸びている子どもの多くがしていることに気づきました。

 特に,「問われていること」が複数の内容であったり,やや複雑な表現だったり,「正しいものを選ぶ」のではなく,「誤ったものを選ぶ」ような場合,線を引いたり枠で囲んだりしているのです。

 それだけでなく,たとえば理科のテストであれば,計算を問題の近くにしてあったり,

 問題中には記入されていない元素記号や化学式を記入したりと,

 その生徒がどのような内容をどの程度,理解しているかが,問題用紙を見ればわかるほどの状態になっているということです。

 また,時間がかかりそうな問題は飛ばして,あとで必ず戻ってこられるように,問題番号に目立つ印がついていたり,解答に自信がないために,時間が余った場合に見直し(再考)ができるような印をつけていたりと,これも理解度なりを測定する材料になっています。

 このようにしろ,と指導したとしても,全員が同じようなことを問題用紙に書き込めるとは限りません。

 テストというと,解答用紙に答えを書き込む時間だ,というのが一般的な常識でしょう。

 そうではなく,問題用紙にたくさん書きこめていること自体が余裕の表れだし,これこそが「ゆとり」の正しいイメージだ,という気もします。

 国語で出題されている長文の文章にさえ,線を引いたり印をつけたりできない生徒は,やはりしっかり得点できていません。

 一度,「得点が伸びている生徒の問題用紙」の例をプリントにして配りたいくらいです・・・・と思い返せば,十年以上前にそれをしたことがありました。

 学習内容は理解できているのに,「答え方」を誤ってしまい,あるいは,「答えないといけないこと」を読み切れなかったりしたために,得点ができない=理解していないと思われてしまう,そんな生徒がいなくなることを望みます。

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「原点」とは,「今よりは下」だったから,「原点」になったのだが・・・

 東京オリンピックが開催された1964年の新製品。

 重さ25kg,価格は53万5000円。

 当時の乗用車の価格くらいの電気製品。

 これは何でしょう?

 何と,一桁ごとに10個の入力キーがある,

 「電卓」でした。

 「電卓元年」とも呼ばれた1964年は,まだそんな時代でした。

 両親が結婚したこの頃は,希望で彩られた時代だったのでしょう。

 その時点から…電卓だけで…考えてみても,

 その後は急速な「発展」「技術革新」の時代でした。

 その時代の空気を全身にまとった,「電子・電気オタク」が存在するのも決して悪いことではありませんが,「平成生まれ」が学校現場の教師になろうとしている現代は,

 決して「希望」に満ちた時代ではありません。

 「力不足」でも,「次」や「未来」があった,過去の人々。

 しかし,今は「力不足」が命取りになってしまう時代です。

 すでに現場から退いた人間,間もなく退こうとしている人間にとっての,

 「未来」とは何でしょう。

 だれに「期待」するだれのための「未来」なのでしょうか。

 以前にも触れた通り,これからの選挙は,

 投票する大多数が「リタイアした人」になっていきます。

 彼らの描く「未来像」が,日本の将来を決めてしまう危険性がある。

 若い世代は,それをただ指をくわえて見ているしかないのか。

 「リタイアした人」には,時代的に見ても

 帰る「原点」がある。少なくとも絶頂期よりは恵まれない,「原点」が。

 これからは,「原点」が「最高点」かもしれない時代が続く。

 そんな今,この瞬間に,そこで,その程度の教育をしていて,よいのか?

 未来をいい方向に変えるポイントがどこにあるのか。

 それは子どもを「見捨てさせないこと」にある,というのが私の最大の関心事です。


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ネット上のブログは読み放題ですが,本の立ち読みはやめましょう!

 大型書店の中には,各階のスペースに「立ち読み」ならぬ「座ってゆっくりお読み下さい」なんてコーナーを設けているところがある。

 しかし,図書館でもないのに,買わないかもしれない本を,しかも一番大切なところを読む気にはなれない。

 「立ち読みはいけない」というモラルを大人は子どもに教えなければならない。

 いずれ,タッチパネルの端末で,本の目次や内容の一部が読めるようなサービスが書店で広がるだろう。

 音声認識を使って,関連のある本やその内容も調べることができるようになる。

 電子書籍も広がっているようだが,紙の本の需要は決してなくなることはないだろう。

 必要のないページをめくっている間に,「無意識のひっかかり」を脳は覚えておいてくれる。

 これが次の「読書意欲」「知識・情報の獲得欲求」のもとになっていくのである。

 こういうことを,タダでやってはいけない。

 万引きはもちろん犯罪だけど,大事な内容まで読んでしまうような「立ち読み」も犯罪扱いしてかまわないと思う。

 立派な「盗み」である。

 子どもに何の言い訳もできまい。


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強力な「いじめ対策」で完成する「身勝手人間」の天下

 この記事で言いたいことは,「いじめられるのは身勝手な人間だからだ」ということではないことを最初に確認しておきます。

 「いじめ対策」を徹底させて,その直接的な成果・・・いじめが減る,なくなる,

 ということが現れるとき,同時に問題になってくるかもしれないのが,

 「従来はいじめられていた人がいじめられなくなり,それをいいことに,さらに身勝手な行動が増えてくる」

 というものです。

 私自身の体験からすると,

 まさに「身勝手の塊」のような人間を遊び仲間に入れなかった(正確にいうと,一つのゲームが終わるまで待っていてもらおうとした)ところ,

 「いじめだ!」と騒ぎだし,担任の教師に訴えて,私が「いじめっ子」扱いをされ,大変なことになりました。

 その後の「身勝手人間」はやりたい放題で,担任教師まで手を焼く始末。

 本当にやっかいなのは,何か不満があると父親に訴え,父親がすぐに学校に怒鳴り込んでくる,という家庭で,

 本人に落ち度があっても,すぐに逆ギレして話を別の方向にすり替えていく。

 「いじめはいけない」わけですが,こういう人間に「ものをわからせる」ためにできることが,

 小学生や中学生の段階ではわからないわけですね。

 「正義」を実行しようとすると,「いじめ」の加害者=悪人になってしまう。

 いまや,こういう「身勝手人間」の天下になってしまっている学校や学級はないでしょうか。

 もちろん,この「身勝手人間」があの症候群であった場合は,

 排除するより良さを認めていい気にさせておいた方が,問題は減る傾向にあることを教師は知っています。

 しかし,小学生や中学生の「がまんの限界」水準は決して高くない。

 「いじめ」はないが,本当にぎくしゃくした,というか,

 まわりに無関心,無反応の子どもは増えてしまっていないか,というのが私の危惧です。

 まだ,「いじめよう」と思う気がある方が,子どもとしては「正常」ではないか・・・・なんて言ったら,怒られますかね・・・。

 「いじめよう」と思うことまで「禁止」することはできません。

 もちろん,「いじめる」のは「禁止」です。

 昔から,無反応傾向の子どもを「いじめる」というケースがありました。

 こういうのはもちろん「思うこと」すらいけない「いじめ」です。

 最近は,アメリカのプロスポーツの世界の「いじめ」までが話題に上がるようになりました。

 日本だけが特殊なのではありません。

 ネットいじめが深刻化する国は増えていくでしょう。

 ネットの世界は,「身勝手人間」の巣窟になってしまうのでしょうか。

 いや,リアルの世界でも,「身勝手人間」こそが人生の成功を収めることができる,なんて時代にこれからはなっていってしまうのでしょうか?


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会社を辞めてすぐに教員になるより,子育てを終えてから教員になった方がいい?

 教育現場にいると,残念ですがあなた,教員には向いていませんね・・・という人がいる。

 教師から見て,「教員に向いていない」と思われてしまう人の特徴とは何か?

 それは,人と協力して仕事ができないタイプ。

 若い教師は,今,みんなコンピュータを活用できますよね。

 学校でもそれなりのことを習っているから。

 レポートは手書きだけ,という大学時代を過ごした人は少数派でしょう。

 「コンピュータが得意なんだ,じゃあ,成績処理お願いね」

 なんて事務作業要員にまわされた人,まずは,
 
 「教員に向いてない人」に見られてしまったことを疑ってかかりましょう。

 「教員らしい人」に見られると,すぐに生徒を動かす仕事を任されるようになります。

 人と協力して仕事ができる人は,子どもにも人と協力して仕事を進めることを教えることができる。

 私がちょっと心配しているのは,IT企業を辞めて小学校の教員になることが決まったという人です。

 今までに,同じようなタイプで,即刻「ダメ教員」判定が下された人を見たことがあります。

 取り越し苦労であってほしいものです。

 電子黒板などを使って授業をすると,

 「今の時代の教育は,こうなんだ!」などと

 ど素人の親をだますことはできる。

 けれど,子どもは正直者。

 「成果がでない」という「成果?」をおかえししてくれます。

 「教員に向いてない人」に見られる多くのケースは,

 自分の力不足を異常に悔いる人,

 自分の力不足を子どものせいにする人,

 自分の力不足に全く気づけない人,気づこうとしない人・・・などいろいろ存在しますが,

 概して,真面目なのはわかるのですが,

 ろくでもない知識をすぐに教育現場で試そうとする人に多い印象があります。

 やる気はあるのはわかりますが,「教員」という自意識が過剰で,子どもの微妙な「表情」が読めない,心の「訴え」が聞こえてこない,その繰り返しで,やがて「崩壊」を迎える。

 「崩壊」理由に心当たりがない,ということほど,ダメージが大きいものはない。

 こういう場合,早く結婚して,子育てをして,それから教師になった方がよいのではないか?

 ・・・・なんでこんなことを書くかというと,学級がコントロールできなくなる教師の共通項が・・・・

 もう,よしましょう。

 後ろ向きのことばかり考えても仕方がない。

 でも,ある先生が保護者に罵倒されていた,その言葉が耳から離れない。

 「子どもを産んだこともなくて,偉そうなこと言うんじゃないよ!」

 ・・・その先生は女性でしたけど,そもそも男にはできないことだし・・・。


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中学生にも笑われる文部科学省の貧困な発想

 何年か前に,国土交通省などの取材に中学生と訪れたときの印象ですが,

 国の官庁というのは,動かすお金の規模で,その「上下関係」がはっきりしているようです。

 その元締めである財務省がトップにいることは当然のこと。

 文部科学省に入って,真面目に事務をやって,やりがいを失って辞めた人の話を聞いたことがありますが,

 やはり一番印象的だったのは,

 「こんな事務なら,だれにでもできる」「教育にかかわっている実感が全くない」

 という言葉でしょうかね。

 昔,「教育現場」を体験した文部科学省の事務の人がいましたが,今,何をやっているのでしょう?

 文部科学省という役所では,教育行政(これのどこが問題かはもうニュースをいちいち紹介するまでもないのですが)のプロ,教育の素人たちがうごめいていることは,大臣が一番よくご存じのことでしょう。

 「生きる力」なんてフレーズをはやらせた,とかでうかれている人を間近で見たことがありますが,

 「ここはお笑い芸人たちのブラックユーモア劇場か?」というのが第一印象でした。

 文科省の人たちを気の毒に思う気持ちもあります。

 予算を獲得するための「アイデア」がない。「人材」がいない。

 提案の「必要性」が認知されない。

 「教員定数の増加」などはその最たるものです。

 内田樹風に,どんなに質の低い大学でも,「長い期間,学力的に課題がある人でも,その場で囲って生活させておくことで,それ以上,学力が低下することはないので意味がある」として認めているようなところが,

 独立行政法人になった「国立大学」を改革させようとしている。

 教員の評価を徹底的にやりたい。

 でも,それ,だれがどのように評価するの?

 という問いにまともに答えられる人がどこにいる?

 「高い評価を得るための書類の書き方」に長けている人が高い評価を受ける世界に

 教育という最も短期的な成果が出しにくいはずの人たちを落とし込んで,何の得があるのか???

 日本の大学の世界ランキングを向上させる・・・・・とか,留学生を増やすとか???

 これ,中学生が最も「笑う」目標ですね・・・。

 そんなことを実現させたいなら,国立大学の数を10分の1に減らして,

 優秀な教師だけ集中させて,優秀な学生だけ集めて,予算を集中的に投下すればいいんでしょ・・・。

 一番いいのが,

 文部科学省の管轄外の大学を増やす。

 財務省附属の大学。

 外務省附属の大学。

 経済産業省附属の大学。

 国土交通省附属の大学。

 厚生労働省附属の大学。

 キャリアや教員は,そこの卒業生から選んでみたら?

