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小学生にとってどちらが「可哀想」なことか?

 京都新聞が昨日配信したニュースによれば,滋賀県高島市が小学校の統廃合を行う方針案をまとめたということである。

 小学生にとって,通う学校が地域にない,というのは気の毒だと思うが,では,

 児童数がたくさんいる遠い小学校と,

 全校で児童が6人(学級は2つ)しかいない小学校では,

 どちらが「可哀想」な状態なのだろうか?

 私は,国立や私立の小学校に電車で通っている子どもたちを「可哀想」だと思っている。

 しかし,全校児童数が6人の小学生が「可哀想」と思うのとは全く別次元の話である。

 極小規模の小学校を見てきた経験からすると,

 自分以外に児童がいないか,いても1人か2人という状態で6年間学んだ子どもは,ほとんど個人教授なのだから,文科省やいろんな教育関係者の考えにしたがっていえば,学力をつけるチャンスには恵まれていると思われるが,多くの人々が経験している,運動会や学芸会などの学校行事とか,クラスでの話し合いとか,けんかとか,そういうものにふれずに大人になる子どもには,憐れみを感じることだろう。

 極端な話だが,町や村の境界をなくして,大きな学校をつくる,というのも今後は選択肢に入れてもよいだろう。

 学校規模が極端に小さいところでは,教員も成長しにくい。

 子どもも成長しにくい。

 親はそんなことを重々承知しながら,地域の人たちの大きな期待を背中から受けている。

 そういうプレッシャーを感じている親から,地域の「宝物」である子どもは,

 さらに大きな見えないプレッシャーを感じているはずである。

 何しろ,地域のおじいさん,おばあさんにとって,少ない児童たちが「芸」を披露する学芸会などは,楽しみでしかたがない。

 「たくさんの人に見守られて幸せ」というのは,大人の側からの一方的な感情かもしれない,と立ち止まって考えるゆとりがほしい。

 統廃合は,どんどん進めるべきである。

 極小規模からある程度の規模の学校に転校すると,不適応を起こす子どももでてくる。

 そういう子どもの教育には,学校は非常に多くの労力を必要とする。

 そういう労力は,学校の時代にしかしてもらえない,ということを親は覚悟しておかなければならない。

 社会の側は,「極小規模の小学校」に適応できるが,

 小学生の側は,「その後の厳しい人生」に適応する能力を育まれないまま,大人になってしまう可能性があることを決して忘れてはならない。


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コメント

小学校では,子どもが直接ふれあえる教師がごくごく限られているのが気の毒ですね。

今の学校現場で押し付けられているのは、適応じゃなくて「迎合」にすぎないようで・・・

隠蔽や虚言、捏造なんかやっている企業、ホテルなんかを見ていると、幼いころから卑劣な大人たちを学校で見させられてきたからかなあ、と思ってしまう。
反面教師にするしかないけどね。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「歴史の活力」より
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  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より