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ツボにはまると全否定にまわる人たち

 なぜ「論理的」な人の「論理的」な話で組織を説得することができないのか?

 企業に限らず,どの集団でも,言葉の論理だけでは割り切れない思いがする問題というのが必ずあります。

 世の中,単純な決まり事を守っていれば,何でもうまくいくというものではありません。

 「複雑系」という言葉がいつから使われ出したか調べていないのですが,

 「大切な何か」が「論理」からは抜け落ちてしまっている,という「感覚」,それこそが,

 単純な論理に基づく「危うい決定」を避けるために人間がもっている重要なものなのです。

 しかし,「論理絶対主義」とでも呼べるような,「大切な何かが失われている感覚」を無視できる人間というのが,
 
 組織には必ずいます。

 こういう人間には,機械いじりだけさせておくのがベストなのですが,

 会議では当然,発言は許されますから,その「絶対主義」ぶりが露呈することになります。

 「校長の命令だから,出張する」・・・・それを拒否すれば,「職務命令を違反した」ことによって,

 処罰される可能性があります。

 しかし,「小学生の授業を自習にして,出張する」というのが,市民感覚として許されるのか?と言えば,

 保護者なら「絶対にそんな出張は許せない。もし子どもに何かあったら,だれが責任をとるのか?」という思いになるのです。

 なぜ授業がある日に,出張しなければならないのか?

 自分の「職務専念義務」が「免除」されることによって「出張」が可能になるわけなのですが,

 「免除」される正当な理由が,「教育委員会からの依頼」だけで,本当にいいのか?

 やはり,おかしいのではないか?

 これが,「教育」を仕事とする,

 「子ども」を相手にして仕事をしている,

 教師としてのまっとうな「感覚」なのです。

 悉皆研修の初任者研修のように,はじめからわかっている出張でも,

 「現場を離れることのやりきれなさ」を抱いていた人は多いと思います。

 しかし,「出張命令」が下るのだから,仕方がない。

 でも・・・・。

 そうです。生徒間のトラブルや,心を痛めている生徒のためを思えば,

 本当に,その教師が学校に必要な場面であっても,「命令」である以上,出張しなければならない。

 ・・・・しかし・・・・という感覚が,実は命令を出している校長自身にもあるわけです。

 子どもからみれば,

 「あいつは理屈だけで感情がない」

 という目で見られることになり,「大人の便利な言い訳」として「論理」を忌避するようになるかもしれません。

 「きまりはきまりだから」では,

 子どもの教育なんてできません。

 そもそも「論理絶対主義」の人間には,「道徳の授業」なんて不可能でしょう。

 「論理」では当たり前でも,「何か違うかも」という感覚を呼び起こす題材が多く,だからこそ

 「教育」の対象になるのです。

 「命令なんだから従え」では,道徳もくそもないわけです。

 


 「1+1=2」というレベルと,

 「出張命令に従う」というレベルは,

 違うものであるという認識がない教師は,平気で子どもを見捨てられる人間なのです。

 学力が他の県よりも低い静岡県の「習慣」がどうなっているか知りませんが,

 子どもが見捨てられていないことを祈るばかりです。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より