 大学が,今よりはるかに個性的になって,「国際化」もすぐに実現するでしょう。

 「国際化」からはるかに遠いところにいる省庁が,

 外国のモノマネしか頭になくて,どんな大学像を構想できるの?っていう話。

 そもそも,外国語に訳しようがない「文部科学省」なんて省庁はなくすべき。

 早く「教育省」を設置して,本気で国の未来を考えないと・・・・。

 

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おとぼけぶりが半端ない・・・結局は「無視」できなかった理由とは?

 教師のなかには,ユーモアのセンスがゼロではないかと思える人がいる。

 子どものころは,たいそういじめられてきたのではないかと気の毒になるのですが,

 当然,教師になっても「いじめ」の標的になってしまう。

 もちろん,子どもからの。

 教師も一応社会人だから,もう「気の毒」ではなくて,「自分で何とかしろ」と言いたい。

 ・・・・でも,今はそういうことも言えないご時世になってしまったようです。

 「不登校」になってしまった教師を,その学校の教頭先生と実のお母さんとで何とかなだめ,学校に来させる。

 授業はできないが,とりあえず「出勤」させる。

 教師まで「教育」の対象になってしまっている学校があるのには驚きました。

 ユーモアがどうとか書きながら,全くユーモア感覚のない記事ばかり書いている人が,

 ようやくツボを刺激してくれるような「ボケ」ぶりをかましてくれたのが,今日の注目記事でした。

 ユーモア感覚はゼロでも,

 究極の「ボケ」には笑えるんです。

 子どもは,笑われていることに気づけない教師には大喜びでついていく。

 「いじめ」には多少の「罪悪感」がつきものですが,その箍を外してくれるほどの「ボケ」ぶりに出会うと,本当の「遊び」に発展していく。

 これをお読みの先生方にも,保護者の方にも,そういう先生に出会った経験があるでしょう。

 子どもにとっては,とても有用な精神安定剤になる。

 ただそれは,非常に貧困なる精神をお持ちの子どもだけに限ります。

 本人がいじめられていることに気づかないのをいいことに,

 やりたい放題の人間たちへの嫌悪感を抱く子どももいる。

 このブログの世界では,そんな人は読者にいないと信じて,

 これからも活躍を願うという人もいるでしょう。

 しかし,私としては,やっぱり許せない。

 周期的に登場する「裁判ネタ」は,本当に行き詰まった時のサイン。

 それがいつの間にかケロッとして,また次の「周期」に入っていくことの繰り返し。

 ただ今回は,せっかくの「無視」テーマの記事に,

 自ら「わざととぼける」という「決定的な証拠」を残してしまった。

 それは結局,「無視」できない理由があるからですね。

 なんだか今の教育問題の闇が一人に凝縮されているような印象さえある。

 追究せざるを得ない「テーマ」です。

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中高英語教師の海外留学必修化

 中高の英語の先生の「英語によるコミュニケーション力」がどの程度のものなのか,私にはよくわからない。

 ALTによる英語の授業が,どの程度の効果があるかも,私にはよくわからない。

 私に言えるのは,せっかく英語の先生が「英会話」を得意?にすることができるようになっても,

 今の中高のような授業のスタイルが変わらない限り,留学の成果が子どもに還元されることは決して多くはないだろう,という「予想」である。

 留学中の様々なエピソードを目を輝かせて聞いてくれる生徒のようすが想像できるが,もちろんそれは日本語で話して通じるような内容だろう。

 「留学のカリキュラム」などを見ていないので何とも言えないが,

 英語以前の日本語によるコミュニケーション能力が身についている人を優先すべきだろうとも思われる。

 留学先から帰ってきて,アメリカなりヨーロッパの文化をそのまま持ち込まれる弊害も出てくるだろう。

 「グローバル社会」に日本が完全に移行した,ということなら,

 日本の今までの慣習も軽視してかまわないのかもしれないが,

 労働時間がヨーロッパ並みに短くなったら,学校の仕事などほとんど何もできなくなってしまう。

 どんな力をどの程度つけるために留学するのか,そこを明確に説明できる人に,今度,直接聞いてみることにしたい。

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大阪府独自統一テスト実施が投げかけている問題

 大阪府における高校入試では,合否判定材料になっている「内申点」を目標準拠評価(絶対評価)ではなく,相対評価による数字としている。

 全国で大阪府だけらしい。

 10年前に,相対評価から絶対評価にかわった理由をくわしくふり返ることはしないが,

 少なくとも,絶対評価を行うには,教師の側に教科の目標に対する理解が不可欠だし,それにもまして,それを実現させるための指導が必要だし,さらにいえば,それが実現できているかどうか,適切に評価する能力も必要となる。大阪市の教師だけでなく,それ以外の自治体の教師に,それらすべてがそろっているかといえば,もちろんそんなことは言えない。

 だから,相対評価の数字を入試の合否判定の材料に使うという判断は,ある意味では適切であるともいえる。
 
 しかし,相対評価であっても「5」とか「4」とか「3」の生徒の学力の質が,学校によってまちまちであることに変わりはない。気の毒なことを言うようだが,「2」とか「1」とかいう生徒の場合は,そもそも高校で学ぶための力を身につけていないのだから,中学校を卒業させること自体,教育機関としては無責任であるとも言える。

 それはさておき,相対評価の問題の1つは,教師が授業を質を向上させる必要を感じないことがあげられよう。極端な話,すべての授業が自習であっても,何%かの生徒が「5」になり,「4」になっていくのである。

 大阪の教育のレベル(なのか,子どもの学力のレベルなのかはわからないが)が全国最低の水準であることの原因のひとつが,10年たっても絶対評価を採用できなかったことにあることは間違いないだろう。

 絶対評価に切り替わったとき,「5」が1人もいない教科があるとか,「2」の方が「3」より多い,ということになれば,それだけ「信頼性」は向上すると思われるが,中学校現場の「支持率」は下がるだろう。

 批判は,子どもの学力の低さよりも,教師の指導力の低さの方に向かうからである。

 そして高校から中学校,中学校から小学校へと批判の矛先はうつっていき,挙句の果ては家庭が悪い,となるのがお決まりのコースである。

 いずれにせよ,全国学力調査の結果は,大阪府が全国最低レベルであることには間違いがない。

 「テストで測れる学力がすべてではない」という批判もごもっともだが,

 「大阪府の子どもはこっちの意味での学力が優れている」などという話を聞いたことはない。

 言い方をかえれば,「学力」という言葉を使わずに,「この程度のレベルの問題を全国で実施してみて,大阪府は最低レベルでした」という話である。
 

 さて,中1,中2で実施する統一テストの話だが,これを入試の合否の判定材料にするという考えは,ナンセンスだろう。

 もし中1のテスト結果が高校進学にかかわってくるということになると,勉強しない子どもはますます勉強しなくなる。学習への意欲を失う子どもは,今以上に増えていくだろう。

 私は大阪とは全く違ったレベルで荒れた中学校の現場を経験しているが,中1,中2のときにはどんなにすさんだ生活を送り,家で勉強など全くしなかった子どもでさえ,中3になると,受験を意識して机に向かうようになるのである。

 こういう子どもにとって,中1,中2の悪い成績が足枷になることは,決してプラスに働くことはない。

 たいてい,「借金」を返済できないまま中3の成績が出るわけだから,最後の一年間の努力が報われない,という形で結末を迎えることになる。

 観点別学習状況の評価を出すとき,学習の初期の段階で見られたレベルの低い学習状況を,まとめの段階で達成した高いレベルの学習状況と合算して,平均を評価結果とする,なんて馬鹿げたことをしている学校がある。

 評価に関する基本的な知識を欠いている人間が教師をしていること自体が問題なのだ。

 そもそも評価への信頼性以前に,教師への信頼性がないから,事務方がいろいろとヘンな案を出してくる。

 話がそれてしまった。


 入試は,どうしても客観的な数字によって合否を分けざるを得ない。

 面接が100点分で実施されて,学校が気に入らなかったら0点にして,まじめな子をみんな100点にする,というのも,方法として可能であるが,説明責任が果たせないかたちの合否判定は実施できない。

 大阪府は,まず第一に,10年の遅れをとった目標準拠評価の妥当性を向上させることに注力すべきである。

 正しい目標準拠評価のためには,評価可能な場面があるはずである。その場面を公開し(試験問題でもよい),教師が適切な評価をしていることのお墨付きをもらうという,地道な作業が必要である。

 しかし,15万人の子どもへの適切な評価というのが,そもそも可能なものなのかどうか。

 評価には,時間とコストがかかる。実は,指導以上に評価には時間がかかる。

 評価とは,一人一人に対して行う作業だからである。

 利益が第一の私立大学の入試と,それを一応,度外視できる国立大学の入試を比べてみてもその違いは明白である。

 義務教育は,国民の税金でまかなわれている。

 国立大学ですら,独立行政法人になって,市場原理がどんどん導入されている。

 唯一,「忙しい」とか「仕事がきつい」なんていう泣き言を前に打つべき手を講じていない

 公立小中学校の教育の充実には,厳しい目を投げかけられる人間を増やすべきである。

 部活が忙しい,なんていって「授業に力を入れない」教師たちには,「放課後部活動支援員」などの,公務員とは別の新しい「職場」を用意してあげるべきである。

 
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内田樹の『憂国論』と教育 ~その4 小学校レベルの大学~

 内田樹が憂えている学力低下への道筋は,こうである。

 学生は,他の学生がバカになればなるほど,少ない努力で単位がもらえて,卒業できるようになる。

 みんなそう思っているから,テスト問題はどんどんやさしくなり,だれでも大学を卒業できるようになる。

 対策はそう難しいものではない。

 大学は,シラバスを公開しているが,試験内容も公開すればよい。

 そして,合格ラインも公開すればよい。

 これで,予備校が出している「入口」の偏差値ではなく,

 大学教育とその結果の本当の質が明白になる。
  
 全国学力調査結果の公開の次は,

 大学生学力調査結果の公開である。

 教育の質の向上が最も求められている場所はどこか。

 一番お金が下りている場所はどこか。

 そういうところから文科省は手をつけるべきであろう。
 

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リーダーは学級委員だけではない

 学級委員というものをおかない小学校は論外として,

 逆に,学級委員にすべての責任をおしつけるような教師がいるのは子どもにとって気の毒なことです。

 学校は,リーダーシップを育てる機能ももっていますが,

 それは40人中1人とか2人でいいというわけではありません。

 学校には,教科の学習,日々の生活,運動会や学芸会,宿泊を伴う移動教室のような行事など,様々な活動場面があります。

 教師は,それぞれの活動場面で活躍できる子どもにリーダーシップの意味や意義を考えさせる機会を与えなければなりません。

 クラスとしてのまとまり感が最も出しやすいのが学校行事です。

 ここでは,学級委員のように年度当初に選出された子どもではなく,

 毎日の生活の中で,その長所が発揮されてきて,周囲も認めるようになった子どもにリーダーをさせてあげることも必要になるでしょう。

 運動会の~については~さんがリーダー,~の競技は~さん,ダンスは~さん・・・

 学芸会の歌については~さん,劇については~さん・・・・

 こういう子どもたちが教師のためではなく,自分たちのために自分たちががんばるという自立の精神を養っていくのが,教育のたいせつなはたらきです。

 一番やさしい「指導」というのは,教師がリーダーシップをとって,自分でやってしまうこと。

 こういう教師を「指導力のある教師」と呼んでうかれている小学校からきた生徒たちは,
 
 中学校でみじめな思いをします。

 「子どもにリーダー性のあるのがいない」教師は,リーダーシップを育てる指導力がないか,

 自分もリーダーシップを発揮できないかのどちらかでしょう。

 子どもは教師のためにがんばるのではありません。

 そこを勘違いしている教師たちが,半世紀以上たっても消えないのが,歯がゆくてなりません。

 教育勅語でいう「朕」が自分だと勘違いしている人の教育論は,読んでいても腹が立つばかりです。


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最低な内容でも「視聴率100%」が保障されている教員

 「最低視聴率」の「戦犯」のように扱われている主演女優が気の毒である。

 「最低視聴率」という「話題」をふりまいても,見られる気配のない番組というのも相当なものかもしれない(見ていないので何とも言えない)が,

 社会では,このような「数字」(=結果)がすべてである。

 グローバル社会では,「私はよくがんばりました」などという話は何の役にも立たない。

 「グローバル人材」の育成をめざそうとする動きが本格化すれば,

 教育現場でも「数値目標」や「厳密なる評価」が当たり前のことになるだろう。

 ただ今回の話題は,そういう高いレベルのものではない。

 教師の授業の話である。

 「支持率0%」でも「視聴率100%」がとれる仕事をしていると,

 自分の授業のレベルに対する感覚がマヒしてしまう。

 

 次のように残酷な実験をしてくれる大学はどこかにないだろうか。

 同じ程度の能力のあるクラスを2つ用意してもらう。

 片方には,指導力不足で問題になっている教師のリアルの授業をしてもらう。

 もう一方には,指導力のある教師の授業をビデオで撮ったものを,ただ流して生徒に見てもらう。

 もちろんビデオには,実際の生徒たちとのやりとりも記録されている。視聴している生徒は,

 発言等に参加できない立場にいると考えればよい。

 どちらの方が,どれだけ学習内容を理解し,定着させることが可能だろうか。

 実験結果によっては,もう学習指導については教師は必要なくなってしまうかもしれない。

 生徒が「好きなタイプの教師」を選んで,タブレットを見ながら授業を成立させることもできてしまうかもしれない。

 指導者の教師を選択できるシステムにすると,「視聴率0%」の教師が生まれてしまうかもしれない。

 教師は,10年かけてやって授業ができるようになる,そんな存在では許されない。

 とても厳しい職業である。・・・・はずである。

 「視聴率100%」には慣れない方がよい。

 できたら,若い人は2校目で,全員,「荒れた学校」を経験すべきだと思う。

 そこで真価が問われる。


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ブログ閉鎖の危機?

