ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「はてな?」の印象が強い静岡県教委の諸政策 | トップページ | 川勝平太知事の悲痛な叫びでよくわかった静岡県教委の問題点 »

市町村教委は,常に「板挟み」の苦しみを背負う存在である

 それは,宿命である。

 文科省がアンケートをとった結果を見るまでもない。

 市町村教委は,学力調査の結果を発表したがらない。

 学校も,発表したがらない。

 苦情は学校ばかりでなく,市町村教委に寄せられるからである。

 校長は,優秀な教員を選ぶことができない。

 市町村教委が決めた教員のめんどうをみるのである。

 教員のなかには,そもそも文科省や都道府県教委,気の毒だが市町村教委を目の敵にしている人がいる。

 こういう人のめんどうをみているのが,校長や市町村教委である。

 PTAをやっていなくても,保護者のネットワークがあればそういう教員の評判はすぐに耳に入ってくる。

 もちろん,独自の教育や研究会で学んだことで成果を出している人もいるだろう。

 しかし,「授業が上手ではない先生」という親の評判は,小学校では学年をまたがってすぐに広まる。

 小学校における学級担任の仕組みはもう,もたないかもしれない。

 自信のない教師ばかりの学校では,だれも小学校6年生の担任をもちたがらなくなってしまうだろう。

 学力調査の結果と,日頃から評判に課題のある教師というのは,簡単に結びついてしまう。

 それでは「学校がもたない」と本気で危惧している管理職,教育委員会の人たちは少なくないだろう。

 管理職が校内で最も優秀な教師を6年生の担任にし続けるとしても,それは

 「何とかかたちにするため」の応急措置であって,

 5年生までに積み重ねられた負債は,なかなか返済されない。

 6年生で厳しければ,中1ではもっと厳しい。中3まで,今度は子どもももたない,というくらいの問題を抱えている場合もある。

 「最低限の学力の維持」は,小学校にとって最も重要な課題であり,それが本当の課題として社会に認知されるためには,学校ごとの調査結果公表が欠かせない。

 「もたない」ことがより鮮明になることが,結果の公表がもつ大きな「役割」の一つである。

 何度も書いているが,最終的には,市町村教委は学校の統廃合を加速させる結果になるだろう。

 日本の教育のレベルを維持していくためには,絶対に欠かせない政策である。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

« 「はてな?」の印象が強い静岡県教委の諸政策 | トップページ | 川勝平太知事の悲痛な叫びでよくわかった静岡県教委の問題点 »

教育」カテゴリの記事

ニュースより」カテゴリの記事

学校選択制」カテゴリの記事

学習指導要領」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

学校評価」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

小中連携」カテゴリの記事

コメント

任免権は都道府県教委にあり、服務監督権は区市町村教委にある。だから現場でひどいことがあっても、報告がなされない。そして生まれた「いじめ自殺ゼロ年」

ひどい話だよ。
いじめ殺された子供の死因が「その他」なんて記載されていたりする。

制度のせいにしてかばっちゃだめだよ。

卑劣な個人の集合体が卑劣な組織だ。
そして、卑劣な組織は卑劣な個人を再生産する。それも大量に。


もし、制度のせいにする教育関係者がいたらこの言葉をどうぞ。

「自分の感受性くらい自分で守れ、ばかものよ」by茨木のり子

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 市町村教委は,常に「板挟み」の苦しみを背負う存在である:

« 「はてな?」の印象が強い静岡県教委の諸政策 | トップページ | 川勝平太知事の悲痛な叫びでよくわかった静岡県教委の問題点 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より