ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »

2013年10月

教育委員会にいたらできなかったこと

 教育委員会の指導主事をやめてもうすぐ10年がたとうとしていますが,

 そこにいたらできなかったことに,今,たくさん取り組めています。

 授業をする,行事の指導をする,生徒会の指導をする,部活動の指導をする,研究会に出る,本の原稿を書く,PTAの行事に参加する,などなど。

 このブログを書くこともそうですが,ブログに限らず,堂々と

 文科省の考え方に異論を述べることができるのが,

 何より「教育にかかわっている」という実感がもてます。

 「教員の数を減らす」という財務省の要求について,

 一般の方の意見では,「減らすことには反対」「増やすべき」

 というものが多いようです。

 「教員の数」だけを問題にするのではなく,
 
 「学校の数」,「学校の規模」,「学級の規模」などとセットにして考えるべきことなのですが,

 やはり複雑な調査はしにくいですから,

 「教員は多い方がいい」という感覚が優位になってしまうようです。

 「公務員の数は減らした方がいい」が,

 「教員の数は増やした方がいい」というのは矛盾しているわけですが,

 「学校の先生の仕事はたいへん」という理解が広まっているのだとしたら,教育界にとっては決してマイナスの認識ではないと思われます。

 では,本当に

 「教員の数を増やして大丈夫なのか?」

 ・・・・財政的な問題はさておき,やはりただでさえ問題となっている教員の資質能力の水準を維持できるのか,ということが大問題になるはずです。

 公務員としての教員は,教育公務員のまま雇い続けることが難しい人というのが必ず現れます。

 そういう人のために,「公務員」色をもっとはっきり出して,いつでも学校現場から離れた行政の仕事ができるように,教師1年目から研修を課しておいた方がよいと思われます。

 たった1日,参観したり,教育活動に参加するだけでわかると思いますが,

 「並大抵の仕事ではない」のが教育です。

 いくら試験や面接で好成績・好印象を残しても,

 実際の子どもの教育に責任を持たせるとすぐに崩壊する人がいるわけだから,

 いつでも「違う業種の職場」に向かうことができるように,

 たとえば教員だけでなく,プラスアルファの資格をもった人が,教師になれるような仕組みが必要なのです。

 こんな思いつきを書いただけではどうしようもないのですが,

 もし,「教員の増員」が不可能であった場合,

 「教員数は削減されているが,実質的に,増員されたことと同じ」

 になるような政策を実施するという解決策もあります。

 それはつまり学校の統廃合のことなのですが。

 これは本当にもめる問題です。

 できたら,統廃合する前の学力と,した後の学力がどのように伸びるか,などのデータや分析が現れるとよいですね。

 「少人数に分けたら,効果が上がる」というのは,

 「いい先生が指導にあたったら」という条件がなければ成立しない,

 「希望的観測」にすぎないのです。

 「習熟度別指導」の効果も同様です。

 「いろんな学力の子どもが混在していて,それなりの人数がいること」

 これが,高い教育効果が期待できる状況だ,と言える証拠を示してくれる学者が出てくることに期待します。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教育委員会にいたときにやりたかったこと

 私がしていた指導主事の仕事は,現場の教師だった人間がすることですから,

 行政のなかで「現場感覚が生かせる」ことに意義があるはずだと考えていたのですが,

 実際に自分の勤務校ではない学校を訪れるようになってからは,

 そもそも「多くの現場に現場感覚がない」ことに気づかされてショックでした。

 保護者の声,社会の声が,学校現場にほとんど届いていない。

 それは,「子どもが人質にとられているからだ」というのも,ショッキングな理由でした。

 言いたいことも言えない。

 言うと「モンスター扱い」される。

 そこで私が思ったことは,

 教育委員会の立場で(指導主事として)学校を訪問し,授業を参観したり,管理職や教師たちと話をする,ということも大事なのですが,

 それよりも子どもや保護者と直接話をする,

 こっちの方が大事ではないか?ということです。

 議員さんだけの仕事ではない。

 行政に身をおく人間も,役所にこもっていないで,もっと社会に出ていくべきだ,という思いが育っていきました。

 たとえば,「少人数指導」は効果が上がっているのか,ないのか。

 私の子どもが通っていた小学校では,問題発言が多く,保護者の大反対で担任をおろされた教師が,算数の少人数指導にかかわっており,それが隠されていた(他の学年の保護者には知らされていなかった)こともありました。少人数指導の担当になっても,課題は変わらない,とのこと。

 これは特殊な例ですが,「少人数指導をすれば効果が上がる」とは言い切れないことを実証できる可能性があったのです。

 しかし,教育委員会内のムードとしては,「効果がない」とは言いにくい,という感じでした。

 何しろ,税金で余計な人件費をつけてもらっているわけですから。

 校長の勤務実績については,一番遠慮なく言ってくれそうな教師に聞く,

 教師の勤務態度は,教師たちからの信頼が一番あつい教師に聞く・・・・などなど。

 そういう教師は,研修で短時間のグループワークをするだけでわかってしまうものです。

 「本人から直接聞くだけでは,実態はつかめない」という思いから,

 360度評価の必要性を訴える論文を書いて試験に合格した立場からは,

 いろいろ提案ができたかもしれないのですが・・・・3年で退職してしまったので,ただの願望で終わってしまいました。
 
 形骸化した学校訪問の意味のなさに,ちゃんと議会が気づくところも出始めたようですね。

 もし私がまだ教育委員会にいたら,学校現場からは嫌がられるかもしれませんが,直接「保護者の声が聴ける」仕組みをつくりたいですね。PTAは管理職などと一体化しているのでダメです。

 でも,そういう役割の人が「スパイ」などと呼ばれて子どもがいじめられるのを想像したら,もう何も書けなくなりました。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教材研究のしかた ~手抜き教師にとって都合の良い理屈に注意~

 「教材研究」と聞くと,学校関係者ではない方は,

 どのようなイメージをもたれているでしょうか。

 教科書以外のプリントなんかを独自につくるイメージでしょうか。

 いろんな文献や資料をあさっているというイメージでしょうか。

 実際の「教材研究」には,さまざまなレベルのものがあります。

 たとえば,「教科書に出てくる資料」をどう子どもに解釈させるか,

 そういう研究もできます。

 教材を準備する目的は,より効果的に学習目標を達成させることにあります。

 子どもの学習活動にどのような効果をもたらしたのか,

 そのチェックを経ずして,「教材研究」などあり得ません。

 ある研究会で紹介された研究授業を自分もやってみたが,うまくいかなかった,
 
 と不満をいう小学校の教師がいました。

 授業というのは,そういうものなのです。

 本人にとって何の研究が足りなかったのか,これ以上にわかりやすい話はありません。

 もうかなり前から,

 「PDCAサイクル」の大切さを学校現場では意識化されてきました。

 それなのに,まだ

 「教材研究」のことを

 「教材の準備」のことと勘違いしている教師がいるようです。

 「教材」ばかりを見て,「子どもの実態」「子どもの学習の活動自体」を見ることのない人間は,「教師」ではありません。暇なご隠居のためのサロンと,職員室を混同してはならないのです。

 「教材研究のしすぎ」という表現自体が,

 「教材研究」の本質的な意味がわかっていないことを表します。
 
 「教材研究をしすぎる」と,「何が成功で何が失敗かわからなくなることがある」

 という問題はあります。

 Aというクラスでは効果的だったのに,Bというクラスではそうでもなかった。

 Cという生徒は上手に使ったのに,Dはできなかった。

 などと,個人差・集団による格差などが生まれてきます。

 教材研究は,よく「壁にぶつかる」のです。

 こういうときは,一人で悩まないで,授業をみてもらうことが何よりです。

 あるいは,他の教科の教師が行うA,Bのクラスの授業を参観することです。

 教材研究をすればするほど,

 教師は子どもをよくみるようになります。

 「時間がない」「時間が足りない」と言っている教師と,

 そんなことは言わないで子どもとよくかかわっている教師を比べてみて下さい。

 教材研究ではなく,教員研究をすると,

 その違いがよくわかってきます。

 深い教員研究に基づいて,次世代の教師教育は行われなければなりません。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「圧倒的に」正しい財務省~教員の数を減らすのは何の問題もない

 子どもの数は減っている。

 財政状況が苦しい中,教員の数は減っていない。

 学校数も,あまり減っていない。

 子どもの数の減少だけが,激しく進んできた。

 文科省は,すでに少人数学級の状況になっている学校ばかりなのに,

 反対に教員数を増やそうとしている。

 「教員の数だけ増やせばいいという考えは古い」というのは当然の意見である。

 教員の数は減らしていい。

 その代わりに私が求めたい重要な条件は,小規模校を減らすことである。

 管理職の数が少なくてすむのも財政的には大助かりである。

 過疎地域では限界があるのはわかるので,

 問題となるのは大都市圏の小規模校である。

 学校規模を大きくすることで,仕事の効率も格段にUPする。

 スーパースターはいらなくなる。

 将来の社会で生き抜くための競争力がしっかりと養われていく。

 馴れ合い社会日本では,

 文科省が「一応,教員の数を増やす立場にたってくれた」・・・・というだけで,満足してくれる人が出てくる。

 文科省が財務省と同じ考えであることを主張すれば,激しい反発がおき,実現が難しくなるだろう。

 だから,「一応,数を増やしたい側にいる」・・・・馴れ合いの基本的な構図である。

 いずれにしても,学校数を減らして,教員数を減らすのが大正解である。

 めんどうなのは,学校の設置者が国ではないということである。

 矢面に立つ市町村教育委員会に持久力がないと,先に進めなくなる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
 

小学生にとってどちらが「可哀想」なことか?

 京都新聞が昨日配信したニュースによれば,滋賀県高島市が小学校の統廃合を行う方針案をまとめたということである。

 小学生にとって,通う学校が地域にない,というのは気の毒だと思うが,では,

 児童数がたくさんいる遠い小学校と,

 全校で児童が6人(学級は2つ)しかいない小学校では,

 どちらが「可哀想」な状態なのだろうか?