 良心の呵責というのがあるのだろうか。

 行き詰まるといつも登場するのがオーディオとかコンピュータ本体の話である。

 教師に役立つ実践的な指導の話とはほとんど無縁の話が続く。

 こういう子どもを学校現場では今までに何人も見たことがある。
 
 教師という立場で考えると,子どもの人格に大きなキズが残るような強い指導は避けるべきであるから,

 子どもが自らそういう「穴蔵」に入り込んで,精神の安定を図ることを邪魔するようなことはしない。

 しかし,大人となると,ちょっと事情が異なる。

 責任をとれる立場だからだ。

 自分で公開している演奏の映像からすると,相当,年もとっている。

 私のブログへも「気持ち悪い」コメントが相次いだため,コメントは拒否する設定にしている。

 教師や元教師,教育関係者のブログの中には,

 責任を他に転嫁するような論調なものばかりで辟易とさせられるが,

 「あと一歩」しっかりと踏み出すだけで,少しはまともなことになりそうなものもある。

 自分の状態が全く把握できず,ほとんど自分と同じ状態である「他のだれか」のことを徹底して批判するような状況に陥ってしまっている人は,残念ではあるがその道の専門家でないと扱えないものなのかもしれない。

 今までさんざん,「謙虚な態度が必要だ」などという記事を繰り返し書いてきた。

 自分がなすべきことを他人に要求するだけで自分はしない・・・

 こういう教師をこの世から根絶するための,何かの役に立ってほしい。

 ブログが閉鎖されてしまってからでは,遅い。


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具体的なアドバイスが何もできない教師など・・・

 必要ない,と切り捨てたがっている人も少なくないでしょうが・・・。

 本当に必要な場面でそれができないと,確かにいても意味はないでしょう。

 でも,具体的なアドバイスって,どういう場合に,どの程度,必要なのでしょうか。

 子どもが教師による具体的なアドバイスによって簡単にできるようになってしまうことで,

 とても大切なものが失われることが残念でならない,という人が,今,少なくなっているかもしれません。

 「主体的な学びが失われている」

 と表現すれば,「それはまずい!」と気づく人もいるでしょうが,

 今は「すぐやる」「すぐできる」「簡単にできる」ことの価値が最大限に尊重されている時代のようで,

 試行錯誤とか,発見の喜びとか,そういうものが軽視されている。

 教師が教えてくれたから,できるようになった,

 と子どもに思わせることは,教師自身の「自尊心」をくすぐる意味ではいい方法かもしれませんが,

 それが「教育」の本質でしょうか。

 小学校の教師たちが「教祖」のように崇めている人の書いた本は,みんな「自尊心」の塊のようなものですし,そういう本を涙を流しながら読んでいる人の中には,子どもの成長は自分の働きかけのおかげだ!なんて考えているかもしれません。

 それを,おしげもなく発表してくれる人たちがいる。

 本当に指導力のある教師は,「教えない」んですよね。

 この表現の意味がわからない人がいるかもしれません。

 子どもにとって「自分の力でできた,という気がする」ように仕向ける教師の働きかけが,
 
 「教えない」教えです。

 「育てている」「育んでいる」のですね。

 実際の教育の場では,そういう感じが大切なのです。

 だから,「生徒がどうなっているか」で先生の仕事は評価していかなければなりませんね。


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承認欲求が異常に強い人の文章とコメント

 バカッター問題への解釈として,

 「承認欲求」が異常に強い人の行動ととらえる記事があった。
 
 これには思い当る節が多い。特に教師をしている人は,あてはまる過去の事例や現在進行形の問題がたくさん頭に浮かぶだろうと思われる。

 生徒たちを見ると,まさに毎日その「承認欲求」を満たすための「動き」を見ることができる。

 逆に考えると,生徒たちは「無視されること」に対して大きな不安感,不満感を抱いていると言えるのかもしれない。

 学校時代に「承認欲求」を満たしてあげれば,大人になっても異常な「承認欲求」にみまわれることはない,とは言えないのがこの問題の難しさであろう。

 逆に,下手に学校時代の経験が良すぎると,大人になって苦労する人もいるのではないかと思われる。

 「承認欲求」を満たすためのツールが増えてきたことが背景にある。

 しかしそれは,「満たされない機会の増大」とも捉えられる。


 バカッターはまさにそれに当たるだろう。

 今私が書いているようなブログも,

 「承認欲求」を満たすためのものであることが多いのではないかと思われる。

 ある人は,自分で自分のブログに,記事の内容をヨイショするコメントを入れ続けている。

 コメントが入るタイミングが尋常じゃないので,1人でやっていることがすでにばれている。

 気の毒なほどである。
 
 ブログ全体から悪臭が漂っているのだが,本人は全く意に介さない。

 私のブログも悪臭だらけなのは認めるし,「承認欲求」など皆無かと言えば,そうでもない。

 「実際に自分の学校にもあてはまる」という内容に出会える人がいたら,子どもたちのために何とかしてほしいと願っている。

 もしもっと「承認」されたければ,今のような記事ではなく,より気に入られそうなことを書くようにするだろう。

 教師には,自分が承認されたければ,まずは他人を,生徒を承認しろ,と言いたい。

 学習指導以前に,生徒指導で完全につまずいている教師を何とかしなければならない。

 教師も,ごく小さな「承認欲求」さえ無視されたり否定されたりするような事態が続けば,さすがに「理想の教育」のビジョンをすすんで描くような教師には成長しないであろう。

 保護者や生徒向けの「教師操縦術」という本の企画があれば,すぐにでも原稿を送りたい。

 この原稿のキーワードも,「承認欲求」である。


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教師と子どもの意思疎通のズレは,そんな程度のものではない!

 「学級崩壊」の発生と無縁の教師生活を送っている人には,

 「そもそもなぜそんなことが起きるのだろう」と不思議でならないかもしれない。
 
 「荒れた学校」と無縁の教師生活を送ってきた人には,

 そもそも「荒れる」とはどういうことか,理解できないかもしれない。

 かわいそうなのは,そういうのを経験したことがなく(だからこそ,教師を志望したのかもしれませんが),

 教師になってしまった人である。

 初めて「崩壊」「荒れ」に遭遇すると,精神的にまいってしまうことが考えられる。

 自分のクラスで起こらなくても,たとえば「荒れ」は,別のクラス,別の学年からの「波及効果」がある。

 今日は,ある勉強会に参加していたが,講師の先生がおもしろい表現をされていた。

 中学校の教師は,自分が担任をしている学年ではない学年・・・いわゆる「他学年」の授業を受け持つことがある。

 その「他学年」が荒れていて,自分の学年がしっかりしていると,ときに

 「完全なアウェー」の状態で授業をすることになる,というような内容だった。

 この先生はサッカーの指導者だからこそ,そのような表現になったのかもしれないが,

 言っていることはよくわかる。

 ある人が,教師と生徒のコミュニケーションの関係を二次元のグラフで説明しているが,

 本当のズレは,三次元,いや,四次元の世界で起こっているのだ。

 一言で表現すれば,それだけ致命的に「ずれている」人が,教員のなかにいる。

 人柄のおかげで崩壊しないところもあるが,

 崩壊するにはそれなりの理由がはっきりと存在する。

 「どうして・・・?」と不思議な人も,実際にその教室に入れば,すぐに「悟る」ことができるだろう。

 学校の「荒れ」も同様である。

 「学級崩壊」というと,何となく,先生は生徒のためを思って改善したいと努力している,というイメージもあるだろうが,実際には,教師の方がすでに崩壊しているケースもある。

 学校の「荒れ」の多くは,「指導すべき時に指導すべき人が指導しない」ことを主因として発生する。

 重度の指導力不足教員がいる場合は,「指導すべき時」すらわからないので,話にならない。

 一般の指導力不足教員は,「指導すべき時」はわかるのだが,「指導すべき人」がだれかがわからないので,指導できない。おまえはだれだ?と質問したくなる。

 いじめの拡大と同じで,普通の教員でも,「指導すべき時」も「指導すべき人」もわかっているのに「指導しない」人が多いと,生徒は手が付けられなくなる。

 鈍感と傍観が,「学校の荒れ」を助長させるのである。

 もし教師の指導力について電気関係のものでたとえるなら,

 アンテナの機能と重ね合わせて説明してみたらどうだろうか。

 昔,原爆投下のための仕組みに,日本の技術が生かされていることをどこかで書いたことがある。

 教師とアンテナ。まずは,学校の教師は家庭教師ではない,というところを出発点にしてほしい。
 
 指導力について語るのは,そのあとだ。


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「わかりやすく病」と「好きにさせなきゃ病」の合併症で子どもの学力が低下する

 わかりやすく話すことは,教師にとって基礎的な技能である。

 しかし,それは「レベルの低い内容を話す」ことではない。

 中学校や高校はともかく,小学校の教師には,高いレベルの話をする能力は必要ないのではないか,と思われる人がいるかもしれない。特に,小学校の教師の中に。

 もう何十年も前から,小学生は家庭で大人向けの情報にひたりきって育ってきた。もちろんテレビのことである。

 最近は聞かれなくなったが,PTAが低俗番組への抗議を行うことがあった。

 「こんなのは子どもに見せられない」と。

 そういうのを喜んで見ているのは子どもより大人の方かもしれないのに。

 勘違い教師が受け持ちになってしまうと,子どもは教科書という狭い世界の枠内のみの言葉しか耳にすることができなくなる。

 そんなことでは本当の「勉強好き」は生まれない。

 小学校のころに,中学校,高校で学ぶことのおもしろさを語れる教師はどのくらいいるだろうか。

 「中学校,高校の勉強は難しいよ」などという「脅し」しかできない教師は山のようにいるかもしれないが。 

 小学校教師自身の「学力」が問題視されるようになるまで,それほどの時間はかからないだろう。

 本当の意味での「学力向上」が必要なのは,学校の教師である。

 そもそも小学校の教師になる人の「基礎学力」とは,どの程度のものなのか。

 私は立場上,小学校の教師向けの教育書を手に取ることが多いが,中には,高校受験の参考書よりも,小学生向けの通信添削の教材程度(印象的にはさらにそれ以下)の本が見られる。

 挿絵がたくさんあり,文字が大きく,内容が乏しい。

 編集者の人に聞くと,「こういう本ほどよく売れる」というのだから,驚きである。

 小学校の教師の多くは,難しそうな本は手に取っても読むのをすぐにやめてしまうそうだ。

 (もちろん,これは別の校種の教師にもあてはまることだろうが)

 私の造語で表現すれば,こういう教師は

 「わかりやすく病」にかかっている。

 もう一つの「好きにさせなきゃ病」との合併症を併発していることが多い。

 誤解されるのをあえて考慮せずに書くと,

 小学生は頭が悪い=難しいことを言ってもわからない=やさしい言葉で説明してあげなければならない

 という発想である。

 私なりの考えはこうである。

 小学生の頭はやわらかい=難しいことでもどんどん吸収できる=やさしい言葉で励ましてあげればどんどんついてくる

 小学校の教師は言う。

 「小学生は抽象概念を操ることが苦手だ」と。

 そんなもの,大人だって苦手な人は少なくない。

 では,いつも具体的なものばかりで考えていたら,いつかは抽象的な思考を自ら発揮できるようになるのか?

