ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 粘着質のいじめの見本 | トップページ | 保護者からの「学力調査結果」の見方 »

知事や市町村長による教育委員会批判は大いに進めるべき

 静岡県の川勝知事の行動を「暴走」と解釈する人が多いのは,仕方がないと思う。

 校長を集めた場で,「学力向上モデル校」の順位を公表してしまったのだ。 

 文科省は,「現行のルールからは逸脱している」という理由で,当然,非難をする。

 行政としては当たり前の行動である。

 しかし,これからそのルールは見直されることになっている。

 川勝知事のような情報の出し方は,当然である,という声が広まれば,当然その「次のルール」にも影響を与えるだろう。

 神奈川県の黒岩知事も,公表は当然だと表明している。

 これらの知事には,県民が抱く子どもの将来への不安感が,直接届いているのだろう。

 これが4年任期の「県民の代表」の言葉の重みである。

 「県の学力向上モデル校の結果が,こんなにひどいものだった」

 ことを知った県民の反応が知りたい。

 これが隠されたままの状態と,

 情報が正しく公表された状態を比べて,

 どちらの方が望ましかったのか,考えてみてほしい。

 知りたい情報,知らされるべき情報が知らされない国になど住みたくはない。

 小学校の教員たちの,「学力向上モデル校なんて,受けたくない。校長の点数稼ぎのためなのに」

 なんていう認識は,これで一掃された。

 成果を出さない責任は,校長がとればいいことがわかったのだ。

 日本の歴史上,初めてではないか。

 学力向上モデル校の「結果責任」「成果」が問われたのは。

 日本の教育界で長く続く悪習・・・形だけ整えて終わり,という時代にサヨナラできるチャンスが訪れたのだ。

 教育委員会と知事の関係についてはここで書くまでもないことだが,

 「黙っていられない知事」を県民は支持するだろう。

 元校長が幅を利かせているような教育委員会なんて御免だ,というのは市民感覚にマッチする。

 ネット上の意見をながめてみると,

 「学力調査の結果」で「教育の質」「学校経営の質」をあれこれ言うのは筋違いだ,

 という声が多いが,

 自分の子どもがただでさえ高くはない全国の「平均点」を大きく下回っていることを知って,残念に思わない親はいないだろう。

 基礎の基礎ができていないまま中学校に進学しても,そこで苦労するのは子どもなのである。

 小学生相手にしても,家庭で学校の勉強を教えられる保護者というのはそれほど多くはないであろう。

 山のような宿題を課せられて,何とか終えて学校に行っても,全く成果を出せない子どもを抱える保護者の気持ちはわかるだろうか。

 それが「学力向上モデル校」だったとしたら,どうだろう。

 「学校はこんなに手をつくしてあげたのですが,子どもの能力が及ばす,こんな結果に終わりました」

 といいたいのか。

 多くみかける「学力調査の結果でどうこう言うな」という意見をお持ちの方については,

 一度,その実際の調査問題をご自分で解いてみていただきたい。

 そもそも全国の「平均点」がとても低いことに愕然とされるはずである。

 その全国の低い「平均点」を自分の県が下回っている,と知らされれば,当然不安になるだろう。

 そして,当たり前のように,「自分の子どもの学校は大丈夫なのか」と思うだろう。

 学校ごとの公表は,県別,市町村別の結果を公表すれば,避けられないものになるのは当然である。

 危機感を抱いていない保護者の方のなかには,「健康の方が大事だから」と思っていらっしゃる方もいるだろう。

 しかし,健康と学力とは,別の問題である。

 実は,学力調査の平均点の問題ばかりがクローズアップされているが,

 もっと問題なのは,それと「なにか」が相関関係にある,という分析である。

 東京都では,そういう相関に目を向けて腰を上げたようである。

 そのうち,「学力調査の結果が悪い学校の特色は,・・・・・」という分析も登場するだろう。

 それを最もおそれているのは,市町村教育委員会である。

 繰り返し述べるが,公立の小中学校の未来は,学校統廃合がつくっていくと私は確信している。

 そのために行動を起こすのが,いかに大変なことかを市町村教育委員会は知っている。

 こういう施策を動かすうえで,学力調査を実施していることの意義は大きい。

 「一番公表してほしくない人」の都合に合わせることが,どれだけマイナスかを気づいている知事たちに学ぶことは多い。
 
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

« 粘着質のいじめの見本 | トップページ | 保護者からの「学力調査結果」の見方 »

教育」カテゴリの記事

ニュースより」カテゴリの記事

学習指導要領」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

現場でのことを隠蔽するための、二重行政で責任の所在を曖昧にするための、教育委員会制度は廃止するべきでしょうね。

学校被害者に対する、教育委員会をはじめとする教育関係者たちによる「粘着質のいじめ」って事例としてもわたしのところにだけでもたくさんあがってきていて、枚挙にいとまがないんで。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 知事や市町村長による教育委員会批判は大いに進めるべき:

« 粘着質のいじめの見本 | トップページ | 保護者からの「学力調査結果」の見方 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より