 私は,国立や私立の小学校に電車で通っている子どもたちを「可哀想」だと思っている。

 しかし,全校児童数が6人の小学生が「可哀想」と思うのとは全く別次元の話である。

 極小規模の小学校を見てきた経験からすると,

 自分以外に児童がいないか,いても1人か2人という状態で6年間学んだ子どもは,ほとんど個人教授なのだから,文科省やいろんな教育関係者の考えにしたがっていえば,学力をつけるチャンスには恵まれていると思われるが,多くの人々が経験している,運動会や学芸会などの学校行事とか,クラスでの話し合いとか,けんかとか,そういうものにふれずに大人になる子どもには,憐れみを感じることだろう。

 極端な話だが,町や村の境界をなくして,大きな学校をつくる,というのも今後は選択肢に入れてもよいだろう。

 学校規模が極端に小さいところでは,教員も成長しにくい。

 子どもも成長しにくい。

 親はそんなことを重々承知しながら,地域の人たちの大きな期待を背中から受けている。

 そういうプレッシャーを感じている親から,地域の「宝物」である子どもは,

 さらに大きな見えないプレッシャーを感じているはずである。

 何しろ,地域のおじいさん,おばあさんにとって,少ない児童たちが「芸」を披露する学芸会などは,楽しみでしかたがない。

 「たくさんの人に見守られて幸せ」というのは,大人の側からの一方的な感情かもしれない,と立ち止まって考えるゆとりがほしい。

 統廃合は,どんどん進めるべきである。

 極小規模からある程度の規模の学校に転校すると,不適応を起こす子どももでてくる。

 そういう子どもの教育には,学校は非常に多くの労力を必要とする。

 そういう労力は,学校の時代にしかしてもらえない,ということを親は覚悟しておかなければならない。

 社会の側は,「極小規模の小学校」に適応できるが,

 小学生の側は,「その後の厳しい人生」に適応する能力を育まれないまま,大人になってしまう可能性があることを決して忘れてはならない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
  

保護者からの「学力調査結果」の見方

 学力調査結果の順位が学校別に公開されたときの,保護者としての見方・考え方について,私なりの方法をご紹介したいと思います。

 その前に,おそらく「単学級(1学年に1クラスしかない)学校」は,公開の対象にならない(ただ,単学級の学校が少ないと,公開された順位の「残り」なので,わかってしまうことはあります)ので,複数学級がある学校を想定して書いていくことをおことわりしておきます。

 まず,調査にはA問題とB問題の2種類があって,A問題は非常に基礎的なもの・・・・つまり,学校に通っていなくてもできるような問題を想定してみてください。

 A問題の得点が低い場合は,もともと基礎が身についていない集団だということで,これについては家庭で何とかフォローできる可能性があるのです。

 問題は,A問題がある程度できているのに,他の学校に比べてB問題ができていない・・・つまり,身についた基礎がきちんと使えるような指導がなされていない学校ということになるので,注意が必要なのです。

 A問題は,ドリルをひたすらやれば高得点がとれるようになりますが,B問題はそうはいきません。

 授業が充実していないと,高い平均点はとれない。

 基本的にはA問題の得点とB問題の得点には相関があるはずなのですが,そうでない場合に,注意が必要です。

 ちょっと細かい話でしたが,今日,ここでお伝えしたいのは,

 「平均点が低い学校」を簡単に敬遠しない方がよい,ということです。

 それは,「平均点が低い」ことを公表された学校というのは,自ずと生徒に学力をつけさせるための授業の充実を図らなければならなくなるからです。

 子どももバカではないので,

 どこかの小学校のように,調査問題を事前に練習させたり,当日,答えを教えたりすれば,すぐにバレて大騒ぎになります。

 こういうことで「平均点を上げる」学校はもう出てこないでしょう。

 信用失墜行為で,即,退場です。


 学校は,日頃の勉強を,授業を充実させて,子どもに学力をつけさせるしかないのです。

 もちろん,「平均点が高い学校」だからと安心していてはいけません。

 学校の教師には異動があります。

 市町村教育委員会というのは,学校の格差を少なくするために,課題のある学校には

 指導力の高い教員を異動させていきます。

 現に,私の娘の小学校では,学級崩壊を起こしたクラスが,4月から異動してきた教員がついて,正常化しました。

 学校説明会では,学力調査の結果を受けて,その学校が次年度の教育課程で,

 何を,どのように,どうしていくつもりなのかをしっかりと聞いて確かめてください。

 それをいくつかの学校で比較してみて,決断できるといいですね。

 校長先生の話がおもしろい学校は,無条件でおすすめです。

 明るい管理職のもとでは,教員は「やると子どものためになる」と思うことは,熱心にやってくれます。

 管理職と教員の仲がどうなっているか,案外,重要なことですが,

 単純に,その学校の校長や副校長の部下として働いてみたいと思えるかどうか,

 そんな第一印象がすべてを決めてしまうような場合もなくはないでしょうね。

 学力調査の結果の見方・考え方は?・・・・そうです。そんなものはどうでもいいのです。

 結果ではありません。

 それを受けて,その学校がどう動くか,明るく元気な管理職が,学校をどう動かそうとしているのか,それがすべてなんです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

 

知事や市町村長による教育委員会批判は大いに進めるべき

 静岡県の川勝知事の行動を「暴走」と解釈する人が多いのは,仕方がないと思う。

 校長を集めた場で,「学力向上モデル校」の順位を公表してしまったのだ。 

 文科省は,「現行のルールからは逸脱している」という理由で,当然,非難をする。

 行政としては当たり前の行動である。

 しかし,これからそのルールは見直されることになっている。

 川勝知事のような情報の出し方は,当然である,という声が広まれば,当然その「次のルール」にも影響を与えるだろう。

 神奈川県の黒岩知事も,公表は当然だと表明している。

 これらの知事には,県民が抱く子どもの将来への不安感が,直接届いているのだろう。

 これが4年任期の「県民の代表」の言葉の重みである。

 「県の学力向上モデル校の結果が,こんなにひどいものだった」

 ことを知った県民の反応が知りたい。

 これが隠されたままの状態と,

 情報が正しく公表された状態を比べて,

 どちらの方が望ましかったのか,考えてみてほしい。

 知りたい情報,知らされるべき情報が知らされない国になど住みたくはない。

 小学校の教員たちの,「学力向上モデル校なんて,受けたくない。校長の点数稼ぎのためなのに」

 なんていう認識は,これで一掃された。

 成果を出さない責任は,校長がとればいいことがわかったのだ。

 日本の歴史上,初めてではないか。

 学力向上モデル校の「結果責任」「成果」が問われたのは。

 日本の教育界で長く続く悪習・・・形だけ整えて終わり,という時代にサヨナラできるチャンスが訪れたのだ。

 教育委員会と知事の関係についてはここで書くまでもないことだが,

 「黙っていられない知事」を県民は支持するだろう。

 元校長が幅を利かせているような教育委員会なんて御免だ,というのは市民感覚にマッチする。

 ネット上の意見をながめてみると,

 「学力調査の結果」で「教育の質」「学校経営の質」をあれこれ言うのは筋違いだ,

 という声が多いが,

 自分の子どもがただでさえ高くはない全国の「平均点」を大きく下回っていることを知って,残念に思わない親はいないだろう。

 基礎の基礎ができていないまま中学校に進学しても,そこで苦労するのは子どもなのである。

 小学生相手にしても,家庭で学校の勉強を教えられる保護者というのはそれほど多くはないであろう。

 山のような宿題を課せられて,何とか終えて学校に行っても,全く成果を出せない子どもを抱える保護者の気持ちはわかるだろうか。

 それが「学力向上モデル校」だったとしたら,どうだろう。

 「学校はこんなに手をつくしてあげたのですが,子どもの能力が及ばす,こんな結果に終わりました」

 といいたいのか。

 多くみかける「学力調査の結果でどうこう言うな」という意見をお持ちの方については,

 一度,その実際の調査問題をご自分で解いてみていただきたい。

 そもそも全国の「平均点」がとても低いことに愕然とされるはずである。

 その全国の低い「平均点」を自分の県が下回っている,と知らされれば,当然不安になるだろう。

 そして,当たり前のように,「自分の子どもの学校は大丈夫なのか」と思うだろう。

 学校ごとの公表は,県別,市町村別の結果を公表すれば,避けられないものになるのは当然である。

 危機感を抱いていない保護者の方のなかには,「健康の方が大事だから」と思っていらっしゃる方もいるだろう。

 しかし,健康と学力とは,別の問題である。

 実は,学力調査の平均点の問題ばかりがクローズアップされているが,

 もっと問題なのは,それと「なにか」が相関関係にある,という分析である。

 東京都では,そういう相関に目を向けて腰を上げたようである。

 そのうち,「学力調査の結果が悪い学校の特色は,・・・・・」という分析も登場するだろう。

 それを最もおそれているのは,市町村教育委員会である。

 繰り返し述べるが,公立の小中学校の未来は,学校統廃合がつくっていくと私は確信している。

 そのために行動を起こすのが,いかに大変なことかを市町村教育委員会は知っている。

 こういう施策を動かすうえで,学力調査を実施していることの意義は大きい。

 「一番公表してほしくない人」の都合に合わせることが,どれだけマイナスかを気づいている知事たちに学ぶことは多い。
 
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

粘着質のいじめの見本

 ある誹謗中傷専用ブログがまた息を吹き返した。

 ということは,攻撃相手のブログが再開したからだろうと確認してみたら,その通りだった。

 私のブログと勘違いして攻撃された伊東先生には,たいへんなご迷惑をかけてしまった。

 こちらのブログを長く読んでいただいた方には,「ああ,あの人のブログね」とすぐにおわかりいただけると思うが,伊東先生に対する恨みは相当に深いようで,あいかわらず徹底的にこきおろして楽しんでいる。