 「権威」や「正義」は小学生にとって理解できないものなのか?

 とんでもない。

 大人の都合で,小学生に「理解させたくないことがある」のは,教師として理解できる。

 しかし,どんな小学生でも,自分の学力を高めたくないと思っている子どもは一人もいないことを知っておいてほしい。

 わざわざ説明しなくてもわかるような「わかりやすい言葉」を,小学生は期待しているのだろうか?

 「わからない」=「嫌い」という単純な「感情回路」しかもっていないのは,

 小学生ではなくて教師の方ではないのか?

 それが,「好きにさせなきゃ病」がもたらす「感情回路」の一つである。

 「わかりやすく病」との合併症は,

 わからないと思わせたくない→だれでもわかること=言わなくてもいいことしか,話せない・・・

 これでは学力は向上しない。

 ほっといても子どもの学力は上がるが,

 「向上」はしない。

 
 「わかりやすく病」や「好きにさせなきゃ病」の実態は,これまでも述べてきたが,

 どんなに高いハードルを用意しても,必ずそれを超えようとする子どもがいる。

 こういう子どもを教師は大切にしなければならない。

 「向学心に燃えた子ども」が浮かないように,教師は最大限の配慮をすべきである。

 向学心の炎をもらって自らも光を発しだす子どもを増やすような配慮を教師はすべきである。

 教室は,教師と子どもの1対1で学習する場ではない。

 教師が子どもと1対40で学習する場でもない。

 子ども1人と子ども39人の,子ども2人と子ども2人の・・・など,規模と組み合わせは有限の時間の中で,ほとんど無限に存在する。

 子どもによい影響を与えるのは教師よりも子どもたち自身である。

 そのお膳立てをするのが教師である。

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内田樹の『憂国論』と教育 ~その3 教育危機の本質~

 内田樹は,教育危機の本質を,

 「教師が教育を信じることを止めてしまった」ことによる,と表現している。

 また,「教育制度に対する敬意がかけている」人間は教師になるべきではない,とも述べている。

 教師の指導力に関する内田樹の目は非常にシビアである。

 この点は,私も決して引けを取らないと思っている。

 小学校のときからずっーと感じていたことだから。

 私と違う点は,「教育の奇跡」を信じることができていれば,知識に乏しく,教え方もたどたどしい人でも,長期的には教育的成果を残せている,という解釈である。

 私は「教育の奇跡」を信じることができるのは,やはりそれなりの成果が残せた(中学生にその成果のすばらしさを教わった)人だと考える。

 内田樹の説明で,説得力を感じてしまうものもある。内田樹世代の人々は,今では絶対に採用されないような教師に教わったが,そのせいで,学力が低くなってしまったわけでもない,というものである。

 しかしこれも,社会が成長する実感を持ちながら大きくなった世代であるという特殊性も大きく影響しているのではないかと思える。

 すでに教師の「偶像」が崩れた後の時代の教師として生き抜くためには,何が必要なのか。

 今は,それを考えるべきである。

 「教育の奇跡」を心から信じることか。

 教師が変われば,学校は変わる,と言われる。

 異動ではなく,一日のなかでも人間は変わることができる。

 初任者には,一校目の学校で,できるだけ大きな成功体験を味わわせてあげたい。

 それが生涯一教師としてはたらく原動力となる。

 もちろん,多くの失敗も必要である。

 しかし,ネックは失敗を許さない雰囲気。保護者の理解が必要である。

 たった一つの声掛けだけで,余計な問題が防げたり,大切な問題に多くの人を集中させることが可能となる。

 教師による子どもたちへの声掛けがどれだけ自然に行われているか,学校選びがある方は,それを参考にされるとよいと思う。 

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「見て見ぬふり」教師が量産された背景は何か?

 地方の教育委員会にいくと,もと教員(校長)が教育長になっていたりする。例の自治体もそうでした。

 教員あがりが教育長になるのは,何となく教育の世界の「理想」のように見えるかもしれませんが,教育委員会という行政機関の存在意義を考えると,そうとも言えない。

 特に,教員で培われたマイナスの「資質・能力」がそのまま行政に持ち込まれたら,・・・という危惧がストレートに現実のものになってしまった事件が相次ぎました。

 匿名の方からいただいた,以下のコメントについて,検討してみたいと思います。

********************

 時代背景から考えて見ると、今までの体育会系の教師のありかたは、高度経済成長に必要だった「言われたとおりにする」そういう人材の育成方法ではなかったでしょうか
 要するに、言われたとおりにする、何も考えなくて良い。
 それだけが求められ、スポーツ根性アニメなどの登場で、ますますこの要求に応える、教育の究極は黄色い物を見せても、この色は赤だと教える、答えは赤だ、それに従う事が教育だと、、、、、
 さて時代はバブルがはじけ、考えないで言われたとおりにする人材の供給源は途上国へ推移した。そうすると国内でのその手の労働者は急に必要がなくなり、企業は大量にリストラを始める、丁度少子化と重なり、しかもゆとり教育で教育が破壊され、再起しようとしても、教育者の人材はすでに境界性や演技性の人格障害者などが集まる、なぜなら景気の良かった時代に安月給の代名詞、教員、でもしか先生が中高年の教師に多く分布し、まともな教育を行えるような体制にない。

 今必要な人材は、自立して考え、行動し、決断し、実行でき、自己分析が出来る人材が必要なのです。境界性や演技性の人たちに出来るはずはなく、いじめなどにより自殺者が出ても見て見ぬ振りをする教育現場。求められることと、育てる側の人材の能力に著しい乖離が生じていると思います。

********************

 私が教員になったころはすでに平成の世になっていましたが,「体育会系」の上下関係は,確かに学校に残っていました。

 しかし,東京都の場合,本来の「長」になるべき位置に,組合関係者ではなく,「校長」が立ち始めた時期でもありました。だから,体罰は理由が何であれ,体罰であれば処分の対象になりました。

 そういう「隠蔽体質」というか,子どもよりも教員を守る,といった悪質な大人社会は急速に失われつつあった時代だったのです。

 その変化が東京だけのものだったのか,どうかはわかりませんが,いわゆるコネ採用が当たり前のように最近でも行われていた地方と比べれば,まともな環境で教員を続けられたことは幸せでした。

 また,大量採用時代の教員の中にも,当たり前ですが優秀な人はたくさんいます。

 そういう「選び抜かれた先生」のなかで仕事ができたのも幸せでした。

 地方の現状は,ニュースで知る,本当に信じられないようなものからしかわからないわけですが,全国大会などで知り合える教員の話を聞く限りは,やはり子どもがだらしない,手の付けられない,学力が低い「悪役」で,教師はそんななかで頑張っている「アンシング・ヒーロー」としてとらえるのが一般的なような気がします。

 だから,多少の「いきすぎ」は大目に見られる。ダークな面も,併せ持つのが現実的な正義だ,なんていう風潮を感じる。

 決してそんなものではなく,教師は正真正銘の「悪」と化してしまっているところはないか,というのが私の危惧です。

 今,文科省が教育現場で「こういう人間に育てよう」とイメージしている姿は,

 実は最も強く教師自身に求められている姿であるということは,否定する人はいないでしょう。

 育てる側の資質・能力の向上には,まずその能力がどの程度のものなのか,

 外部から全くふれられないですむ,という時代でなくなることが,教育改革の第一歩なのかもしれません。

 そういう意味では,教師や元教師が記しているこのブログの記事,その内容の水準が,ある程度,参考になるかもしれないのです。


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1対40の情報処理の方法

 40人を相手に話をする機会が多い教師にとって,1人とか2人によって話された言葉ではなく,

 40人のどこからくるかもしれない

 つぶやき,

 うなずき,

 40人の複雑な表情などを

 「読み取る」技能が自分の「指導力」の前提になります。

 研究授業では「めざわり」「邪魔」になってしまう多くの参観者のせいで,

 とても優れた「つぶやき」を聞き逃してしまう教師によく出会います。

 それがのちの研究協議の話題になることもありますが,

 私の経験では,あまり勉強が得意ではない,

 その先生の授業ではいつも寝ているような子どもに限って,

 研究授業の場になると,張り切って?とても大切な(的はずれになっていることもありますが,それも逆に使える)言葉をつぶやくことが多いです。

 それは,授業者の先生には認められていないけれど,参観している多くの先生には気づいてほしい,または,今日はさすがに生徒の方にもいつもより注意が向けられているはずだから,私の方を見てほしい,というメッセージがこめられていると考えることができます。

 しかし,まさかそこから小さい声の発言(つぶやき)が出てくるとは思わない教師は,どうしても気づけない。

 聞き取れなければ,そして,その生徒がそれでつぶやくのをやめてしまったら,

 もう「指導」の機会は失われてしまったと言っていい。

 こういうレベルの話を教育ブログでは読みたいものですが,

 あくまでも1対1の情報処理だけにこだわって,かつ,

 「私の言いたいことにかかわる反応以外は認めない」なんていう

 「情報遮断型」の教師の「言い訳」書みたいなものにお目にかかってしまう。

 そもそも「現場の教師の話なんて関係ない」なんて記事を読む価値は全くないのですが,そんな態度は教育界に蔓延している汚染物質のようなものですから,どうにか視界を晴らしていきたい。

 指導力のレベルの低さを象徴するような内容を読むと,本当にがっかりする一方,まだ教育に関心があるうちに,目を覚ませる方法はないのか?と考えているのです。

 あまりにも独りよがりな情報発信,あまりにも独善的な情報受信,そんなものが教育ブログの特徴だ,なんて言われるのは心外です。

 教育の世界では,40人のどこから発せられるかわからない,言葉ではないものも含んだ

 「情報発信」をどうやって処理するかが課題なのです。

 指導力不足教師の授業をみると,どんな反応も「受信」できず(参観者の不満や怒りの雰囲気は十分に「受信」できているのはよくわかります),適切な反応を導き出す「発信」ができないのが特徴です。

 まずは,どんな反応にも「否定的な対応」はしない。「批判的な反応」をする。

 「批判的」=「否定的」ではありません。

 どういう思考のもので,その発信がなされたのか,その発信者の特性と,授業の流れを総合的に見ながら,推論し,場合によっては確かめ,場合によってはそこからさらに発展させて,新しい授業の流れをつくりだしていく。

 これが「指導力」の一面です。

 小学校教師が大好きな教祖たちの本を読むと,そのごく一部だけが切り出されてる授業場面を知ることができます。

 大事なのは,そこで切り捨てられた子どもたちをどうするか,ということなのです。

 1対40の情報処理は,決して機械ではできません。

 子どもを「壊れた機械」なんていう扱い方しかできない教師には,教育なんてつとまりません。


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内田樹の『憂国論』と教育 ~その2 救われたこと~

 『街場の憂国論』(内田樹著,晶文社)のまえがきに,私がほっと胸をなでおろした記述がありました。

 内田樹は,仕事を減らそうとして,「他の人があまり言わないこと」を書くようにしたとのことです。

 でも,それが人気を集める結果となり,逆に仕事が増えてしまった・・・

 これはただの戦略ではないかと思ってしまいましたが,・・・・。

 ところで,以前の著書で,

 ネットに匿名で攻撃的なことを書く人のことを批判している文章を読んだことがありました。

 斜め読みをしていたせいか,その批判の具体的な内容をつかみ損ねていたのです。

 それが,この「まえがき」ではっきりしました。

**************

 その人自身は「多くの人が自分と同じことを言っている」という事実を根拠にして「だから私の言うことは正しいのだ」と思っています。ネットに匿名で攻撃的なことを書く人のほとんどはそういう前提に立っています。

 あまり言われないことですけれど,「私と同意見の人間がたくさんいる」というのはある意味で自分に対する「呪い」として機能するからです。それは「私がいなくなっても,私が口を閉ざしても,誰も困らない。私はいくらでも替えが効く人間である」と宣言するに等しいことなのです。

**************

 これは内田樹流の「反撃」なのでしょうが,私もかなり攻撃的なことを書いていますので,自分は自分に「呪い」をかけているのか?と気にかけたことがありました。

 でも,それが払拭されました(・・・もちろん,「敵」を想定して怒りをもとに文章を書いている,という指摘は正しいのですが,それはみんなに当てはまるでしょう)。

 教育界には,

 「教育はちゃんと成り立っている」ことにする,暗黙の了解というものがあります。

 文部科学省に提出する書類も,もとは各学校から集められているものですが,これはみんな「正しい」前提で集計がされている。いちいち,たとえば授業時数をチェックしにいくことはありません。

 学級日誌を調べれば,いろいろわかってくるはずなのですが。

 しかし,実際に学校訪問すると,「短縮授業」などをバンバン行って,標準時数をクリアしていないところがたくさん「見えて」くる。

 それは,「見ないことにする」のが礼儀です(ただし,東京都教育委員会だけは,甘く見ない方がよいです)。

 ある都道府県の人はみんな知っていることだと思いますが,

 ここでは何と「目標準拠評価」ではなく,「相対評価」がまだ生きている。

 高校入試には,「相対評価」の方の信頼性が高いから,というのが理由でしょうが,

 公文書である「指導要録」に書かれている評価は嘘っぱち,ということになる。

 こういう話を公開している人はいないでしょう。

 

 当たり前だけど,そういう話を「支持」してくれるような人はあまりいない。

 なあなあでながく過ごせてきた人に,子どもの学力が低いままでも自分の給料には何の影響もない人たちに,私の話など,読む価値はないのです。

 手遅れになってからでは遅いのですが,現状はすでに手遅れの状態です。

 小6の算数の学習状況があれでは,中学校の数学にはついてこられないことは明白。

 そういう「事実」を明るみにする最大の材料が,全国学力調査。

 もちろん学校ごとの成績公表に反対する人はいる(特に成績が低い学校の関係者は)でしょう。

 公表することに効果はあるか?

