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部活指導でしか役に立たない教師にならないために

 中学校という職場は,部活動の指導があるために,

 高校で言えば昼間と夜間の定時制の仕事を両方やっているようなところがある。

 もちろん,私が勤めていた中学校のような,夜の9時まで部活動がやれる学校などもうほとんどないだろうが,部活動が終わってから次の日の授業の準備をすると,深夜になることも少なくない。

 テストの準備や採点,成績をつける時期,行事の前,研究発表会の前なども遅くなりがちである。

 土日の部活に加えてさらに私的・公的な研究会に属していたら,本当に

 「どっぷりと」教育に浸かることができる。
 
 私も芯まで浸かっていて,よく結婚できたものだと思う。

 これは私の母親と家内の母親に感謝しなければならない。

 本人同士が会う前に,両者で意気投合したのが結婚の最大のきっかけである。

 結婚してすぐに家内が気づいたことは,

 私が土日に家にいないということである。

 もちろん一日中ということではないが,

 「一日,お出かけする」という予定が立てられない。

 「部活未亡人」の話は以前も書いたが,

 これは女性の教師にとっても似たようなところがあるかもしれない。

 さて,本題に戻ると,

 部活動の指導ができない若い教師が

 同僚や生徒たちから白い目で見られるのは,
 
 ほとんどの教師希望の大学生も同じような経験をしているからわかると思うが,

 逆に,部活動の指導しかできないというのは,

 同僚にとって半分は(部活動の指導をしてくれることは)ありがたいが,

 その教師がやるべき仕事の多くを肩代わりしなければならない部分については,

 何とも耐えがたいところがある。

 残念ながら,大会で上位に入るような部の顧問は,それだけで十二分な「居場所」を確保できるのが中学校というところである。

 もし,生徒にもめぐまれたそんな地位にはつけないと感じている人は,
 
 初任者か二年目くらいの時期,まず,学年主任くらいの目から見た「役に立つ教師」「使える教師」とは何かを見定めてほしい。

 「足を引っ張るレベル」にはならないですんだ場合を考えてみる。

 (これは「役に立たない」どころではない話であるから)

(1) 問題行動を起こした男子への指導ができるか

(2) 問題行動を起こした女子への指導ができるか

(3) 200人規模の集団を静かにさせ,同じ指示を徹底させることができるか

(4) 部活動の指導ができるか

(5) 学年集会の司会・進行ができるか

(6) 学年行事の企画・運営ができるか

(7) 学年の委員の指導ができるか

(8) 保護者会で気の利いた話ができるか

 最低限,クリアしなければならないのが上の8つである。

 これらがだめでも,

(9) 成績処理ができるか,HPの更新ができる

 場合は,ただこれだけで,「役に立つ」教師の仲間入りができる。

 ただし,これは「事務職員」と同じレベルである。

 重宝がられるのでそれだけで気分がよくなる人がいるかもしれないが,

 (9)もできて(1)~(8)もできる人が登場したときの悲劇は想像するのもつらい。

 
 「学習指導の話はどこに行ったのですか」

 と質問されそうだが,中学校という職場には,

 学習指導の技能を教員同士が高め合うという機能はない。

 (なかった・・・というべきか。教育委員会としては,努力はしている)

 だから,授業が崩壊しない程度にできていれば

 (簡単に言えば,授業中に生徒が教室から抜け出なければ)

 特に問題はない。

 高校になると,「生徒の模擬試験の結果が悪い」という

 教師の学習指導の能力の低さの証明となる(もちろんなるわけないのだが)

 データを突き付けられてしまうから,

 模擬試験対策のような授業をする必要が出てくるかもしれないが,

 業者テストが廃止になってからの中学校では,

 指導力不足の教師にとっては「天国」「楽園」となってしまった。

 (免許更新で免職にする野望は潰えてしまっている)

 
 学習指導では,最低限,「自分ができる」ことと「生徒ができるようになる」ことは

 別のことだという認識をもっていることが大事である。

 ・・・なぜそんな当たり前のことを? と疑問に思われるかもしれないが,

 その違いがわからない教師が,おそらく「大学」>「高校」>「中学」>「小学」という量で

 存在する。

 授業で「独り言だけ話して帰っていく」(これは,ただしゃべっているだけ,という意味)教師の量は,上の式が正しいはずである。

 学習指導の力を測る簡単な方法は,

 生徒がやることをうけて,

 教師がどういう反応を示すことができるかを見ればよい。

 中には,何の反応も示せない人がいる。

 こういう人は,家で本を読む方が向いているわけだから,

 一日も早く転職してほしい。
 
 自分に対する批判的な反応に対しては非常に敏感なのに,

 疑問を感じて困っているような人への反応が全くできない人がいる。

 こういう人を,面接で見破る方法を教えてあげたい。

 話がまた逸れてしまった。

 「どういう人が,求められているのか」

 「どういう行動が,求められているのか」

 これを,職場,授業の現場で,見定められる力をまず養いたいものである。

 それには,何かをまずは「やってみる」ことが大事で,

 「相手が喜ぶかどうか」を判断基準にしてみるのもいい。

 なお,子ども(中学生や小学生)に限らず,日本では「お世辞文化」がある。

 「本当に喜んでいるかどうか」は,「言葉」だけを頼りに判断してはならない。

 
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コメント

教師全般に対して言うとすれば

「年端のいかない子供の前と、情報を遮断し騙すことのできる世間の皆様の前でだけ、まともな人間のふりをする生き物にならないために」

ってことが必要じゃないかな。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より