 内容はゼロである。2チャンネルならともかく,FC2ブログで継続しているのはすごいことである。

 同じようなレベルの惨いブログはさすがにFC2ブログのなかでも他にはないだろう。

 タイプミスの傾向が「本尊」と全く同じなのはご愛嬌としても,

 こういう粘着質の個人攻撃は,

 教育の立場からすると,それが生徒対生徒でも起こっているわけだし,これからも増え続けるだろうと思われるから,その対処法も含めて,参考にすべき「教材」となっている。

 それだけ簡単に,相手を不快にさせることも,追いつめることもできるのがネットいじめの恐ろしさである。

 道徳の授業では,こんなことしか書けない人への憐憫の情というのを引き出すことが可能である。

 いじめをしている本人自体が最も惨めで哀れな存在であるということは,「いじめ問題」を語る上では常識となっている。

 被害者というのはあたたかい救済の手がさまざまに考えられるが,加害者は救いようがないのである。

 ネット犯罪について私の学校で講演してもらった警察署の方は,

 「犯人はすぐ特定します」

 と力強く語ってくれたが,

 わざわざインターネットの知識をひけらかして,

 本人かどうか,ばれないようにできる,

 なんて自分で書いてしまっているのがその「ご本尊」である。

 昼間は学校に通っている生徒はともかく,

 ひまをもてあましているネット依存症の方は始末が悪い。

 自分で自分のブログに自作自演コメントを入れるほど「孤独」な人を救えるのは,だれだろうか。

 「教育」の話をしたいのだが,今のところ,過去の私の経験では,それは「失敗」の連続であった。

 相手の思考回路が壊れている,というかたちでの議論の打ち切りをされるようでは,教育者としては立つ瀬がない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

「ほこたて」と「表示と異なる食材の料理」との違い

 「ほこたて」はドキュメンタリー番組だったのだろうか?

 私の家族にとっては,「やらせ」など当然あるものだと思って視聴していた

 「バラエティー番組」だった。

 私も大学生時代,このような番組に出演したことがあるが,

 「やらせだ,ひどい」という意識よりも,

 「こうやって番組はつくるんだ」という発見というか納得ができた体験だった。

 何も目くじらを立てて,「真実とは異なる!」なんて騒ぎ立てるような問題だとは思わない。

 テレビの番組作りよりも,もっと重要な問題はいくらでもあるだろう。

 「ほこたて」勝負などは,偶然のいたずらであっけなく勝負がついてしまう場合もある。

 それではバラエティー番組として成立しない。

 やり直し,撮り直しなどは当然のごとくあったのだろうと想像する。

 こんな情報しか流さない

 ニュース番組の方が,よほど問題である。

 もっと重要な問題は社会には山積しているのだ。

 一方の,「表示と異なる食材の提供」問題については,

 「だまされた」と憤る人の気持ちはわかる。

 ただ,私はこんな人たちもいると考えている。

 「この値段で,さすがにこれは本物ではないだろう。でも,本物を味わっている気分で食べさせてもらおう」

 こういう話は,探せばいくらでもあるはずだ。

 提供する側と客が暗黙の了解のなかで,成立している。

 ここに,事情を呑み込めない人が入ってくれは,「話が違う!」と怒るのは当然のことである。

 おそらく今まで偽物を食べさせてきたところは,

 「阿吽の呼吸」を信じられる「ムラ社会」の人間たちだったのだろう。

 「偽物」を食べた人に返金するという。

 どれくらいの人が,返金を請求するのだろう。

 その場で本当に食べたのかどうかは,どうやって判断するのだろう。

 こんな意見を書けば,当然批判もあるに違いない。

 私の興味関心は,教育の問題に偏りすぎている。

 私の懸念は,教育現場で,これから,「偽物」の類がますます増えていくことである。

 「偽物」が見抜ける力を養うには,何世代もかかるのが,教育問題の難しさである。 


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ  

学力調査の分析(東京都教育委員会)を一歩進めて

 産経新聞の記事で,全国学力調査とセットで行われている「学習状況調査」の結果について,東京都教育委員会が行った分析?結果の一部が紹介されている。

 中学校3年生に対する「家でテストで間違えた問題について勉強していますか」という質問に「している」と答えた生徒の割合が,

 秋田県では24.4%,東京都では10.3%だったという。

 テストで間違えた問題の勉強(復習)は,学校で行う場合もあるから,そういうバリエーションも合わせて問わなければならないのだが,もし仮に学校ではそれをやっていないと仮定すると,

 東京都だけでなく,秋田県も

 「学習指導の基本」ができていないことが証明されたことになる。

 間違えた問題を復習するだけでなく,「テスト問題は必ず解き直す」ことによって,理解度を高めるというのは,学力向上の基本である・・・・という常識を,一般の学校や経験のない教師たちに求めるのは酷かもしれない。

 当たり前の話だが,「復習しておきなさい」という指示だけで復習する子どもは,それほど多くはない。

 (・・・・といっても,そうやって指示したとして,4人に1人もいないのはさびしいことである)

 だから,「解き直し」のチェックを教師はしなければならないのだ。

 こういう習慣を中学生のころにつけさせられた私は,

 教師になったばかりの1校目では自分のクラスの生徒に対して,

 2校目では学年のクラスの生徒に対して課すことにした。

 テスト前は勉強しても,答案が返ってからも勉強するという「風景」を見たことがなかった親たちからは,

 どちらの学校でも感謝された。

 当時は学力調査がなかったので,どのような成果があったかは説明しにくいが,

 「常識」をつくった2校目の学校は,その後,学力向上関係の研究校になっている。

 「テスト問題の解き直し」で生徒が最も苦労するのは数学である。

 授業で解き方の説明を受けても,解けない生徒がいるのだ。

 家庭教師が雇えればその仕事は簡単で,その解けない問題を解けるようにすればよい。

 どんな問題が解けないのかを説明できる生徒は,中学校でも指導がしやすいし,勉強の方法もアドバイスできる。

 中学校では,定期テスト終了後,すぐに「解き直し用のノート」を配布して,それを提出させるようにすればよい。

 意欲の高い子ども,学校のテスト程度では物足りない子どもは,問題集の応用問題なども一緒にそのノートでやればよい。

 中学校1年生から積み上げていくこの「テスト問題&解き直しノート」の数々が,

 進路を選択していくうえで重要な資料になることは言うまでもない。

 こういう「常識」が少しでも多くの学校に広まっていけばよいと思う。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

英語教育にこだわるたわいのない理由

 文科省の基本的な思考回路は,

 「国際標準を満たすかどうか」が基準になっている。

 日本の個性を伸ばす発想ではなく,

 外国人から見て(もう少し分かりやすく言えば,アメリカ人から見て)

 どう思われるかが一番大事なのである。

 だれに聞かれるまでもなく,

 英語がまもとに話せない(というより,英語によるコミュニケーションをとる必要のない生活を送っている)人たち)と英語で会話しても,それは実質的には日本人同士のたわいのない挨拶や遊びに過ぎないのである。

 したがって,教わっている人間も,まともに英語を話せるようにはならない。

 今の小学校の外国語活動がそれである。

 ただの時間の無駄としか言いようがない。

 どうしようもなくなったので,教科に格上げしようとしているらしい。

 そして「遊び」は小学校3年生から開始する。

 小学校5,6年生では,成績もつける。

 成績をつければ勉強するだろう,とは,いかにも教育者ではなく事務方の考えそうなことである。

 日本人は,本当に「失敗」に懲りない性分をもっている。

 繰り返し書くと,

 英語によるコミュニケーションは,英語を日常的に使っている人たちと練習するならわかるが,

 日本人同士で英語を使っていても,本当の英語のコミュニケーションをとることができるようにはならない。

 長くやれば話せるようになるか,使えるようになるか,と言えば,

 それはそうやっても話せるようにも使えるようにもならない大人に聞くのが一番早い。

 小3英語教育開始に反対意見が出るのは当然である。

 「おもてなし」の心と「英語を話せるようになること」は別物である。

 おそらく文科省が小3から導入しようとしている英語教育が,

 必要であると感じている保護者は,小学校入学前からやっている。

 そういう教材が何種類かあるのだ。

 小学校にいる人間で,英語で遊ぶ暇があるのは校長先生くらいだろう。

 いっそのこと,校長はすべて英語圏の人にしてしまったらどうだろう。

 教員は,いやでも英語が使えるようにならないと,会議も成立しない。

 子どもたちは,毎朝,集会で校長先生と英語であいさつし,英語で遊ぶ。

 昼休みも,英語で遊ぶ。

 放課後も,英語で遊ぶ。

 英語で話せばすむようなレベルの内容の話しか,日本語でもできなくなってしまった将来の子どもたちが目に浮かぶようである。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

ツボにはまると全否定にまわる人たち

 なぜ「論理的」な人の「論理的」な話で組織を説得することができないのか?

 企業に限らず,どの集団でも,言葉の論理だけでは割り切れない思いがする問題というのが必ずあります。

 世の中,単純な決まり事を守っていれば,何でもうまくいくというものではありません。

 「複雑系」という言葉がいつから使われ出したか調べていないのですが,

 「大切な何か」が「論理」からは抜け落ちてしまっている,という「感覚」,それこそが,

 単純な論理に基づく「危うい決定」を避けるために人間がもっている重要なものなのです。

 しかし,「論理絶対主義」とでも呼べるような,「大切な何かが失われている感覚」を無視できる人間というのが,
 
 組織には必ずいます。

 こういう人間には,機械いじりだけさせておくのがベストなのですが,

 会議では当然,発言は許されますから,その「絶対主義」ぶりが露呈することになります。

 「校長の命令だから,出張する」・・・・それを拒否すれば,「職務命令を違反した」ことによって,

 処罰される可能性があります。

 しかし,「小学生の授業を自習にして,出張する」というのが,市民感覚として許されるのか?と言えば,

 保護者なら「絶対にそんな出張は許せない。もし子どもに何かあったら,だれが責任をとるのか?」という思いになるのです。

 なぜ授業がある日に,出張しなければならないのか?