 ありますよ。成績の低い学校には,異動でいい教師がやってきます。

 意地悪な自治体の場合は,問題教師だけ集めて,どうにもならないところまで荒れさせて,学力を低下させて,統廃合にもっていくこともあるでしょうが。

 いつもの話に脱線してしまいました。

 今日の趣旨は,「他の人が書かないことを書く」というスタンスの単なる確認でした。


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内田樹の『憂国論』と教育 ~その1 アンサング・ヒーロー~

 ようやく普通の本を手に取って読める時間的な余裕ができました。何か月ぶりかのことです。

 『街場の憂国論』(内田樹著,晶文社)のあとがきに,内田樹が生涯かかえていた「危機感」のことが簡単に説明されています。

 日本の行く末に関する「危機感」と,私が抱いている一つの学校の明日,来週,来月,来年への「危機感」とはスケールが違いすぎるかもしれませんが,「警句」として頂戴できる言葉が見つかり次第,ここに記録しておこう,というのがこのブログ記事(シリーズ)の趣旨です。本の帯に「天下の暴論」とある通り,鵜呑みにすることができない内容については,もちろん批判を加えながら,まとめていきたいと思います。

******************

 原発事故を例に,「事故が起こったら大変なことになる」のは分かっていても,事故が起こらない状態がずーっと続くと,「たぶん事故は起こらない」というようなムードが高まってくる。

 私は通勤途中,ある人物の警護にあたっているSPと毎日すれ違っているのですが,「問題なんて,起こるわけないだろう」と本気で思っています。

 しかし,「問題は起こらない」などと言うことはできない。

 「問題は起こらない」でほしいという強い願望によって,

 「問題を起こさない」ことができる,と考えている人もいるでしょうが,自然災害を例にとってもわかるように,「願望」でそれを防ぐことはできません。

 こんな当たり前のことに神経が鈍くなってしまう理由が,「何も起こらない状態が続くこと」にある。
 
 世の中には,「ほんのわずかな気づかいで防ぐことができたはず」の事故がたくさん起こっています。

******************
 
 学校の教育現場でも,似たような状況がある。

 「今の状態のこの学校が,荒れるはずない」

 「毎日来ているあの生徒が,急に不登校になるはずがない」

 「私たちの学校に,不審者が侵入して生徒に危害を加えることなんてない」

 ・・・みんな「願望」にすぎません。

 問題が実際に発生する学校というのは,それが「願望」だけで終わってしまって,

 「問題を起こさないための手立て」を講じていないケースが多い。

 もちろん,どんな手立てを講じたとしても,予想できない事態が起こることによって,問題の発生を防げないこともあります。しかし,あらかじめ打っていた手によって,被害が最小限に抑えられたり(減災),事後の対応がスムーズで,問題の解決に時間がかからない,というメリットは当然あるのです。

 私がはっとさせられた,あとがきの文章を引用します。

******************

 陰徳を積むよりは,実際に危機が起きてから,華やかな働きをお見せして,それに相応しい報奨を受け取る方が「得だ」というふうに考える人,リスクを未然に防いで「歌われずに」終わるより,リスクが現実化したあとに「歌われる」チャンスを手に入れる方がクレバーだと考える人,そういう人が能力の高い人の中に増えてきている。


 堤防の「蟻の穴」に誰も小石を詰めようとしない社会,それを「リスク社会」と呼ぶのだろうと思います。僕たちが直面しているのは,そういうタイプの危機です。

******************

 学校現場にも,そういう教師はいないでしょうか。

 明らかに問題が発生しそうなクラスがある。子どもがいる。

 それを何も指摘しない。問題が現実化していないのに,それを担任の教師に伝えるのは

 「失礼だから」。

 危機を伝えて,問題が発生しなかったときに,

 「だから言ったでしょ」なんて非難されることが嫌だから。

 でも,実際に問題は起こる。

 問題になるのがわかっていた人のうち,指導力のある人は,

 それなりに問題を収束させることができる。

 そして,そのときに,初めて評価される。

 「アンサング・ヒーロー(歌われざる英雄)」とは,現実の問題を解決した人ではなく,

 問題を起こさないように陰の働きをしていた人のことを言うそうですが,

 たしかに,業績として評価しやすいのは,現実の問題が起こった後に,それを解決した人です。

 事前に問題の発生を予知し,その発生を防いだ人の働きは「見えにくい」ために,なかなか評価されない。

 評価されないことはしない。

 そういう人間が増えていくことへの危惧を内田樹は抱いている,ということです。

 特に国を動かす力のある人たちの基本スタンスがこういう「自己の利益を最大限にする」方法に偏っていったら,防げる問題が防げなくなる可能性が高くなるのですから,本当に問題だと思います。

 それをそのまま教育現場にもあてはめることが可能かというと,そうではない,というのが私の考えです。

 教師の場合,たとえ人事考課があったとしても,たとえばAが3分の1,Bが3分の1,Cが3分の1だったら大騒ぎするかもしれませんが,ほとんどの人間がBである場合は,「業績評価」の心配はほとんどしません。

 だから,わざわざ「問題発生後の高パフォーマンス」をねらって,その前には何もしない,ということは教育現場では起こりません。

 そもそも壊れた機械を修理するようなかたちで「問題発生後の高パフォーマンス」が発揮できる教師などほとんどいません。

 私の一番の心配は,

 「危機感すら抱けない」教師たちの存在です。

 当たり前のことですが,教師にも

 「アンサング・ヒーロー」はたくさんいます。

 たった一言だけの言葉かけや,教師のわずかなしぐさ(うなずきなど)が,生徒を救うこともある。

 いい学校というのは,「顕彰されない英雄」だらけの学校なのです。

 そういう行動規範が学校現場で教師から生徒へと受け継がれること,それが学校に,教師に求められている使命であると感じられました。

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教員免許更新を受ける年齢になっても・・・

 私の学校には多くの参観者がお見えになります。

 そして,残された感想を読むと,自分の学校の評価を残してくれる人がいる。

 「うちの学校の生徒はバカばっかりで,本当にやる気をなくす」

 という類のもの。

 そういう人が,面と向かって言ってきてくれれば,私はすぐに言葉を返せるのですが。

 「では,ここであなたが授業をしてみてください」

 ・・・・・本当にしてくれた人がいたのですが,

 「それでは,どんな生徒でもできるようにはならないでしょう」・・・なんて言えませんが,

 原因と結果の関係がごちゃごちゃになってしまっているので,

 何とか整理してあげたくなってしまいます。

 昔,ある高校の英語教師が生徒の悪口を書いているブログを目にしました。

 もっと昔には,中学校の教師のそういうブログも読みました。

 原因と結果の関係がわからないのは,外部の目を経験したことがないからなのでしょう。

 あるいは,生徒たちの声に耳を傾けていないからでしょう。

 無理もないですよ。

 目くそ鼻くそを笑う。

 いやいや,生徒は鼻くそなんかじゃありません。

 よーくみて下さい。

 私の学校にも,厳しい生徒がいるじゃないですか。

 その生徒が,授業にしっかり取り組めているのは,どうしてなのでしょう?

 参観者が来るから?

 大阪で先日あった研究大会では,全国大会でも,ちゃんと眠れる子は眠れるんですよ。

 どうして眠ることができるか。

 眠ることが可能な授業だからでしょう。

 せっかく免許更新の講義を受けたのなら,

 勉強ができないのに授業に積極的に生徒が参加しているその理由を学びとるべきです。

 「いい学校だから,生徒はみんないい生徒だ」

 なんていう固定観念は,あなたが「少しはいいと思われていた学校」に異動になれば,すぐに崩壊しますよ。

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今のような教師が本当に必要でなくなってしまう時代の到来

 オンラインの無料教材や優れた講演を自由にネットで見られる時代になりました。

 将来は,今のように塾に通わないと学力が高められない,ということのない時代になるかもしれません。

 今,若い先生方が困っているのは,教材研究の時間の不足です。

 言い訳として使えるという点では,困らないですむ理由の一つですが。

 現場に入る前から,自覚はもっていると思います。

 「自分が説明することによって,中学生を理解させることは可能だろうか?」

 こういう不安は,生徒の「わかった」という感想で紛らわされてしまうものですが,

 実は本当にわかったのかどうか,理解させたのかどうかを判断する方法をもっていないことが多い。

 そして,生徒から「わからない」と言われると自信をなくしてしまう。

 本当は,生徒が「わからない」という自覚をもってくれたそのときこそ,教師の本当の出番が到来するわけですが,多くの教師はそのタイミングで最適な受け答えをすることができない。

 財務省が,教師の給与を国際水準をふまえて引き下げようとしていますが,

 実質的に,教師に対する,ある部分(=学習指導)への期待は裏切られ続けてきたため,

 そこを肩代わりできるものさえ安いコストで確保できれば,

 たとえ給与を引き下げ,人材の質は落としたとしても,効果としては今まで以上のものが期待できるようになってしまうかもしれない・・・・・こういう危惧を抱いている教師はどのくらいいるのでしょう。

 教育のことがわかっていない人は,そういう頭の使い方をします。


 今,反復授業のようなものまで,現場で導入され始めている。

 家で授業を受けさせるのに,担任の教師が教える場面を使う必要はない。

 もっと上手に,映像を駆使してより分かりやすい教材が1つできてしまえば,それをどんな教師でも使うことができるようになってしまう。

 教師が教室で専門的なことを教えることがなくなれば,教科の専門性なんて必要なくなってしまう。

 「話し合い」の実践のように,生徒がガヤガヤやっているところを適当に歩き回っていれば,それで仕事がすんでしまうような時代が来ると,そもそも「教員免許」なんてものの必要性もなくなってしまう。

 子どもに犯罪行為さえしなければ,ちょっとしたまともな企業で働いた経験のある人なら,だれでも教師がつとまってしまう。

 こういった想像を笑う余裕が今の教師たちに果たしてあるのでしょうか。

 全国学力調査の結果は,ある意味,非常に残酷です。

 能力の高さが小5で証明されている子どもが,小6で担任が変わり,学力調査を受け,それが惨憺たる結果になったら・・・・。

 教師の現状を本気で心配している人は,子どもが学校に通っている人でなければ,それほどいないと思われます。

 ある人はビデオ教材は教師の代用にはならないと言っていますが,

 部分的には昔から使われているわけです。

 むしろ,「先生より分かりやすい!」と「評価」されてしまうビデオ教材,オンライン教材がある。

 こういうのがより身近になってくると,「先生,いらない」と子どもから烙印を押されてしまうかもしれない。

 そういう危惧をまともに感じられるのがいい教師なのか,笑ってすますことができるのがいい教師なのか,それはみなさんの教わった先生を思い浮かべて,想像してみて下さい。
 


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学力調査結果公表で「得をする」学校

 以前に書いたことだが,全国学力調査に関する文部科学省の専門家会議の考え(=公表を容認する)が出されたということなので,情報として再び提供したい。

 学力調査結果の公表で「得をする」学校とはどういう学校か?

 それは,「結果が悪かった」学校である。

 「損をする」学校とはどういう学校か?

