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教職への不適応の原因は子ども?大人?

 せっかく教員採用試験に合格したのに,現場に出て仕事がうまくいかず,

 悩んだ末に辞めていく人がいます。

 原因は様々ですが,

 周囲が最も納得しやすいのが,

 「子どもに相手にされない」

 「子どもが言うことをきかない」

 ために,自信や自尊心を失って,働く意欲をなくしてしまった場合です。

 コメントをいただいている「ちゃりこ父」さんは,

>狭い空間で年端の行かない子供相手だからって隠蔽ばかりしてきた

 とおっしゃっていますが,

 小学校1年生でも,教師のおかしいこと,教師への不満なことは親に話してくれますから,

 学校でおこっていることを隠蔽するのは現実的にはなかなか難しいことです。

 教師がたとえ箝口令をしいても,漏れるところからは漏れていきます。

 「年端の行かない子供」のなかには,

 「年端の行かない教師」よりもよっぽど自己主張が強く,

 とにかく我が道を行くという子が増えています。

 もちろん,「年端の行かない子供」という表現がぴったりの子供も,増えています。

 私の造語ですが,「三極端」です。

 ベクトルが3方向に向かっている。

 格差の拡大プラス,全く別次元に向けて飛んでいく子ども。

 この別次元の子どものなかには,学力が高い子どももいますから,「四極端」かもしれません。

 話を戻します。

 指導力がない教師は,授業を参観すれば一目瞭然ですから,

 「やめたい」という言葉に「しかたがないな」と思ってしまうのが普通です。

 しかし,もっと根本的な職場環境の問題が,

 若い教師の心をむしばんでいることを忘れてはいけません。

 大量採用時代の教師が抜けて,小学校には若い教師が急に増え始めています。

 若い教師が自分以外にはいないという学校だけでなく,若い教師が何人かいる場合でも,

 もともと「人付き合い」が苦手なタイプの人は,
 
 学校のなかで孤立していきます。

 特に,部活動をしたことがない,大学を卒業したばかりの人というのは,

 子どもに対してどのように接するべきかということは知っていても,

 大人に対してどういう態度で接していいのかわからない,という人が多いようです。

 クラスのことで悩んでいても,だれにも相談できず,だれからもアドバイスをもらえず,

 ただ一人で苦しんで,泥沼にはまっていく。

 それをフォローできる人,フォローすべき人が,

 「一人もいない」状況になりやすいのは,小学校という職場です。

 ある特定の学級の成績が悪くなろうが,自分の学級のことでなければ,

 無関心でいられるのが小学校というところです。

 他のクラスの問題に首をつっこもうとしただけで,

 まるで領空侵犯でもしたかのように猛烈な反発を受ける可能性がある職場は,

 学校ではなく学級が閉鎖空間なので,教師は本当に孤立しやすいのです。

 こういう閉鎖空間に「独裁者」が君臨していた場合,被害を受けるのは子どもたちです。

 もちろん,他学級の問題に無関心でいられない「正常」でかつ「余裕」のある人がいる学校では,

 若い教師はどんどん鍛えられていく環境でもあります。

 管理職がまともなら,どうにかなるのですが。

 しかし,苦情が来ない場合,管理職が「悩み」に全く気付かないというケースもあり得ます。

 一方,中学校の場合は,だれだれ先生の教え方が下手だとか,

 授業が崩壊しているとかは,担任にしてみれば自分のクラスの子どもの問題となり,

 苦情は担任あてにきますから,問題のある教師が「放置される」ことはないですね。

 担任の会議で必ず話題にのぼります。

 小学校の厳しいところは,問題のある教師自身に苦情が直接寄せられてしまうことです。

 管理職に寄せられる最もわかりやすい要求は,「担任をかえろ」です。

 中学校では「教科担任をかえろ」と言われても,それができない場合がありますが,

 小学校には「もっといい先生がいる」ことがわかってしまっているため,要求したい気持ちはよくわかります。

 教師を育てる立場からは,

 「もっと長い目で見てほしい」

 子どもを育てている親の立場からは,

 「子どもにとって最も大切な時期は今しかないのだから」

 ・・・・教師というのは,だれの目から見ても「優れている」と評価されることが要求されている仕事なんですね・・・。

 教師になるまでのハードルはもちろん高いのですが,

 教師として認められるまでのハードルは,実はもっと高いのです。

 あまり行政時代のことは書けませんが,

 やはり管理職が匙を投げてしまうような人をその職場で続けさせることは,

 あらゆる人にとってプラスにはなりません。

 そういう意味では,管理職やまわりの教師たちの「教育的配慮」に守られて,

 退職まで「勤め上げてしまった」教師もたくさんいます。

 「不適応」なのに「不適応」の自覚症状がない。これこそが教育現場の悲劇です。

 子どもにとっての。

 今は,保護者も経営に参画していく時代です。

 参加ではなく,参画です。

 そんな甘い状況がなくなることは,子どもたちにとっては歓迎すべきことです。

 しかし,「目の前の先生がこきおろされている光景」は,見させることも,

 想像させることも得策ではありません。

 「お父さんのようになってもいいの!」

 と子どもを叱る母親と同じです。

 静かに去っていける環境づくりも欠かせません。

 去るべき人が,去り,

 去るべきでない人が,残れる仕組み。

 人を見る目のある人を,選ばなければならない。

 人を見る目のある人を,どう見つけるか。

 人物評価の確度の高さの検証を行政は進めていくべきですね。

 これは,教員採用の段階に,さかのぼります。
 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より