 自分の「職務専念義務」が「免除」されることによって「出張」が可能になるわけなのですが,

 「免除」される正当な理由が,「教育委員会からの依頼」だけで,本当にいいのか?

 やはり,おかしいのではないか?

 これが,「教育」を仕事とする,

 「子ども」を相手にして仕事をしている,

 教師としてのまっとうな「感覚」なのです。

 悉皆研修の初任者研修のように,はじめからわかっている出張でも,

 「現場を離れることのやりきれなさ」を抱いていた人は多いと思います。

 しかし,「出張命令」が下るのだから,仕方がない。

 でも・・・・。

 そうです。生徒間のトラブルや,心を痛めている生徒のためを思えば,

 本当に,その教師が学校に必要な場面であっても,「命令」である以上,出張しなければならない。

 ・・・・しかし・・・・という感覚が,実は命令を出している校長自身にもあるわけです。

 子どもからみれば,

 「あいつは理屈だけで感情がない」

 という目で見られることになり,「大人の便利な言い訳」として「論理」を忌避するようになるかもしれません。

 「きまりはきまりだから」では,

 子どもの教育なんてできません。

 そもそも「論理絶対主義」の人間には,「道徳の授業」なんて不可能でしょう。

 「論理」では当たり前でも,「何か違うかも」という感覚を呼び起こす題材が多く,だからこそ

 「教育」の対象になるのです。

 「命令なんだから従え」では,道徳もくそもないわけです。

 


 「1+1=2」というレベルと,

 「出張命令に従う」というレベルは,

 違うものであるという認識がない教師は,平気で子どもを見捨てられる人間なのです。

 学力が他の県よりも低い静岡県の「習慣」がどうなっているか知りませんが,

 子どもが見捨てられていないことを祈るばかりです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

川勝平太知事の悲痛な叫びでよくわかった静岡県教委の問題点

 静岡県のHPの,「ようこそ知事室へ」を読んで,

 静岡県の教育委員会の課題がよく分かりました。

 大津市もそうでしたが,やはりあぜんとするほどの状態です。

 県教委が学力調査のデータを秘匿していた事実も示されています。

 県教委の体質が,痛いほどよくわかりました。

 静岡県だけではないのでしょうが,私の印象は「あまりにひどい」。

 ここでは詳しく書きません。

 静岡県の校長のなかで,立ち上がる勇気がある人はまずいないでしょう。

 そういう地方だということが非常によくわかりました。

 悲痛な叫びです。

 川勝知事のような人が全国に生まれないと,日本の教育は変われないでしょう。

 私は川勝知事を応援します。


 HPで確認できたことがもう一つ。

 私の学校の中学生が訪問させていただいた小学校が,どうやら全国の平均を上回っていたようで,校長先生のお名前がありました。

 また交流会のお願いができそうでほっとしています。

 507校中,86校(17%)しか平均点を上回る小学校がない,ということは,やはり全国最下位になってもしかたがなさそうです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

市町村教委は,常に「板挟み」の苦しみを背負う存在である

 それは,宿命である。

 文科省がアンケートをとった結果を見るまでもない。

 市町村教委は,学力調査の結果を発表したがらない。

 学校も,発表したがらない。

 苦情は学校ばかりでなく,市町村教委に寄せられるからである。

 校長は,優秀な教員を選ぶことができない。

 市町村教委が決めた教員のめんどうをみるのである。

 教員のなかには,そもそも文科省や都道府県教委,気の毒だが市町村教委を目の敵にしている人がいる。

 こういう人のめんどうをみているのが,校長や市町村教委である。

 PTAをやっていなくても,保護者のネットワークがあればそういう教員の評判はすぐに耳に入ってくる。

 もちろん,独自の教育や研究会で学んだことで成果を出している人もいるだろう。

 しかし,「授業が上手ではない先生」という親の評判は,小学校では学年をまたがってすぐに広まる。

 小学校における学級担任の仕組みはもう,もたないかもしれない。

 自信のない教師ばかりの学校では,だれも小学校6年生の担任をもちたがらなくなってしまうだろう。

 学力調査の結果と,日頃から評判に課題のある教師というのは,簡単に結びついてしまう。

 それでは「学校がもたない」と本気で危惧している管理職,教育委員会の人たちは少なくないだろう。

 管理職が校内で最も優秀な教師を6年生の担任にし続けるとしても,それは

 「何とかかたちにするため」の応急措置であって,

 5年生までに積み重ねられた負債は,なかなか返済されない。

 6年生で厳しければ,中1ではもっと厳しい。中3まで,今度は子どもももたない,というくらいの問題を抱えている場合もある。

 「最低限の学力の維持」は,小学校にとって最も重要な課題であり,それが本当の課題として社会に認知されるためには,学校ごとの調査結果公表が欠かせない。

 「もたない」ことがより鮮明になることが,結果の公表がもつ大きな「役割」の一つである。

 何度も書いているが,最終的には,市町村教委は学校の統廃合を加速させる結果になるだろう。

 日本の教育のレベルを維持していくためには,絶対に欠かせない政策である。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「はてな?」の印象が強い静岡県教委の諸政策

 教員として優秀な人材が,指導主事として事務局にいる。

 だから,これを現場に戻す。

 素人の考え方としては,ごくごく当然のことだと思われる。

 現場に戻すことで,本当に教員として優秀な人材だったかどうかがわかる,というのは別の話。

 この政策は,あまりに対症療法的・応急処置的で,気の毒だが未来の明るい展望は見えてこない。

 そもそも「指導主事」が本来の仕事をしていなかったことがばれてしまう政策である。

 「本来の仕事」とは言うまでもない。

 現場に戻った指導主事が,地域ごとの研修会を主導して,それぞれの地域の指導力向上に役立つ仕組みがつくれるのなら一定の効果は期待できるだろうが,

 学校現場に戻ると,優秀な教員というのはその学校のことで手いっぱいになるのがふつうである。

 自分の学校の子どもの指導をおろそかにして,平気で出張するのを許す傾向にある教育委員会かどうかは,学力調査の結果の良しあしとおおいに相関があるだろうと私はにらんでいる。

 学校の教師は,「学校」の教師である。

 これを別の用途でも使おうと考えて指導主事を現場に戻そうとしているのであれば,やめるべきだというのが私の意見である。

 もう一つ,静岡新聞のNEWSで紹介されているのは,

 管理職の選考にかかわることで,校長の推薦がなくてもよい仕組みをつくる,というもの。

 私にはこういう政策は論外だと思われる。

 組織の長に認められない人材が,組織の長になる仕組みというのは,たとえば別の職業に変わるというならわかるが,同じ公立の学校の管理職になるというのはいかがなものか。

 いい人材をきちんと推薦しない校長への不信感があまりに強いのか,

 全く新しい,教育委員会の言うことだけをきく管理職集団をつくろうとしているのか,

 いろいろと勘繰りたくなってくる。

 静岡県教委の動きそのものが,静岡県の学力調査の残念な結果と重なって見えてくる。

 何か他の自治体と,決定的に違うものはないのか?

 私は,以前に,管理職人事を「予想する」記事が新聞紙面で紹介される「異常さ」を紹介した。

 あまりにも異なる「習慣」は,それだけではないのかもしれない。

*********

 静岡県HPで川勝知事の「悲痛な叫び」を読んだ。

 静岡県教委の体質は,私なりの感覚で表現すれば江戸時代風のものである。

  
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

学校規模の拡大こそが「教育」を救う手立て

 忘れないように,ときどき主張しておきたい。

 学校がなくなるのは,卒業生として,また,地域の住民としては,さびしいことかもしれない。

 しかし,子どもの数が減少し,学校が小規模化しているなか,何が起こっているか。

 少人数になって教育効果が上がるのであれば,もうすでにその「成果」は存分に発揮されていなければならない。

 学校規模が小さくなっていることの大問題は,

 若い教師が20~30年前には当たり前に学べたことが,

 今はできずに困っている現状である。

 ある勉強会に出てわかったのは,

 「そんなことは自分の学校の先生に教えてもらえないのか」

 ということをわざわざ学びに来ている若い教師がいることである。

 教育に対する国民の目は,今後もますます厳しくなっていくだろう。

 こういうときこそ,学校の教師が団結して,

 よりよい学校づくりに燃えていなかければならない。
 
 しかし,小さい規模の学校では,そもそも教員の数が少なく,

 満足のいく「学び合い」もできない。

 愚痴になるが,私は小規模校の教員だったとき,3つの部活動の顧問をかけもちしていたことがある。

 今,よく生きていると,ほっとすることがある。

 学力調査の結果の上手な活用法というのは,いくらでもある。

 とりあえず,「少人数学級を増やす」ことは,

 学校規模を大きくすることで余った教師を活用できるようにしていくべきである。

 子どもの数がどんどん減っているなか,教員を増やす必要はない。

 管理職のなり手が足りないことも大きな問題である。

 学校の数を減らせばその問題も解消される。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

朝日新聞も覚悟した学力調査の結果公表

 本日の朝日新聞社説「学力調査―公開する責任と覚悟は」では,

 とうとう「公開はやむをえない」という判断を,新聞社として確定したことを意味するように読める。

 このブログで以前に書いたことと同様に,

>各地の首長や保護者から「税金を使う以上、国民には結果を知る権利がある」などの主張が相次いでいるため
 
 と説明されている。

 その通りであろう。

 「情報を隠す」ことを奨励するようなら,新聞などは必要ないのだ。

 その部分より後に主張されていることは,情報公開を希望するだれにとっても,

 教育にたずさわっていない人たちにとっても,当たり前すぎることである。

 「点数に振り回される」とあるが,そもそも学校は,低学力に限らず,さまざまな問題を抱える子どもたちに振り回されている。

 どうしたら底上げがはかれるか,どうしたら「よりよい教育」が実現できるか,多くの教師は悩み抜いている。

 学校によっては,保護者から逆に苦情が出るほどの量の宿題を課し,保護者にその宿題のチェックも課している。

 「点数の底上げ」のためにこうしたかたちで保護者が振り回されるのなら,それこそ願ったりかなったりだという人たちもいよう。

 教育なのだから,簡単なことではないのだ。

 あきらめれば,すむことではある。

 数字なんかいっさい気にしないで,好きなことだけ教えることも不可能ではない。

 しかし,それにNOがつきつけられる数少ない手段のひとつが「結果公表」である。

 「最低限の学力は保障してほしい。それは,子どもが生きていくために最低限,必要なことだからだ」

 という主張に「NO」とは言えないのが教師である。

 社説の最後は,当事者意識に欠ける,無責任な大人の一面が顔をのぞかせている。

>学力には、貧困や地域の教育力など複雑な要素がからむ。安易な公表は現場を荒廃させ、問題解決を遅らせる。その重い自覚がなければ、公表する資格はない。

 「重い自覚」とは,だれがどのようにもつべきものなのか。

 低学力を,貧困や地域の教育力のなさのせいにしてきた学校はないのか。

 「現場の荒廃」が,どのようにおこるか,これを書いている人間は知っているのか?

