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朝日新聞も覚悟した学力調査の結果公表

 本日の朝日新聞社説「学力調査―公開する責任と覚悟は」では,

 とうとう「公開はやむをえない」という判断を,新聞社として確定したことを意味するように読める。

 このブログで以前に書いたことと同様に,

>各地の首長や保護者から「税金を使う以上、国民には結果を知る権利がある」などの主張が相次いでいるため
 
 と説明されている。

 その通りであろう。

 「情報を隠す」ことを奨励するようなら,新聞などは必要ないのだ。

 その部分より後に主張されていることは,情報公開を希望するだれにとっても,

 教育にたずさわっていない人たちにとっても,当たり前すぎることである。

 「点数に振り回される」とあるが,そもそも学校は,低学力に限らず,さまざまな問題を抱える子どもたちに振り回されている。

 どうしたら底上げがはかれるか,どうしたら「よりよい教育」が実現できるか,多くの教師は悩み抜いている。

 学校によっては,保護者から逆に苦情が出るほどの量の宿題を課し,保護者にその宿題のチェックも課している。

 「点数の底上げ」のためにこうしたかたちで保護者が振り回されるのなら,それこそ願ったりかなったりだという人たちもいよう。

 教育なのだから,簡単なことではないのだ。

 あきらめれば,すむことではある。

 数字なんかいっさい気にしないで,好きなことだけ教えることも不可能ではない。

 しかし,それにNOがつきつけられる数少ない手段のひとつが「結果公表」である。

 「最低限の学力は保障してほしい。それは,子どもが生きていくために最低限,必要なことだからだ」

 という主張に「NO」とは言えないのが教師である。

 社説の最後は,当事者意識に欠ける,無責任な大人の一面が顔をのぞかせている。

>学力には、貧困や地域の教育力など複雑な要素がからむ。安易な公表は現場を荒廃させ、問題解決を遅らせる。その重い自覚がなければ、公表する資格はない。

 「重い自覚」とは,だれがどのようにもつべきものなのか。

 低学力を,貧困や地域の教育力のなさのせいにしてきた学校はないのか。

 「現場の荒廃」が,どのようにおこるか,これを書いている人間は知っているのか?

 記事の途中にある,

>テストの点は教育の成果の一部でしかない。そう頭ではわかっていても、数字を突きつけられると弱いのが人間である。

 「数字に弱い人間」が,変化の激しい社会を生き抜いていけると思っているのか?

>学校は、子どもが社会を生き抜く力をつける場所だ。

 その通りである。

 「数字の公表」くらいで「荒廃」するような学校は,一刻も早くまもとな学校に吸収されるべきである。

 各学校の「教育課程」というのをご存じだろうか。

 今,平成26年度の教育課程を編成中である。

 その内容を厳しい目でチェックできる保護者の体制を整えていきたい。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より