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「はてな?」の印象が強い静岡県教委の諸政策

 教員として優秀な人材が,指導主事として事務局にいる。

 だから,これを現場に戻す。

 素人の考え方としては,ごくごく当然のことだと思われる。

 現場に戻すことで,本当に教員として優秀な人材だったかどうかがわかる,というのは別の話。

 この政策は,あまりに対症療法的・応急処置的で,気の毒だが未来の明るい展望は見えてこない。

 そもそも「指導主事」が本来の仕事をしていなかったことがばれてしまう政策である。

 「本来の仕事」とは言うまでもない。

 現場に戻った指導主事が,地域ごとの研修会を主導して,それぞれの地域の指導力向上に役立つ仕組みがつくれるのなら一定の効果は期待できるだろうが,

 学校現場に戻ると,優秀な教員というのはその学校のことで手いっぱいになるのがふつうである。

 自分の学校の子どもの指導をおろそかにして,平気で出張するのを許す傾向にある教育委員会かどうかは,学力調査の結果の良しあしとおおいに相関があるだろうと私はにらんでいる。

 学校の教師は,「学校」の教師である。

 これを別の用途でも使おうと考えて指導主事を現場に戻そうとしているのであれば,やめるべきだというのが私の意見である。

 もう一つ,静岡新聞のNEWSで紹介されているのは,

 管理職の選考にかかわることで,校長の推薦がなくてもよい仕組みをつくる,というもの。

 私にはこういう政策は論外だと思われる。

 組織の長に認められない人材が,組織の長になる仕組みというのは,たとえば別の職業に変わるというならわかるが,同じ公立の学校の管理職になるというのはいかがなものか。

 いい人材をきちんと推薦しない校長への不信感があまりに強いのか,

 全く新しい,教育委員会の言うことだけをきく管理職集団をつくろうとしているのか,

 いろいろと勘繰りたくなってくる。

 静岡県教委の動きそのものが,静岡県の学力調査の残念な結果と重なって見えてくる。

 何か他の自治体と,決定的に違うものはないのか?

 私は,以前に,管理職人事を「予想する」記事が新聞紙面で紹介される「異常さ」を紹介した。

 あまりにも異なる「習慣」は,それだけではないのかもしれない。

*********

 静岡県HPで川勝知事の「悲痛な叫び」を読んだ。

 静岡県教委の体質は,私なりの感覚で表現すれば江戸時代風のものである。

  
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第三巻より
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    「楽毅」第二巻より