 記事の途中にある,

>テストの点は教育の成果の一部でしかない。そう頭ではわかっていても、数字を突きつけられると弱いのが人間である。

 「数字に弱い人間」が,変化の激しい社会を生き抜いていけると思っているのか?

>学校は、子どもが社会を生き抜く力をつける場所だ。

 その通りである。

 「数字の公表」くらいで「荒廃」するような学校は,一刻も早くまもとな学校に吸収されるべきである。

 各学校の「教育課程」というのをご存じだろうか。

 今,平成26年度の教育課程を編成中である。

 その内容を厳しい目でチェックできる保護者の体制を整えていきたい。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ 

行政の仕事の意義を教えてくれた教育委員会時代

 教師は子どもを歓迎しているが,子どもは教師を歓迎するとは限らない。

 そこにいて当たり前の存在だし,特に細かいことにうるさい教師は歓迎されない。

 しかし教師は指導を通して,子どもの見方を一変させることができる存在である。

 こういう関係になりにくいのが,

 教育委員会と教師の関係である。

 教育委員会といっても,教師と最も身近に接することができるのは,

 同じ教師の指導主事である。

 教育委員会の事務方と一般教師が接することは,ほとんどない。

 仕事の関係上,現場の教師と苦労をともにして,問題の解決にあたり,

 現場から強い信頼を得ている指導主事もいる。

 しかし,教育委員会と教師の関係は,基本的に「一方通行」になりやすい「体質」である。

 「昔気質の教師」の中には,指導主事と聞いただけで虫唾が走る,教育委員会の犬め,などと言う人もいる。

 私自身は校長から管理職試験を薦められるまで,教育委員会についてはほとんど興味がなかった。

 実際に指導主事になって第一に思ったことは,

 自分が指導主事になるまでに学んだことは,一般の教員も普通に学んでおくべきだ,

 ということである。

 たとえば「教育法規」なんて,採用試験のときに勉強したじゃないか,と思われるかもしれない。

 しかし,経験を重ねていくうちに,そもそも法規というものがどういう意義をもっているものかに気づけるような「仕事の蓄積」ができていく。問題は,その「蓄積」が「法規の意義」と有機的に結びつく機会をもっていないために,「今,自分がしていることの価値」に気づけない,という「もったいなさ」が生じていることである。

 指導主事は,今,実行されている政策が,いつの,どの法律や答申に基づいているものか,説明できなければならない。

 中教審の第二次答申ではこういうことが求められていた,などと,イメージできなければならない。
 
 それは,実行されている政策の意義を説明し,納得してもらうためである。

 時代は変化のスピードを加速させてきている。

 だから,「覚える」ことも多くなっているが,それが自分の実践と結びつきながら,いつ,どこで,どのような意義があったかを語ることができれば,

 「なぜ今,この課題に取り組まなければならないのか」という教師の疑問に答えるだけでなく,「やる気」を与えることができるのである。

 なんて書いてみて,指導主事が気に入られない理由が自分でもよくわかる。

 何が言いたいのが,本当に伝わりにくい文章である。

 それに加えて,指導主事が研修で「指導力不足教員」を「指導力ほどほどの教員」にすること自体が非常に困難であり,見える成果が出しにくい。

 実績のある教師がどんどん伸びていくことをたすけることは簡単だが,期待通りの働きができない教師には冷たくなってしまいがちである。

 それは,「国民の期待に応える」ことが要請されている公務員の立場で,

 「期待に応えていない」現状が手に取るようにわかってしまうからである。

 コストも非常に高くついている。一つの学校の電気代とか,紙代がいくらか,給食の残飯が何トンか,

 興味がある人は校長先生に聞いてもらっていい。

 費用対効果なんて,教員時代に考えたことはなかった。土日も出勤し,夜中の12時を過ぎても明かりをつけていた日が多かったが,そのときはまさか「エネルギーを無駄に使うな」と批判されるとは思わなかった。

 行政の仕事とは何か,これがわかっただけで,教育委員会で仕事をした価値は高いと思うが,

 なかなか行政の仕事の意義を一般の方にわかってもらうのは難しい。

 特に仕事内容が細分化されているために,

 一般の方が「ピンポイント爆撃」をするのはほとんど不可能である。

 私ならそれができる。

 元同僚が現場にみんな出てくれたら,遠慮せずに繰り出せるのだが。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教職への不適応の原因は子ども?大人?

