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知事や市町村長による教育委員会批判は大いに進めるべき

 静岡県の川勝知事の行動を「暴走」と解釈する人が多いのは,仕方がないと思う。

 校長を集めた場で,「学力向上モデル校」の順位を公表してしまったのだ。 

 文科省は,「現行のルールからは逸脱している」という理由で,当然,非難をする。

 行政としては当たり前の行動である。

 しかし,これからそのルールは見直されることになっている。

 川勝知事のような情報の出し方は,当然である,という声が広まれば,当然その「次のルール」にも影響を与えるだろう。

 神奈川県の黒岩知事も,公表は当然だと表明している。

 これらの知事には,県民が抱く子どもの将来への不安感が,直接届いているのだろう。

 これが4年任期の「県民の代表」の言葉の重みである。

 「県の学力向上モデル校の結果が,こんなにひどいものだった」

 ことを知った県民の反応が知りたい。

 これが隠されたままの状態と,

 情報が正しく公表された状態を比べて,

 どちらの方が望ましかったのか,考えてみてほしい。

 知りたい情報,知らされるべき情報が知らされない国になど住みたくはない。

 小学校の教員たちの,「学力向上モデル校なんて,受けたくない。校長の点数稼ぎのためなのに」

 なんていう認識は,これで一掃された。

 成果を出さない責任は,校長がとればいいことがわかったのだ。

 日本の歴史上,初めてではないか。

 学力向上モデル校の「結果責任」「成果」が問われたのは。

 日本の教育界で長く続く悪習・・・形だけ整えて終わり,という時代にサヨナラできるチャンスが訪れたのだ。

 教育委員会と知事の関係についてはここで書くまでもないことだが,

 「黙っていられない知事」を県民は支持するだろう。

 元校長が幅を利かせているような教育委員会なんて御免だ,というのは市民感覚にマッチする。

 ネット上の意見をながめてみると,

 「学力調査の結果」で「教育の質」「学校経営の質」をあれこれ言うのは筋違いだ,

 という声が多いが,

 自分の子どもがただでさえ高くはない全国の「平均点」を大きく下回っていることを知って,残念に思わない親はいないだろう。

 基礎の基礎ができていないまま中学校に進学しても,そこで苦労するのは子どもなのである。

 小学生相手にしても,家庭で学校の勉強を教えられる保護者というのはそれほど多くはないであろう。

 山のような宿題を課せられて,何とか終えて学校に行っても,全く成果を出せない子どもを抱える保護者の気持ちはわかるだろうか。

 それが「学力向上モデル校」だったとしたら,どうだろう。

 「学校はこんなに手をつくしてあげたのですが,子どもの能力が及ばす,こんな結果に終わりました」

 といいたいのか。

 多くみかける「学力調査の結果でどうこう言うな」という意見をお持ちの方については,

 一度,その実際の調査問題をご自分で解いてみていただきたい。

 そもそも全国の「平均点」がとても低いことに愕然とされるはずである。

 その全国の低い「平均点」を自分の県が下回っている,と知らされれば,当然不安になるだろう。

 そして,当たり前のように,「自分の子どもの学校は大丈夫なのか」と思うだろう。

 学校ごとの公表は,県別,市町村別の結果を公表すれば,避けられないものになるのは当然である。

 危機感を抱いていない保護者の方のなかには,「健康の方が大事だから」と思っていらっしゃる方もいるだろう。

 しかし,健康と学力とは,別の問題である。

 実は,学力調査の平均点の問題ばかりがクローズアップされているが,

 もっと問題なのは,それと「なにか」が相関関係にある,という分析である。

 東京都では,そういう相関に目を向けて腰を上げたようである。

 そのうち,「学力調査の結果が悪い学校の特色は,・・・・・」という分析も登場するだろう。

 それを最もおそれているのは,市町村教育委員会である。

 繰り返し述べるが,公立の小中学校の未来は,学校統廃合がつくっていくと私は確信している。

 そのために行動を起こすのが,いかに大変なことかを市町村教育委員会は知っている。

 こういう施策を動かすうえで,学力調査を実施していることの意義は大きい。

 「一番公表してほしくない人」の都合に合わせることが,どれだけマイナスかを気づいている知事たちに学ぶことは多い。
 
 
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コメント

現場でのことを隠蔽するための、二重行政で責任の所在を曖昧にするための、教育委員会制度は廃止するべきでしょうね。

学校被害者に対する、教育委員会をはじめとする教育関係者たちによる「粘着質のいじめ」って事例としてもわたしのところにだけでもたくさんあがってきていて、枚挙にいとまがないんで。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
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  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より