 それは,「結果が良かった」学校である。

 その理由は,教員の配置を決める教育委員会の立場で考えれば想像がつくだろう。

 静岡県などは,校長に責任を持たせようとしているが,

 校長の力で学力向上を図るのは事実上,無理だろう。

 野村監督の楽天が勝てず,星野監督の楽天が勝てるのはなぜか?

 選手の顔ぶれを比較してみればよくわかる。

 学力調査の結果に大きな影響を与えているものは何か?

 小学校の教師なら,心当たりがあるだろう。

 子どもの生活習慣のせいにする人間はいないだろうか。

 それなら,生活習慣に課題がある子どもは指導力のある教師にまかせてみて,

 生活習慣に何の問題もない子どもだけのクラスの担任になってみればよい。

 その次の言い訳は何だろうか。


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「伝わらない」ことを子どものせいにするのが指導力不足教員の共通点

 子どもが自分の思い通りに動かない。

 子どもに自分の言葉が伝わらない。

 指導力不足の教師は,これを子どものせいにする。

 一応,学校現場にとどまれる指導力不足の教員の特徴は,とにかく子どもを恫喝して反抗させないようにし,とりあえず秩序を保っていることにある。もちろん,そこは「教育現場」ではない。「監獄現場」であり,子どもにとっては「教育の墓場」に等しい。

 「教育の墓場」は,ブログ上にも散見される。

 自分が伝えたい内容が,誤っているか,偏見に満ちているか,言葉を曖昧に使いすぎていてどうにでも解釈できてしまうか,そもそも伝えるべき内容の体裁をなしていないことに気づけずに,

 意見を寄せている人間に「読解力がない」と言葉を寄せてしまう。

 現代文の問題の素材となる文章を選ぶときは,あいまいな解釈によって正解にぶれが出てしまう可能性があるものは真っ先に排除される。

 読解力を問うための文章には,それなりの「水準」があるのである。

 それを満たしていない文章を「正しく読み取れ」というのは,

 哀しい「思い違い」である。

 そういうことを「教えてくれる」人がいなかったことが,最大の不幸である。

****************

【追記】 やっとあの誹謗中傷ブログが消されましたね。

 このブログも,「読解力がない」といってコメントを寄せた人の悪口を言うのがお決まりのパターンでした。

 
 
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その子を伸ばせないなら教師をやめた方がよい

 小学校から,最低・最悪のコメント付きで中学校に上がってくる子どもがいる。

 しかし,中学校に入ると,別人のようにリーダーになって活躍しだすことがある。

 逆に,小学校の教師が目の中に入れても痛くないような持ち上げ方をした子どもが,

 中学校では特段の活躍もできず,学力も期待通りには上がらないで高校に進学していくこともある。

 12歳の子どもと13歳の子どもには,ものすごく大きな段階がある。

 体格・体力的な問題とは別の話である。

 さて,先日,ある中学校の授業を見学させていただいた。

 二人も介助員(寝ている子どもを起こしたりする役割らしい)がいたことには驚いたが,

 私が一目でわかったことがある。

 いつも後ろ向きの発言を繰り返して,授業を妨害するまでには至らないが,問題の生徒だと見られている子どもがいた。

 私は参観者の一人だったが,その生徒にある役割を担ってもらったら,とてもうれしそうに反応してくれた。

 この生徒は,人一倍,「人の役に立ちたい」と思っているのだ。

 「がんばりたい」という心の表れが,「~が嫌い」というわがままな言葉であることがわからない教師ではいけない。

 中学生にとって,「~が嫌い」と先生に聞こえるように言うのは,その先生が好きだからである。

 こういう中学生を毛嫌いするような人間に,教師はつとまらない。

 「勉強が嫌い」と言ってもらえるような関係を教師は生徒とつくらなければならない。

 こういう生徒を,介助員を通してだまらせるような人間は,教師としてふさわしくない。

 私が気になった生徒がもう一人いる。

 自分の意見をさっと書いてしまった後,話し合いの場面になっても何も伝えない子どもである。

 能力が高いことはすぐにわかったが,それを他の生徒に伝えたり,共有したりすることができない。

 こういう生徒の評価はかなり低いものになるはずなのが今の評価の仕組みなのだが,実際のところはどうだろうか。

 こっちの方にこそ,介助員はつくべきである。

 いや,やはり,どう考えても,介助員はいらない生徒の質の高さだった。

 授業をしてくれた先生との関係もできている。

 問題なのは,この先生に研究授業を押し付けたほかのベテランの教師たちである。

 

 
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うつ病とたたかった丸岡さんの言葉

 インタビュー記事を読んだだけなのですが,仕事で東日本大震災の凄惨な現場を目にした後,

 テレビから姿を消してしまった丸岡さんのつらさがひしひしと伝わってきました。

 最近はバラエティー番組にも出演されていて,お元気な様子が見えますし,

 著書も出版されたそうで,内容に関する興味もありますが,

 家内と雰囲気が似ている丸岡さんのつらい経験を読ませてもらう勇気は今のところありません。

 インタビュー記事では,

 うつ病は,こういう人がなるものだと思っていたが,それは偏見だった・・・

 という内容が書かれていますが,

 いずれにせよ,とてもつらい経験がもとになって起こる可能性があるものだということはよくわかりますし,そういう経験をしたとき,同じような症状というか状態になることは,容易に予想されます。

 180度話は変わって,

 こういう病気のことをもとにして特定の人物への誹謗中傷を繰り返しているブログがあります。

 私はFC2ブログに強く抗議します。

 隅から隅まで,ひどい言葉のオンパレード。ここに,スポンサーの広告がついているのですが,この会社まで憎くなってしまうような,嫌悪感でいっぱいになるようなブログなのです。

 このブログを書いている本人が,相当つらいめにあってきた人間だということも,容易に予想されます。

 ろくな教育は受けてこなかったのが分かるし,そもそも人間のあたたかさを感じたことがなかったのではないか,という気もします。

 私はそういう子どもを中学校現場で数多く目にしてきました。

 そのころの中学生で,今,どういう大人になっているのか,本当に心配になる教え子がたくさんいます。

 少なくとも,人の悪口をブログで公開していい気になっているような,そんな人間ではないことを祈っています。

 丸岡さんは,うつ病のときの心理状況を,インタビューでも例を出して説明してくれました。

 一方では,まともなことを考えられる自分がいる。

 しかしもう一方で,もしまともならそんなことは考えない,という自分も存在する。

 そういう「二人の自分」がブログ上で縦横無尽に泳ぎ続けている・・・絵に描いたようなブログが2つあります。


 
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【フィクション】 教員免許のない人が教えられる仕組みづくり

 世界には,さまざまなエリート養成学校ができていますが,わが校でも,エリート育成のための教育プログラムがいよいよ実現することになりました。

 特に活躍していただけるのは,企業を定年退職された卒業生や,キャリアを積んで家庭に入り,時間に余裕のある保護者たちで,みなさん,指導者として授業に参加していただける仕組みが整いました。

 文部科学省からの応援は何もなかったのですが,他のいくつかの省庁からの援助を受け,予算面にめどがたち,GOサインが出ました。

 日本の未来が教育にかかっていることは,だれもが認めるところですが,

 教育を文部科学省にまかせておくことができないことも,もはや常識となってきました。

 人づくり,リーダーづくりが得意なのは,

 文部科学省のように「ほとんどがヒラ」の人間たちと,企業の中間管理職程度の仕事しかできない学校の管理職ばかりを相手にしているような役所ではなく,

 世界で縦横無尽に活躍する人たちとのつながりが密接なほかの省庁の方です。

 そして,いよいよ,それらの省庁による教育=人材育成のリーダーシップが発揮されるようになりました。

 今後の教育の方向性は,従来と大きく異なってきます。

 何しろ,予算をがっぽりもっている省庁がバックにつきましたから,

 学校ごと1か月間,海外を舞台に学ぶチャンスも生まれました。

 子どもたちが教えを受ける「先生」は,少しずつ,昔ながらの「免許」をもった人ではなくなっていきます。

 海外からも,優秀な子どもたちが日本で学ぶ機会を求めて集まってくるようになります。

 本校は,その中核として,いくつかのモデル事業を起こし,提案させていただきます。

******************

 この内容はすべてフィクションです。

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道徳の教科化で楽しみなのは,新しい「道徳の教科書」

 「修身」の復活だ!・・・と心配というか,

 反対するための「合言葉」にしたがる人が増えてくるでしょうが,

 いよいよ「道徳の時間」が教科に格上げされることになりそうです。

 この教科書に登場する教材に興味があります。

 どんな教科書会社が編集に乗り出すのか,ということにも。

 オリンピック教育と関連づけする意図で,

 アスリートの伝記や逸話などをばんばん載せるもの,

 人権教育と関連づける意図を明確にするもの,

 グローバル人材を育成するためのもの,・・・・

 もちろん多くの教科書は,バランスをとった編集になることと思いますが,

 ここで大切なのは,

 他の教科や特別活動,総合的な学習の時間,部活動などとの有機的な関連付けができる教科書になるかどうか,です。

 道徳は,教室の椅子に座って,聞いたり書いたり話し合ったりするだけで,その実践力が身に付くものではありません。

 必ず,学校外を中心とした「体験活動」や学校を中心とした「自治活動」を通して実践力が体得できたかどうかを評価できるような仕組みにしなければなりません。

 道徳の教科書,教材づくりは,学校づくりそのものと言っても過言ではありません。

 導入が早まりそうなので,教科書づくりのスタートも待ったなしです。


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謙虚な人間が決して口にしないこと

 教育現場では,教師はときに自分もできていないことを,

 子どもに「目標」として設定することがあります。

 それが,「人は謙虚であるべきこと」。

 子どもというのは,大人に直接触れて,成長していく部分がたくさんあります。

 謙虚な態度を人前で見せている親や教師を見て育っている子どもは,

 「謙虚な態度」の意味や意義を知ることができる。

 逆に,人に
 
 「謙虚であれ」と言いながら,

 謙虚さを感じられない人間に出会うと,

 「謙虚さを失う人間ならでは」の言葉というものを知るわけです。

 そういう意味で,タイトルだけは立派だがいろんな「害」をふりまいているブログがある。

 この管理人に読ませたい記事が,雑誌にありました。

 「謙虚さを養うための基本原則」が6つ紹介されていましたが,そのうちの2つをご紹介しましょう。

 一つは,

 風変わりなアイデアにも特に耳を傾けよう

 というもの,

 もう一つは,

 強い好奇心を持とう

 というものです。

 謙虚さを失った人間は,

 自分が「これは誤った考えだ」と認識すると,

 すぐに排除しようとします。

 こういう「排除」の態度は,教育現場ではすぐに子どもや保護者に見抜かれてしまい,

 「そういう人間」としての扱いを受けることになります。

 中には,「そういう人間」そっくりの人間に成長してしまう子どもも出てくることでしょう。

 世の中には,旧態依然とした仕組みのなかで本来の力が出せない人たちがたくさんいる。

 そういう人に将来のためのチャレンジ精神を育てるのも,教師の役割です。

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世の中も,人生も,単純じゃない。教育はもちろん。

 今日の研究会では,教育の価値観について討議する場面がありました。

 学習指導要領には,「子どもの実態に即して」という大きな前提が書かれています。
 
 多くの教師は,それを無視といったらいいすぎかもしれませんが,少なくとも軽視している面があります。

 これ,本音としたら,「教師の実態に即して」の方がより重視すべき指摘なのですが,

 それはおいておき,

 何が何でもこのとおりやるべきだ,なんていうことは,世の中もだれも断定はできないのです。

 無責任な人間ほど,「自由」は嫌がる。

 「自由にやって失敗したら,それは自由にやった人間のせいになる」

 という発想があって,「失敗して自分のせいにされたくない」ために,

 「やることを決めてほしい」と願うようになる。

 教師は,こうなったらおしまいだ,というのが私の感覚です。

 大きな目標は,はっきりしている。

 そこに子どもを近づけるには,教師の責任である。

 どうやって近づけるかは,子どもを間近に見ている教師が決めるべきなのです。

 このように,仕事は「単純」ではありません。

 マニュアルをつくってもらって,その通りに仕事をすればよい,と考えている教師が増えることには,危機感を覚えています。

 繰り返しますが,世の中に「単純な仕事」などありません。

 人間は考える動物です(最近は動物も考えることがわかっているらしいですが)。

 その仕事の意味や意義を考えることができるのが人間です。

 常にそこには複雑な世の中が存在するのです。

 自分の言うことに,責任を持ちたい。

 それには,なぜそう思ったのかを説明する責任も含んでいます。

 それだけで責任がすべて果たせるわけではありませんが,

 少なくとも自分はなぜ,どういう意味でこれをしているか,

 それを自らの言葉で語れるのが教師としての最低限の仕事だと思います。

 