 せっかく教員採用試験に合格したのに,現場に出て仕事がうまくいかず,

 悩んだ末に辞めていく人がいます。

 原因は様々ですが,

 周囲が最も納得しやすいのが,

 「子どもに相手にされない」

 「子どもが言うことをきかない」

 ために,自信や自尊心を失って,働く意欲をなくしてしまった場合です。

 コメントをいただいている「ちゃりこ父」さんは,

>狭い空間で年端の行かない子供相手だからって隠蔽ばかりしてきた

 とおっしゃっていますが,

 小学校1年生でも,教師のおかしいこと,教師への不満なことは親に話してくれますから,

 学校でおこっていることを隠蔽するのは現実的にはなかなか難しいことです。

 教師がたとえ箝口令をしいても,漏れるところからは漏れていきます。

 「年端の行かない子供」のなかには,

 「年端の行かない教師」よりもよっぽど自己主張が強く,

 とにかく我が道を行くという子が増えています。

 もちろん,「年端の行かない子供」という表現がぴったりの子供も,増えています。

 私の造語ですが,「三極端」です。

 ベクトルが3方向に向かっている。

 格差の拡大プラス,全く別次元に向けて飛んでいく子ども。

 この別次元の子どものなかには,学力が高い子どももいますから,「四極端」かもしれません。

 話を戻します。

 指導力がない教師は,授業を参観すれば一目瞭然ですから,

 「やめたい」という言葉に「しかたがないな」と思ってしまうのが普通です。

 しかし,もっと根本的な職場環境の問題が,

 若い教師の心をむしばんでいることを忘れてはいけません。

 大量採用時代の教師が抜けて,小学校には若い教師が急に増え始めています。

 若い教師が自分以外にはいないという学校だけでなく,若い教師が何人かいる場合でも,

 もともと「人付き合い」が苦手なタイプの人は,
 
 学校のなかで孤立していきます。

 特に,部活動をしたことがない,大学を卒業したばかりの人というのは,

 子どもに対してどのように接するべきかということは知っていても,

 大人に対してどういう態度で接していいのかわからない,という人が多いようです。

 クラスのことで悩んでいても,だれにも相談できず,だれからもアドバイスをもらえず,

 ただ一人で苦しんで,泥沼にはまっていく。

 それをフォローできる人,フォローすべき人が,

 「一人もいない」状況になりやすいのは,小学校という職場です。

 ある特定の学級の成績が悪くなろうが,自分の学級のことでなければ,

 無関心でいられるのが小学校というところです。

 他のクラスの問題に首をつっこもうとしただけで,

 まるで領空侵犯でもしたかのように猛烈な反発を受ける可能性がある職場は,

 学校ではなく学級が閉鎖空間なので,教師は本当に孤立しやすいのです。

 こういう閉鎖空間に「独裁者」が君臨していた場合,被害を受けるのは子どもたちです。

 もちろん,他学級の問題に無関心でいられない「正常」でかつ「余裕」のある人がいる学校では,

 若い教師はどんどん鍛えられていく環境でもあります。

 管理職がまともなら,どうにかなるのですが。

 しかし,苦情が来ない場合,管理職が「悩み」に全く気付かないというケースもあり得ます。

 一方,中学校の場合は,だれだれ先生の教え方が下手だとか,

 授業が崩壊しているとかは,担任にしてみれば自分のクラスの子どもの問題となり,

 苦情は担任あてにきますから,問題のある教師が「放置される」ことはないですね。

 担任の会議で必ず話題にのぼります。

 小学校の厳しいところは,問題のある教師自身に苦情が直接寄せられてしまうことです。

 管理職に寄せられる最もわかりやすい要求は,「担任をかえろ」です。

 中学校では「教科担任をかえろ」と言われても,それができない場合がありますが,

 小学校には「もっといい先生がいる」ことがわかってしまっているため,要求したい気持ちはよくわかります。

 教師を育てる立場からは,

 「もっと長い目で見てほしい」

 子どもを育てている親の立場からは,

 「子どもにとって最も大切な時期は今しかないのだから」

 ・・・・教師というのは,だれの目から見ても「優れている」と評価されることが要求されている仕事なんですね・・・。

 教師になるまでのハードルはもちろん高いのですが,

 教師として認められるまでのハードルは,実はもっと高いのです。

 あまり行政時代のことは書けませんが,

 やはり管理職が匙を投げてしまうような人をその職場で続けさせることは,

 あらゆる人にとってプラスにはなりません。

 そういう意味では,管理職やまわりの教師たちの「教育的配慮」に守られて,

 退職まで「勤め上げてしまった」教師もたくさんいます。

 「不適応」なのに「不適応」の自覚症状がない。これこそが教育現場の悲劇です。

 子どもにとっての。

 今は,保護者も経営に参画していく時代です。

 参加ではなく,参画です。

 そんな甘い状況がなくなることは,子どもたちにとっては歓迎すべきことです。

 しかし,「目の前の先生がこきおろされている光景」は,見させることも,

 想像させることも得策ではありません。

 「お父さんのようになってもいいの!」

 と子どもを叱る母親と同じです。

 静かに去っていける環境づくりも欠かせません。

 去るべき人が,去り,

 去るべきでない人が,残れる仕組み。

 人を見る目のある人を,選ばなければならない。

 人を見る目のある人を,どう見つけるか。

 人物評価の確度の高さの検証を行政は進めていくべきですね。

 これは,教員採用の段階に,さかのぼります。
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

人気のない少人数学級<人気のある40人学級

 学校選択制は,保護者や生徒にとって,

 「選ぶ自由」が与えられるという点で優れている。

 しかし,受け入れ側とともに,希望する側の問題として,

 「定員を超えた場合に抽選になる」という問題がある。

 つまり,「運がなかった」ために希望する学校に入れない可能があるということである。

 入学選抜試験がある学校ならあきらめもつくだろうが,

 「くじではずれ」た場合,本来は理由があって希望しなかった学校に進学しなければならない。

 ここで問題になるのは,

 1学級の規模に関することである。

 学校選択制によって何が明らかになってくるのか。

 たとえ1クラス40人でも,強い帰属意識をもって学校に通っている中学生と,

 1クラス30人程度の学校で,普通に暮らしている中学生と,

 学力面は,体力面(部活動の活発さ)は,進路面の充実度は・・・・と

 比較していったときに,

 「少人数にすると悪影響の方が大きい」ことがばれてしまうかもしれないということである。

 「少人数の方がいい」と主張している人でも,

 「希望する学校に入れるのなら,少人数でなくてもいい」と言い出すかもしれない。

 それは,当然のことである。

 私が知っている範囲のことでいえば,「人気校」は部活動が活発で,成績もよい。

 結局,公立学校に求められている「学力向上のレベル」は,

 「せめて平均点レベル」というのが一般的な受け止め方なのかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
  

人の悪口を言ってバランスをとっている子どもと大人

 他人の悪口を言って精神的なバランスを保っているという子どもがいる。

 こういう子どもに,「人の悪口はいけない」という

 「当たり前」のことしか言えない教師がいる。

 子どものバランスが崩壊すると,自業自得だとして納得する。

 「悪者を退治した」と得意気になる教師がいたのだろう。

 「指導」の意味がわかっていない教師が,どれだけいたか,20年もたってみると,若い教師がそうであるのは仕方がないと思っても,同じような年配の教師が多すぎたら,

 「指導力不足の再生産」に拍車がかかるという危機感がもたげてくるので,これを書くことにした。

 なぜ,人の悪口を言うことで,バランスを保てるのか。

 家庭環境が影響しているケースが多いが,

 現状を分析しなければならない。

 友達はどうなのか。

 他の教師はどうなのか。

 攻撃対象になっている生徒にはどういう特徴があるのか・・・・。

 子どもを分析するまでもなく,

 「悪いことは悪いと言う」ことだけでバランスを保っている教師がいることに気づく。

 これも,本当は「指導対象」である。

 しかし,どうしても教師は後回しになる。

 そうこうしているうちに,

 「生徒が言うことを聞いてくれない」という愚痴をこぼすようになるが,もうこの時点で教師失格である。

 当たり前のことが,なぜ当たり前にできないのか。

 この答えは簡単ではない。

 「当たり前にやれ」などというのは,近所の怖いおやじでも言えるセリフである。

 教師の役割は,「指導すること」である。

 事例の件で,一番いいのは,

 本人ではなく,「友達の活躍」に期待することである。

 課題のある生徒が立ち直る一番のきっかけは,「友達」である。

 どういう声のかけ方が効果的かは,当たり前だがときと場合による。

 戦場は常に流動的である。

 こういうところにのこのこと出てきて,

 「悪いことは悪い」というのは,すぐに撃ち殺される。

 教師よりも,友達の方が,より戦略的に動いてくれる。

 一つ,書いておきたいことがある。

 古い「江戸時代史観」というのがある。

 「士農工商」という言葉の意味が分かっていない。

 おそらく,この「士」は何のことか?と聞いても,正解は言えまい。

 朱子学とセットにして学ぶべき言葉が「士農工商」である。

 古い「江戸時代史観」は,差別意識と結びついているからやっかいなのだ。

 これをとてもとても大事にもっている人がいる。

 歴史教育の生き証人だから,もっといろんな発言をしてほしい。

 誤った認識というのが,いかに人間を歪めていくかがよくわかる。

 私たち日本人には,江戸時代の人々がはぐくんできた

 「役意識」が受け継がれている。

 人は,「役割意識」をもって,社会に貢献してきたのである。

 それを,個人の欲望で打ち消そうとする人間が,教師のなかに紛れていた。

 教師を職業として選んでしまうと,どうしても自分の欲望のかたちが

 表に出やすくなる。

 上に見られたい,賞をとりたい,と思えば,そんなことばかりが話題に出る。

 これは,「役意識」ではなく,ただの個人的な欲望である。

 江戸時代の人々を甘く見てはならない。

 職業による身分の差別を口にするのは,最低の人間のすることである。

 そんなことで精神のバランスをとっている自分自身を最低だと呪ってほしい。

 警察に恨みがあるのは理解できなくもない。

 しかし,差別はいけない。

 自分がやってはいけないと書いていることをそのままやっていることに気づくべきである。

 自分が最低の人間だという自覚があれば,まだ正常の範囲内である。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

伊豆大島の惨劇を繰り返さないために

 防災・減災教育は,日本が「今」,本腰で取り組まなければならない最大の課題の一つである。

 教育実習期間中に,受け入れ学校は必ず1回の避難訓練を実施すべきである。
 
 義務教育はもちろん,高校,大学,そして地域住民も巻き込んだ「学習」を進めることが重要である。

 マスコミは報道機関であり,教育機関ではないから,

 災害が起こると

 「なぜこの災害が起こったのか」

 「なぜ避難指示が出なかったのか」

 などと専門家も呼びながら映像を中心として比較的長い時間を要して伝えてくれる。

 本来,流れるはずだった事件のニュースが,一切,入ってこなくなるのが大きな災害が起こったときである。

 教師としては,その長い報道の時間の1分でも割いて,

 減災のためにできたことの具体的事例を研究者や行政に語らせてほしい。

 「避難指示が出なくても,自主的に避難する」・・・これが究極の目標だろうが,

 「どこに避難すれば安全か」という情報は,地域の行政が責任を持って示すべきである。

 今回,大きな被害があった伊豆大島は,

 三原山噴火のときに「全島避難」を実現させた「あの伊豆大島」である。

 「プロジェクトX」と言えばこれ,というほどのインパクトのある出来事であった。

 溶岩流は町を飲み込まなかったが,あれほどの避難の規模が実現できる地域は,災害に立ち向かう「人間の強さ」を見せつけてくれた。

 台風の威力は,接近前にわかっていた。
 
 しかし,雨量が全くの想定外だった。

 ・・・また今回も,「想定外」が原因で,「土砂崩れは起こるはずがない」という「予想」となったのだろうか。

 当然だが,あの雨の中,真夜中に起こされて避難をさせられたら,かえって危険だった,

 という説明は成り立つ。

 問題は,その前に何かできなかったのか,ということである。

 常に行政は,こういう場合,非難の矢面に立たなければならない。

 しばらくマスコミは話題にするだろう。

 取材も続くだろう。

 しかし,発信すべきである。
 
 家屋の倒壊はやむを得ない。

 救える人命がそこにあったということを,全国に向けて発信しなければならない。

 台風はまたやって来る。

 「伊豆大島・元町の教訓」を語り継ぐことが亡くなった方々への供養となろう。

 まだ土砂の中で苦しんでおられる方がいらっしゃるかもしれない。

 私も2年間だけだったが元島民の一人として,一人でも多くの方が助け出されることを祈っている。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
 

「教えると学ばないのが人間」という出発点

 ふと,3週間の教育実習中,全く実際の授業を行わせず,授業参観だけさせておくのと,

 今まで通り授業をさせるのとでは,どのくらい「教育効果」に違いが出てくるか,と考えてみた。

 授業はさせないが,指導案は書かせる。

 指導教諭は,その指導案をベースにするものの,当然,指導案通りには授業はしない。

 授業が終わった後,実際の授業の展開を記した,指導事例を「指導案」のように書かせる。

 3週間で,事前に提出した指導案と,実際の授業がどれだけ近くなっていったかで,評価を下す。

 ・・・・授業をさせなければ,評価などできない・・・・それは当然の意見である。

 しかし,授業をさせてしまうと,その実習生が教師に向いているかいないか,瞬時に判断できてしまうのが哀しいところである。

 以前も書いた通り,ほぼ初対面の挨拶でそれがわかってしまうのだが,授業が始まった瞬間に確信に変わってしまうのが哀れである。

 どうせなら,授業を見る目だけをしっかり育てて,それを今後の成長の糧にしてほしい・・・というのも,哀しい願いである。

 せめて,1週間は授業参観期間,3週間を教育実習期間にする,という制度の変更ができれば,効果が期待できないだろうか。

 本当なら,最初の1週間で「この人から学ぶことはない」と感じた場合は,すぐに別の学校を探せる仕組みがほしいところであるが,そこまではもちろん無理であろう。

 人材育成のプロは,

 「教えると学ばない」という人間の弱点を知り尽くしている。

 何度となく研修を積み重ねても,成長できない人がいることくらい,だれでも想像つくだろう。

 「自ら学ぼうとする意欲」こそが成長の糧なのである。

 そういう意味で,古くから徒弟制度は究極の人材育成の方法であった。

 ある自治体は,しっかりと予算を組んで,今でも長期研修の先生を私の学校に送り出してくれる。

 1か月間,同じ部屋で時間を過ごしてもらうが,その先生に「教える」場面はそれほど多くはない。

 でも,授業は好きなだけ参観してもらう。

 生徒が授業中に書いた文章なども,読んでもらう。

 長期研修の先生の,指導者としての資質も力量もわからないから,何を学んでもらうかは,こちらが決めることはない。

 教育実習生にも,長期研修の先生にも,同じことを伝えている。

 子どもに教え込もうとするから授業は失敗する。

 子どもが何を考え,何を学びとろうとしているかがつかめるような授業をしないと,

 後で行かせる失敗ができない。

 子どもも失敗するし,教師も失敗する。

 だから,成長のきっかけが生まれる。

 そういう「教育の場」が生き残れるのも,そう長くはないのかもしれない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