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本物の教師は,失敗したときでも笑顔でいられる子どもを育てる

 人はどんなことにでも成功をおさめられるような存在ではありません。

 できない子どもをできるようにするのが,教師のつとめである,というのもうなずけますが,

 できないままの子どももいることは忘れてはいけません。

 何かが失敗に終わってしまったら,子どもは達成感も得られず,プラスには働かない,と思っている人もいるでしょうが,人生そのもののことを考えてみてください。

 どこかの学者は,「だれもおいてきぼりにしない」ことをモットーにしているようですが,

 それは一歩間違うと「すべての子どもをおいてきぼりにする」ことを意味する可能性があることも忘れないでほしいと思います。

 ふだんはできる子どもでも,緊張すればできなくなることもありますし,

 気が緩んでできなくなることもあるでしょう。

 大切なのは,くじけない心を育ててあげているかどうかです。

 前向きに,次のチャレンジに向けて歩み出せる子どもを育てているかどうかです。

 ドラマ好きな人のなかには,ハッピーエンドで終わらなければ気が済まない,という人もいるかもしれませんが,人生はそんなに甘くないですよ。

 むしろどのくらい積極的に失敗できる子どもを,どのくらいの程度までを許容して増やしていくか,という発想がほしいものです。

 ちなみに,私の行事指導のスタンスがこれです。

 「成功潔癖症候群」を減らすことで,世の中のいくつかの問題は解消されていくと思われます。

 世の中では,多くの問題が解決困難なのです。
 
 でも,何もしないわけにはいきません。

 「失敗許容量」の見極めが,これからの世の中,大切になってくるでしょう。

 だから,それを見極めるための実践を私は繰り返しているのです。

 ちなみに,行政は,失敗のリスクがあることにはお金を出しませんし,GOサインも出ません。

 行政だから,仕方がないかもしれない。

 だからこそ,行政をあてにせずに失敗のリスクがとれる人を増やす必要があるのです。


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【フィクション】 ネット補習を開始します!~オンライン教育の普及推進校~

 はい,私は,T大学附属「育鳳学園」で,「学習委員会」を立ち上げた中学校2年生です。

 この委員会では,毎日の授業の復習がスムーズにできるように,

 授業で重要だったポイントをわかりやすくまとめて説明するのが上手なクラスメイトに,

 約10分間,語ってもらう動画を,学校のHPでUPする企画を開始いたします。

 説明するのは上手だといっても,まとめた内容の一部が誤っているかもしれません。

 そういう問題をチェックするために,チェック係も設けたいと思います。

 毎日,修正点や補足する点をまとめた動画もUPします。

 配信は,希望制です。

 家庭のパソコン,スマホなど,受講する端末のメールアドレスから,申し込んで下さい。

 なお,この動画は,配信を希望する小学生にも開放します。

 中学校でどのような学習をするのか,いつでも知ることができるようになります。

 今日は,講師役をつとめてくれる人,動画を撮影したり,簡単な編集をする人を募集します。


 講師の人気投票,分かりやすさ等の評価なども,ネット上で行います。

 月間MVPなどの表彰も行います。


 どうぞ,ご協力をお願いいたします。

 私たちの学校は,自治活動をしっかり行うことが基本です。

 学習面でも自治の力を発揮しましょう。

*********************

 以上の内容は,あくまでもフィクションです。


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【アンケート】 公立学校運営の民間開放の結果・・・・学校はこう変わる

 30歳代で学年経営ができる優秀な教師を,学年に1人ずつ,公務員の2割増しくらいの年俸制で引き抜いてきます。

 教科指導は,学年主任以外,全員,講師が勤めます。

 午前中はすべて,5教科の授業を行います(土曜日も)。

 基本的に,習熟度別のクラス編成になりますから,扱う教材も変わります。

 午後は,部活動と実技教科が一体となった活動を行う日と,

 一年間をかけて様々なイベントを楽しむ「ホームルーム」としての活動を行う日が混じる形になります。

 部活動やホームルームを指導する人は,教員ではなく,その分野のプロや業者から派遣される人を講師として雇います。

 部の大会が近いときは,前者が中心に,行事が近いときは,後者を中心とした時間割に変わります。

 夏休みなどの休業期間には,教科を中心とした学習をするグループと,部活動を中心とするグループに分かれます。

 新学期に入る前は,教科指導を受けるクラスを決めるテストが行われます。

 また,通常の学期中に履修していない実技科目は,集中して長期休業中に学びます。 


 入学希望者が定員をオーバーした場合は,くじで決めます。

 もし,入学を希望しているのにできない人が,1校あたりの生徒数を超えた場合(つまり,倍率が2倍を超えた場合)は,こういう学校をもう1つ増やすことにします。

 そのうち,今までのような公立学校は一つもなくなるかもしれません。

 なぜなら,午後にゆとりのある生活を送っていながら,普通の学校よりもはるかに総授業時数が多く,学校生活が充実したものになる学校は,そうはないからです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・

 こんな提案が出されたとき,一般の方なら,どう思われますか?

民間運営にすることで,今までにはないアイデアが次々に生まれ,それが実現する期待が高まります。


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「教育の成果」あり? ~コメントを削除して内容をパクる名人登場~

 「へそ曲がり」と呼ばれて大人から扱いにくく感じられている子どもは,見込みがありますよ。

 簡単に迎合しない人間は,それなりの「人物」に見えます。

 「人物評価」で,高いスコアをねらえるかもしれません。ただし,私のような人間が面接官だったときに限りますが。

 人から教えられても,素直に「教えてくれてありがとう」と言えない人は少なくないですよね。

 いつも他人を見下しているような人間では~始末に困るのが,けっこう歳がいっている人ですが~,

 更生に時間がかかります。(そもそも更生してくれる人はリアルの世界では皆無のはずですが,そこはネット上の世界。)

 人からもらったコメントを削除して,その内容を利用して自分でコメントを入れてくれるとは・・・。

 アイデアをパクられたこちらの身としては,実は,どちらかというと喜びに近いですね。

 まともな状態に近づくことができているから。

 仕事に対して情熱をかける人に,「情熱みたいなものは,論理を無視するもとになる」なんてことを訴えるような矛盾を,自ら犯している・・・・それに気づくことができたら,相当の進歩ですよ。

 中学校の教師の仕事は,こういうことにも喜びを感じるものです。

 どんなかたちであれ,「前進」が見られることはどちらかというと「まれ」なことですからね。


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確信犯

 人間は感情によって左右されやすい生き物である。

 モチベーションを高めることを研究する学科まで登場している。

 その知恵を授けることで金儲けをしている人もいる。

 人間を強く動かす感情には様々なものがあろうが,

 私がこのブログを書く一番の理由は「怒り」である。

 教員が情けない醜態をさらし続けることが我慢ならない。

 指導力がないというより

 劣化させる力のある教員によって,子どもが「伸びない」ことが気の毒でならない。

 教育ブログの中にも,明らかに見当違いの指導を恥ずかしげもなく

 公開している人間がいるが,こういう失敗の公開というのはある意味では,とても重要なことである。

 「こうあってはならない」と自分に言い聞かせることができるから。

 人は強い感情がもとになって,

 強烈な動機をもって,「どうしようか」と考えるようになるのである。

 「意欲を高める学習指導の工夫」など,今まで何回くらい耳にし,目で見たことだろう。

 「思考力を高める学習指導の工夫」をするためには,まずは「意欲を高める学習指導の工夫」が前提として必要なのである。

 「考える価値のあること」だと知ってはじめて,考えようとする子どももいる。

 心を動かすのが先か,考えるのが先か,子どもを相手にしている場合は,

 両方から支えていってあげる力が必要である。

 教師にとってはもちろん,子どもたちにとっても必要なことである。

 ある誹謗中傷ブログの管理人は,自分の矛盾を示すコメントを勝手に削除している。

 確信犯である。本来の意味ではなく,定着している誤用の方の意味である。

 この確信犯には,何のロジックもない。

 ただただ感情にまかせて,特定の個人に対する攻撃を繰り返している。

 まさに,自分で描いた通りの人物である。

 

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私は「学校の宿題」反対派です

 もしあなたの子どもが,学校の宿題のことが原因で自ら命を絶ったら,どう思いますか?

 宿題をみてあげられなかった自分を責めますか?

 私の場合は違います。
 
 そもそも私は宿題を学校が課すことには反対です。

 長期休業中の課題は,大目に見ることにしましょう。それでも分量の限度はあります。

 家庭では,家庭で学ぶべきことがあります。

 学校で学ぶべきことは,学校で学ぶべきです。

 学力調査でプレッシャーをかけられた教員たちが,今後,むやみやたらと宿題を課してくることが予想されますが,宿題に関する方針は,きちんと校長が判断して,入学前に説明しておく義務があると考えます。

 「宿題を出してくれないと家で勉強しないんです」

 という親には,「学校で勉強してくれているだけで十分です」と言えるような教師でありたいものです。

 もっと高いレベルの学校なら,「家庭では,自分にとって必要なことを自分で判断して学んでくれるよう,教えてあります」と言えるかな。

 「学校でできるようにならないものが,家庭でできるようになるわけがありません」なんて言える人はどのくらいいるでしょうか?


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教職実践演習がどれだけ無駄かがよくわかった

 初めての「教職実践演習」での「学校訪問」を受け入れた。

 そもそもこの制度自体の問題は以前に書いたが,

 やってきた大学生の「感想文」を読んで,それが確信に変わってしまった。

 授業中に勝手に生徒と雑談を始めてしまう学生,

 「生徒の背が伸びていて驚いた」程度の感想しかもてない学生,

 無理もない。

 採用試験に落ちて,大学院の試験の準備をしている学生や,

 そもそも教員になることを志しておらず,もう就職先が決まっている学生が

 この時期に真剣に教育と向き合えという方が無理な話である。

 このような最低の制度設計をした人間の顔が見たい。

 たった1日,面倒をみさせられた学校現場がこうなのだから,

 大学の教員たちの方でも,不満たらたらだろうと予想できる。

 しかし,わずかばかりでも「カネ」を握っている相手には刃向えない。

 教育の世界は,どこかの国の停滞ぶりと全く同じである。

 だめなものはだめと判断して,1年ですぐにでも見直すべきであろう。


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教師の質が低いことを前提とした全国学力調査反対論

 テストの順位でランク付けされるようになれば,

 教員は答えを教える,学力が低い子どもがテストを受けないようにしむける,

 学力の低い子どもに余計なプレッシャーを与えるようになる・・・・

 いずれも,教師の教育者としての質が低いことを前提とした批判である。

 そういう反対論は・・・・無理もないか・・・・。


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効率を重視すれば,それは「男女別学」に魅力はあるでしょう

 個人の能力を極限まで伸ばしたい,・・・・

 それだけが目標なら,「男女別学」の方が,効率的であるかもしれません。

 教師の側も,「男子を教育するのが得意(苦手)な教師」と,

 「女子を教育するのが得意(苦手)な教師」を分けた方が,

 総体として教育効果は高くなるかもしれない。

 しかし,その結果は,「功利主義」が陥る問題と同じです。

 「教育」の目標と,「部活動」の勝利を同じ次元で語るような人間たちは,

 おそらく「近道」の方を選ぶでしょう。


 中学受験で学校を選ぶとき,まずは

 男子校・女子校か共学かで迷うことが多いと思います。

 経営の問題で,共学が多くなっていることはご存じのとおりです。

 男子校や女子校が,共学校に対する自校の優位性を語るときは,「男女の違い」を強調することになるのは目に見えています。

 低俗な「偏差値が顔になっている」学校にいたっては,「脇目をふらずに勉強に集中できる」ことを男子校・女子校の特長であると主張しているかもしれません。

 そういう学校の「目標」は,たかがしれているわけです。

 ゴールがものすごく近いところに設定されている。

 逆に言えば,そういうあまりにも露骨な目標設定は,「ホンネ」の世界で生きている親たちには,これ以上の説得力がないというほどの威力を発する。

 私の勤務している学校にも,そういう親の子どもが入ってくるんですね。

 そういう子どものなかには,親とは全く違うスタンスで,自分の人生を切り拓く覚悟がもてるようになるのもいる。

 しかし,親と全く同じ感性のものもいる。

 こういう子どもは,気の毒ですが,全く伸びずに終わります。親子が共倒れになっていくというイメージです。

 最後は親はそれなりに理解できるようになることもありますが,子どもは手遅れです。

 (もちろん,このことも長い目で見れば,成長にとってのよいつまずきかもしれませんが)
 

 「そんなことを今やるのは無駄ではないか?」

 という疑問を平気で口にできる子どもは,残念なことに,教師からも同級生からもただの「点取りロボット」にしか見えなくなる。

 当たり前ですが,学校は,学力を高めること以外にも,その「学力」の根っこの部分をつくるためのさまざまな活動がある。こういう活動への意欲をもてない子どもは,すぐに「根腐れ」を起こし,学習にも身が入らないようになってきます。

 あの魔法学校が,男女別学だったりしたら,映画にはなりませんね。

 子どもたちは,真理への追究心が旺盛です。

 きっと,大人の哲学者よりも,ずっとずっと意欲的に「真理」を求めようとしています。

 逆に,「矛盾」にも気づいていく過程が,思春期というものでしょう。

 男女別学という「しくみ」には,決定的なものが欠けているのです。

 「不自然」かつ「恣意的」な環境で育った子どもたちに欠けているもので,

 それが欠けているがゆえに,

 その後の人生を生きるうえでとても気の毒に思えるのは,「失敗」体験です。

 教師の場合も,「失敗」体験を積み重ねて,学んでいくわけですが,

 「失敗」できるチャンスがない環境にいたのでは,力をつけることもできません。

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『半沢直樹』が『半沢直子』だったら?