国家の成熟化と公教育の役割

 オリジナルの分析かどうかはわからないが,日経BP未来研究所の川口客員研究員が示した「国家の成熟化のプロセス」とは,以下のようなものである。数字が大きい方のレベルが高ければ,それだけ国家が成熟していることを示すという。

1 安全衛生 (平和度,寿命)

2 経済成長 (所得)

3 法治度 (腐敗認識)

4 民主化度

5 人権尊重度 

6 社会貢献度

 5の人権尊重度は,教育指数,報道自由,所得格差,男女格差をもとに,

 6の社会貢献度は,UN負担率,ユニセフ貢献度をもとに数値化して,世界の各地域を比較している。

 日本は,「男女格差」だけがとても低いレベルのままであり,この点が現在までの,そして将来の「成長」への大きな障害になっている可能性がある。

 こうした「成熟化のプロセス」は,個人であればマズローの欲求段階説に従うものである。

1 生理的欲求→安全確保

2 所属と愛

3 承認と尊敬

4 自己実現

 こうした「段階」は,途中を飛ばして実現させることは難しい。

 だから,教育の課題も自ずと見えてくる。

 子どもの人権が尊重されていない状態で,社会貢献を求めるような教育をしたら,それこそ「強制」である。

 日本の教育は,経済成長を維持させることができるような最低限の学力だけから見ると,それなりの成果を挙げているのだろうが,

 第一段階の「安全」が保障されていない学校があることを知らない人はいない。

 異物が混入した給食から,教師による体罰まで,その幅は広い。
 
 国家なら成熟した段階にあるはずの人権尊重度を,行政が高めることができていない。

 成熟化しているはずの日本の弱点の一つは「男女格差」だが,

 その根幹には「個人の弱さ」があると考えられる。

 「集団としての強さ」は,「みんなで募金を集めよう」ということになると「その気」になるが,

 「個人として募金をする」人が少ないことからもわかる。

 「みんながやるなら私もやる」のが日本の教育の方向性である。

 今まで公教育の現場では,「みんなで決めたことは守る」が

 「自分が自分に課すこと」がおろそかにされてきた。

 これからは,

 「みんながやらないから私がやる」

 「みんなが言わないから私が言う」

 という「個人の強さ」を鍛える教育も重視すべきである。

 道徳の時間は,本来,4分の1がここに焦点化されるようになっているのだが,

 特別活動などとの関連を考えて,道徳では「個を強くする」方向性を打ち出してみたらどうだろうか。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

AKB48に学ぶ商品開発と新しい学校づくり

 日経BPヒット総合研究所上席研究員の品田さんは,現代のヒット作りのヒントとして次の3つを挙げている。

1 「所有」から「参加」へ

2 「いつも」から「今だけ」へ

3 「誰にでも」から「私だけ」へ

 インターネットで音楽が手に入る時代に,AKB48はCD販売の新記録をつくった。

 日本を世界一CDが売れる国にしたのは,AKB48の功績だという。

 CDには,

1 握手会へ「参加」できる

2 「今」購入すると,特典が付く

3 買った「私だけ」が総選挙に投票できる(1 「参加」できる)

 という3つの付加価値がついており,これが大ヒット商品になった理由だという。

 では,ここから企業の人々は,どんなことを学んで,「新しい価値」づくりに励むのだろう。

 小学校には,何人かの「カリスマ教師」がいる(いた)。

 もちろん自称しているわけではないが,大勢の参観者を招いて「芸」を披露している。

 こういう「教師」を商品にしたい人たちは,人寄せと書籍販売のために,知恵をしぼっていることだろう。

 商売道具とされた「子ども」たちが,どのように歪んでいくかは今日のテーマではない。

 「売り方」で「売れる量」が左右される市場経済の世界と,公立学校の運営など,全くかかわりがないだろうと思われるのが当然だろうが,だからこそ考える価値がある。

 AKB48や「カリスマ教師」たちのように,

 「商品」としての魅力があるわけでもない,

 どこにでもある学校やどこにでもいる教師たちが学べることはあるのだろうか。

 そもそもAKB48そのものの「商品」としての価値の源泉がどこにあるか。

 メンバーひとりひとりの魅力だろうか。

 それならみんなソロになって,別々に活躍できるはずである。

 AKB48の価値を支えているものは,「競争」と「規律」であるというのが私の考えである。

 今や「総選挙」と聞いてピンとくる言葉は,衆議院議員選挙だけではなくなった。

 「じゃんけん大会」がニュースになる時代になった。

 企業は,商品をとりあえず生産して,市場の判断にまかせ,不人気なら生産をやめる,ということを繰り返している。

 こういう無駄を選択する方が,調査費や研究費,広告費を増やすより安上がりだからいいらしい。

 「使い捨ての時代」である。

 AKBは,それが「市場に出る前」に行われている。

 これが「売れるべくして売る」しくみのもとになったというのが私の考えである。

 公立学校はそもそも,生徒たちが「集まるべくして集まる」ような存在でなければならない。

 それを支えるのは,やはり「競争」と「規律」である。

 ともに,AKBと同じように「組織内部」において機能すべきものでなければならない。

 そろそろ,学校評価の原案が出される時期である。

 「例年通り」という「悪習」から脱皮できるかどうかは,

1 教師ひとりひとりが教育課程の編成にどう「参加」できているか

2 「いつも」やっている当たり前のことだけでなく,「今」やると最も効果的なものは何かを考える

3 「誰にでも」できる当たり前のことだけでなく,「私だけ」ができる何かをPRする環境を整える

 この3点にかかっていると思われる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

その授業が上手くいかないのは当然である

 以前,ある小学校で実施された研究授業を,参観に来ていた教師が「自校でマネ」してみて,うまくいかなかった理由を不思議がっている話を書いたことがある。

 どこかの団体が判断してくれるような,教師の「指導力」「授業力」の問題ではない。

 研究授業の指導案がそもそもの問題だった,ということでもない。

 問題は,その指導案に何の批判も検討も研究も加えないで,そのまま授業を行ったことにあるはずである。

 教育実習生の授業が,指導案どおりに進まないことがある。

 私は,無理して指導案どおりに進めるよりも,大切なことがあると実習生には指導している。

 勉強しているのは,実習生ではなく,生徒である。

 このことを忘れた「はるか昔の実習生」先生は,「モノマネ」の「軽さ」を認識されていらっしゃらないのだ。

 日経ビジネス9月2日号の「有訓無訓」でYKKの吉田会長が,ご自身の体験を通して大事なことを書かれている。

>自分自身が体験していないことは,いくら熱弁を振るっても共感は呼べない。・・・・カリスマ創業者の言葉だけを真似ても,人の心は動かせない・・・。

>やってみて失敗して心に刻むしかない。

 研究授業を行った先生は,当日までに,どれだけ研究したことか。

 どれだけ生徒と闘ってきたか。

 授業で「上手くいった」なんていう言葉を使って安心しているうちは,

 「学び続ける」子どもなどつくれないし,「学び続ける」自分をつくることも一生できないだろう。

 授業が上手くいかなかった原因を自分で探ることで,

 何が大切かは自ずと見えてくるはずである。

 研究授業を行った先生に聞いても仕方がない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「優等生」がいれば,「劣等生」もいる