 「道徳」という時間は,男尊女卑を絵に描いたような時代の支柱となっていた「儒教」とのつながりが深いこともあって嫌悪されることがあるように,

 何かの価値観を教える,といったとき,どうしても顔を出してしまうのが,

 「社会全体の風潮」や「個人の趣向」です。

 TVドラマ『半沢直樹』の印象も,さまざまなかたちで語られていますが,

 「半沢直樹の妻」について,「理想の妻」「理想の女性」という見方がされることについては,

 女性の立場ならどのような感じ方をされるのでしょう。

 
 私の場合は,男性中心社会である企業で,男性が奮闘し,女性がそれを陰で支える,という

 青鞜社が嘆いていた現状が100年たっても続いている,

 そんなイメージを強く感じます。

 もし,主役が女性だったら,このTVドラマは成立したのでしょうか。

 『半沢直樹』くらいの視聴率をとることができたでしょうか。

 女性が男性に土下座させる,・・・・こんな絵柄は,家庭内ではありふれていて,インパクトに欠けるかもしれませんが,少なくとも,『半沢直樹』は,フィクションとはいえ,銀行という企業の姿に違和感がないようなつくりになっていたのではないでしょうか。

 ある意味ではあり得ないことがドラマとして演じられており,一方では,本当の姿,

 いえ,男性社会にとって「理想とする姿」がそこに描かれていたのではないでしょうか。

 女性の側でも,かつての「母性保護論争」のように,価値観や政策への同意は一つにはまとまりません。

 現代でも,「論争」がおこるくらいのエネルギーを生み出せるような仕組みは維持しておく必要があると思われます。

 もちろんそれは抑圧することによってではなくて,さまざまな価値観があってよいということを教育する過程においてです。

 「個性の尊重」などと理想だけを述べていても,「どうやって尊重するのか」「どうやって個性を尊重する人に育てるのか」が語れなければ,教育などできません。

 小学校が「女性社会」であることが多いのに対して,「力がものをいう」という面がある中学校が「男性社会」であることはよく知られていることでしょう。

 管理職の数で男女を比較するだけでも,実際の教員の男女のバランスを比較するだけでもわかります。

 そういう「男性社会」の方が都合がよいと考える教師は,中学生に対しても,「男はこうだからいい」「女はこうだからだめだ」というステレオタイプのものの見方から抜けられず,「個性の尊重」など完全に視野の外にある人間が多くなります。

 力のある教師は,さらにそれを子どもにまで押し付けようとするし,力のない教師は,ただただ子どもに反発されるがままになる。

 いずれの場合も,問題の解決には結びついていません。

 ただ,こういう問題も,男性にとって都合のよい社会を維持していくのが目標なのであれば,そもそも「問題」ですらなかった,というよりも,合理的な指導だった,ということになってきます。

 さすがに「もっと女子らしくしろ!」なんていう表現をする教師はいなくなったでしょうが,心のなかで思っていることは,中学生くらいの敏感な子どもにはすぐに伝わってしまうのです。

 それこそ,「初対面」「第一印象」で,ばれてしまうのです。

 男子がなんだか指導しやすく,女子が指導しにくいという愚痴をこぼしている男性教師は,まずは自分の「道徳観」「教育観」を見直すべきなのです。

 
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それは古い男の偏った「思考スタイル」

 古い教育関係者は,まだまだ男女差別に鈍感です。

 ほんのわずかな,とても限られた経験のなかから,

 「女性の短所」をあげつらう。

>おおよそ、男は理屈っぽく、女は理屈を嫌うと聞いてきました。

>事実、私の体験では、荒れたクラスを受け持ったとき、論理的な話をすると男は納得するのですが、女はそうはいきません。

>話を聞いたあとで「だってえ」と言うのは女です。

 なぜクラスが「荒れる」のか,自分の胸に聞いてみる,ということをしないのが

 指導力不足教員の共通点です。

 「男は理屈っぽく,女は理屈を嫌う」というように,性別だけを人を区別する属性にして,

 ああだこうだいう思考スタイルほど,「教育」のめざすものと異なるものはありません。

 これも「人間の思考」です。「厄介なもの」をつくりだすのは,そういう思考しているその人間なのです。

 人間をたった二つのグループに分けて,Aはこう,Bはこう,という思考スタイルをとる人間は,コンピュータいじりには向いているかもしれませんが,実社会に出るとどんなトラブルを引き起こすかわかりません。

 せめて2次元の世界に導いてあげることが教育者としてのつとめです。 

 前の担任がもっていたころ,クラスは荒れていました。

 その原因をどう考えたらいいのか。

 男子は理屈で納得させることに成功しても,女子は感覚的に許してくれないということでした。

 当たり前ですが,見えていないのです。

 理屈で納得した女子もいれば,そうではない男子もいたはず。

 理屈では納得できなかったが,先生への「思いやり」から納得せざるを得なかった男子もいたはず。

 足りなかったものが何かは,聞かれる前からはっきりしてきます。
 
 教育的指導には,「理屈」だけではない「思いやり」「やさしさ」「寛容さ」が必要です。

 情意面で課題のあった子どもは,大人になっても

 「自分のどこが問題なのか」に気付きにくいという特徴があります。

 「悪いのは他人のせい」というのが生き方の基本になってしまっては気の毒です。

 こういう人間が教師の立場で教育現場に入ってしまうと,普通の学校で1の時間で終わって10の成果が出せるものが,10の時間がかかって成果が全くでない,ということになります。

 あまり気乗りはしませんが,教員採用の際には,

 「踏み絵」的な「思考スタイル」チェックが必要なのでしょう。

 こんな人間を二度と教育現場に出現させないように。


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あなたは個人攻撃専用の誹謗中傷ブログにコメントを寄せますか?

 I さんのブログを注視して,更新されるとすぐに中傷の記事を載せることを繰り返している人がいる。
 
 中傷しか書かれていないブログというのを私は初めて見た。信じられないことである。

 教育ブログからは追放されたが,まだFC2ブログでは更新が可能になっているようだ。

 こういうブログにコメントを書き込む人も,普通の感覚で言えば,「信じられない」ことである。

 AさんがBさんの悪口を言い続けているとする。

 そのAさんに,Cさんが呼ばれてもいないのに接近して,親しげに会話している。
 
 こういう状況のなかで,Bさんの立場になったらだれでも分かるだろうから,

 「その他の人」の立場で考えてみたとき,Cさんの「おかしさ」が理解できない人はいないだろう。

 このCさんは,Bさんが批判したDさんを「先生」と呼んであがめている。

 その度合いは異常なほどで,Dさんの記事が更新されるとすぐに「よいしょ」コメントが入る。

 ほとんどの時間をパソコンの前で過ごさないとわからないくらい,更新に敏感に反応している日もある。

 あるときは,Dさんのブログ上の質問に対する答えが,Aさんのブログのコメント欄に登場したりする。

 しかも,Dさんのブログ上では公開されていないのに,なぜかCさんはその内容を知っていた。

 ここまでくれば,中学生でも(もしかしたら,小学生でも)気づくことがある。

 そして,納得できてしまう。

 しかし,その内容を記事にしたときから,最低の中傷ブログはスタートしたのである。

 実は,Cさん= tsuguo-kodera さんというキャラクターは,自分を「ぼけ老人」などと表現しているが,この人は多くのブログに首をつっこんでいる。(IPアドレスで,ある人物と同一人物だとばれてしまう相手にはコメントしない。)

 自分では暇人と呼んでいるが,ネット依存度がかなり高い人物である。

 しかも,このCさんは,中傷に乗っかることはほとんどない。

 それなのに,中傷ブログには首をつっこんでくる。

 偽装表示がばれたレストランのおいしい料理の紹介をネットに書き込んでいるような人物である。

 あなたは個人攻撃をしているブログにアクセスして,平然とコメントを入れることができますか?


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「浅い思考」と「深い思考」の違い

 人が成功するか,失敗するかの違いは,どうして生まれるのか?

 その人のもつ「運命」か?

 まわりの人たちの「環境」「関係」か?

 あくまでもその人の「能力」か?

 たぶん,そのうちのこれしかない,ということではないだろう。

 「定石どおり」の攻め方ばかりをすると,相手もその「定石」を踏まえていれば

 すぐにばれてしまうから,

 どこかで「意表を突く」こともしなければならない。

 相手を混乱させることも,戦いでは「定石」となる。

 ここでは孫子の兵法にじっくりふれたいところだが,今日はやめておく。

 「定石」とは,こういうことだ,と読んで字のごとくにうけとる「浅い思考」をしているうちは,

 まだまだ「達人」の域にはほど遠いということである。

 「深い思考」とは何か?

 それは,まずは成功するか,失敗するかの違いはその人の「思考」のあり方が決めている,

 という認識を出発点にして, 「多くの人がよしとしていること」にも

 疑問を投げかけられるような態度が必要である。

 これは,特に教師にとって必要な資質・能力であると考えている。

 小学生が,ある独創的なアイデアを思いつき,それを教師が

 「そういうことは,これこれこういう理屈に基づいて言えば,間違いですよ」

 とたしなめてしまったとする。

 その子どもにとっての成長の芽は摘み取られてしまったかもしれない。

 しかし,「それは間違いですよ」というのをためらいもなく子どもに投げかけてしまうタイプの教師は少なくない。

 多くの子どもは,教師たちの無自覚によって,「浅い思考」・・・・特に,教師に気に入られるか,教師に認められるかどうかを基準にする・・・しかできなくなっていく。

 大人も,「浅い思考」の典型的な話しかしないから,子どもは「思考とはそういうものだ」と思い込むようになってしまう。

 教師の資質能力,態度,表現は,子どもの将来を大きく左右しかねないものである。

 私たち教師は,自分がいかに子どもの成長の芽を摘んでしまっているか,いつでもふり返って「思考」する癖をつけておかなければならない。

 世の中は,「定石」が通用しない社会にどんどん移行していく。

 先が長い子どもたちには,そういう社会を生き抜くための「定石ではない定石」を教えてあげることが大人のつとめである。


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思考は表現のためとは限らない

 思考には,「整理」を目的としたものがある。

 もし「整理」されたものが,正しいものかどうかを第三者が判断する必要にせまられたら,「表現」させなければならない。

 だから,「思考は表現のためのもの」と言えなくもないのかもしれないが,

 だれにでも,「言いたくないこと」はある。

 それは「思考」せずにすませられるものかというと,そうではない。

 むしろ,「考え抜く」という主体的な態度がそこで形成される。

 「思考」したことを何でもかんでも「表現」する,たとえばあの「誹謗中傷ブログ」を思い浮かべてほしい。

 書き手の「思考」も「感情」も手に取るようにわかるが,

 相手を傷つけるようなことは「表現」すべきではない。

 「行動」を「表現活動」と捉えれば,話は別だが,

 「態度」や「行動」というのは,赤ん坊ではないのだから,

 「感情」ではなく「思考」によってコントロールされるべきものである。

 何事も自分の都合のいいように解釈し,

 創造的思考と論理的思考の区別もできないような教員では,

 子どもが気の毒である。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より