 「優等生」などという言葉が教育現場で語られたのはもうかなり昔の話である。

 現在では,「卵は物価の優等生」などという用法で残っている表現を,

 「生徒」に対して使うと,何が問題なのかは言うまでもない。

 物事を学校教育の枠内にあることにあてはめて考えようとするのは,

 二重の意味で無理がある。

 学校教育の現場は,それはそれは「特殊」な世界である。

 一般化できない話がいくらでもある。

 一方で,学校にいる子どもたちは,いずれ社会に出ていく人間であり,

 どんなかたちであれ,みんな「学校」を経験して社会の一員となっていく。

 学校でつけられた「レッテル」や「幻想」が,その後の人生に尾を引いていくことがありうる。

 「価値」を表現したいときに,どういう「たとえ」を使うことができるかで,

 その人間の質がわかってしまう。

 特に上下の関係,優劣の関係にうるさい人間ほど,

 学校時代に浸みついてしまった「差別用語」がぽろぽろと顔を出すのである。

 気の毒なのは,そういう人間を育てたのは間違いなく学校なのである。

 学校が再生産している「負の遺産」を洗い出すことも,

 教育改革を進めていくうえで忘れてはならない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

学習コンテストで私が狙っていたこと

 漢字・計算・英単語のコンテストでは,各クラス何人かの「100点」獲得者が出る。

 クラスの半分以上が「100点」をとることもある。

 運動会のような「ノリ」(・・・これは批判対象ではなかったか・・・)で,みんな頑張る。

 クラス数が少ないこともあるが,学級で平均点を競ったりすることはない。

 あくまでも全員が「個人賞」狙いである。

 コンテストの効果は,前の記事で述べた通り,「最低得点の上昇」が挙げられる。

 国語はそうでもないが,数学と英語は,学力の格差が非常に大きくなりがちな教科である。

 分数の計算ができない中学生は,問題文中に分数が出てきたら,もうそれだけでアウトである。

 英語の文をつくるのに,5~6個の単語のうち半分以上のつづりがわからなければ,部分点すらもらえない。

 こういう「底上げ効果」が重要だと感じている方が多かったように思えるが,

 私の本当のねらいは,「学力上位層の束をつくる」ことにあった。

 公立中学校においては,

 「学力上位層」は,比較的孤立しやすい傾向にある。

 ほとんどの生徒が考えてもわからないことを,すらっと解いてしまったり,正解を答えてしまったりすれば,白い目で見られるのは無理もない。

 ごくわずかな生徒を讃えるような望ましい人間関係を維持することはなかなか難しい。

 しかし,この「上位層」の「かたまり」があって,それらがうまく学級をリードできるようになったら理想的だ・・・というのが私の考えであった。

 教師の発問に堂々と答えられる生徒が10人程度いれば,授業に活気がでる。

 いつも2人とか3人しか答えないような授業では,そもそも授業として成立しているかどうかも怪しい。

 堂々と答えられる生徒たちが,適度に見当違いのことを発表してくれることが,授業が盛り上がる条件である。

 ここで私が呼んだ「学力上位層」の「学力」が,ただの「コンテストの点がよい生徒」でも,「成績がよい生徒」でもないことは感じていただけたかと思う。

 「学ぼうとする力」の高さが上位にいる生徒たちの「集団」が,私の呼んでいた「学力上位層」である。

 コンテストで100点をとった生徒は,

 「努力家」として一目おかれる。

 惜しくも100点を逃した生徒は,小さなミスの「重さ」を知る。

 などなど,様々な効果がある学習コンテスト。

 あなたの中学校には,ありますか?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

なぜ漢字・計算・英単語のコンテストは続いているのか?

 私が2校目の中学校に異動してすぐに始めた3つの「コンテスト」は,

 10年以上たった現在でも続いているようである。

 これらのコンテストに全員が参加してくれることによって,

 入試で10点台,20点台という得点しかとれない子どもがいなくなる。

 異動して最初のテストの点数には(私の社会科ではなく,数学や英語の点数)驚いた。

 模擬試験を受けさせると,1題目の計算問題から解けない中学生が,

 高校に入りたいと言っている。

 それならば,計算くらい解けよ,漢字くらい,書けるようになれよ

 というのが学年主任としての私の言葉だった。

 コンテストの企画には,当初,国語や数学,英語の教師の協力は仰いでいない。

 中学校というところは,新しい取り組みの趣旨は理解してもらえても,

 「だれがやるの?」という話になって,いつの間にかお蔵入り,ということがある。

 提案した人間が責任をもってやる・・・・これが学校改革の第一歩であったと思える。

 社会科の教師の私が,計算問題や漢字の問題をつくるのだが,

 途中から,数学の教師などが協力してくれるようになった。

 もちろん,係の生徒も駆り出す。

 専門の役員もつくり出す。

 みんなで運営する「学校行事」のようなものである。

 3つのコンテストは,努力さえすれば,だれでも100点がとれる「テスト」である。

 3つのコンテストで,すべて100点をとれば,「三冠王」になれる。

 3学年すべてで100点をとり,「九冠王」になることも夢ではない。

 「点数主義か?」と思われるかもしれないが,

 これで確実に「高校進学への自覚」が芽生える中学生がでてくる。

 コンテストまでの学習は,朝の20分くらいを使うことが多かったが,

 今は,「朝読書」を行う学校が増えている。

 それでも,・・・・多くの教師が異動によって入れ替わっても,

 このコンテストが存続しているということは,それなりの意義を多くの教師や生徒が

 感じてくれて,そして成果がでているからだろう。

 このテストについては,私なりに,大きなねらいがもう一つあった。

 それは次の記事で記したいと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

小学校への深い深い恨みの根っこと「学校選択制」

 保護者として,すくすくと育ってくれるはずと願っている学校で,

 我が子の人権が守られなかったときの

 学校や教師,教育委員会への強い憤りは,複雑な思いで受け止めざるを得ません。

 もし仮に,学校選択自由化などという甘い制度ではなく,

 担任教師選択自由化まで実施できていたとしたら,

 子どもの「不幸」は避けられていたでしょうか。

 どの小学校の,どの教師が担任になっても,

 結果は同じで,小学校や学校の教師や教育委員会は,

 本当に役に立たない存在なのでしょうか。

 不登校にしろ,いじめにしろ,学校規模がどんどん小さくなっている今の教育現場で,

 多くの人のためになる「豊かな対応」が実現されにくくなっているのは事実です。

 初任者が担任をつとめてしまうような小学校で,

 校長や保護者や子どもや教育委員会は,その「1年生先生」に何をどこまで期待していいのでしょうか。

 「学校選択制」が実質上,意味をなさない地域で,

 地元に一つしかない小学校や中学校が荒れたら,どうしたらいいのでしょうか。

 学校選択自由化が取り入れられている地域では,

 当たり前ですが,各学校は自分の学校の「特色」「良さ」をPRします。

 結局,どこも同じ,というのが「理想」なのかもしれませんが,

 PRがうまい学校とそうでない学校はあります。

 私は,PRは下手で全然かまわないので,

 「だめなところはだめ」とはっきり公言してもらえる学校であってもらいたいと思います。

 いじめが多い。

 学力調査の結果が低い。

 基礎学力が不足している子どもが多い。

 問題は,それに「どうやって対処しているか,対処するつもりがあるか」です。

 学校ができること,できないことを明確に保護者に伝えられること,

 その内容が適切であることが,今の学校には求められています。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

人事部にいた人は元気かな?

 私のブログは,教職教育に籍をおいているので,

 教師になろうとしている人にもご訪問いただいているようです。

 (アクセス解析で,検索ワードを調べられるのでわかります)

 間もなく,採用試験の合格発表がある頃でしょうか。

 私と同期くらいの指導主事に,人事部に入った人がいました。

 お気の毒に。

 子どもと何の接点もないところで部屋にこもってやる仕事が,楽しいわけがありません。
 
 しかし,その人がかかわっていたかどうかは知りませんが,

 大切な仕事は,「教員採用」です。

 採用試験の問題づくりなんかは適当でいいのですが,重要なのは,面接による「選抜」です。

 「いい先生の卵」を見抜けるかどうか。

 私は,「大当たり」の先生を選んだ事務の人には,表彰状をあげたいと本気で思っています。

 その逆は・・・・当然・・・・。

 「なぜ合格させたか」という質問に,答えてもらえる仕組みがほしい。

 その答えによっては,「明らかなミス」が発見できるかもしれない。

 その答えによっては,その教師の一生を左右するくらいの「教育的な効果」があるかもしれない。

 ・・・なんていう言葉を届ける意欲も今はわきません。

 同期の指導主事は,もう校長になっているころでしょう。

 私は主幹でもなく,ただの教諭。

 人生はわからないものです。

 退職校長がなぜか現場に戻り,いい気になって仕事内容を公開していますが,

 教育の仕事なんて,こんなものです。

 上に行けばいくほど,つまらなくなる・・・・。

 何ていうこととは逆の,心にもないことを筋道立てて面接で話したから,

 私も教育管理職候補者として合格し,指導主事になったのでしたが・・・・。

 もし私が今の職場に来ないで,

 そのまま行政にいたとしたら,真っ先に希望したのは人事部かもしれません。

 何度か書いてきましたが,自分のことはさておき,

 私は「教師に向いている人かどうか」を見抜く力に関しては,強い自信をもっています。

 書かれた文章でもわかります。

 すでに書かれている文字でわかると言ってもいいかもしれません。

 本人に会って話をして,「意外な感じ」を抱いた経験がほとんどありません。

 多くは教育実習生の話ですが,生徒の保護者が書いてくれる提出物を読んでも,同じことが言えます。

 保護者面談では,保護者会とは別の,「あの提出物の字」ににじみ出ていたその方らしさが伝わってきます。

 ・・・・こんなことを言っても人事部に抜擢してくれるどころか,

 もっと厳しい場所に行かされるのが関の山だったでしょうね・・・・。

 ときどきふと,「あの人事部の人,今,どうしてるのかな」と思うことがあったので,こんな文章になってしまいました。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

「気分」「ノリ」で集団を動かす教師の罪

 小学校から中学校に進学するときに,

 子どもに自覚しておいてほしいことがある。

 それは,「小学生のころはなんて子どもだったんだ」ということ。

 小学校の教師たちのなかには,

 胡散臭い本やたまたま見学した「有名人」の教師の影響を受けて,

 「子どもを動かす」ために,学習内容とは全く関係のない「儀式」を行うことがある。

 それによって,子どもの「気分」が高揚し,「ノリ」がよくなる,というものである。

 早い話が,「豚も煽てりゃ木に登る」ということ。

 「楽しい」とか「おもしろい」とかいう感想を引き出すために,

 余計なことに時間を費やしている,という「気づき」は,

 2割くらいの「まともな小学生」はその場でできていながら,

 反抗できずに「おつきあい」している。

 逆の2割くらいの「困った小学生」は,中学生になっても

 何の進歩もなく,仕舞には自分なりの「気分」や「ノリ」に従って

 いじめはする,問題行動は起こす,という結果になる。

 中学生には,「ごまかし」はきかない。

 ごく一部に,中学生にも上述の小学生向けの「儀式」を行う教師が見られるが,

 「まともな中学生」はもう5割くらいに達しているから,その効果は

 むしろマイナスに働くことの方が多い。

 「学習」と「遊び」の区別がつかない小学生や中学生は,どうやって見分けをつけるか。

 簡単な質問をすればよい。

 「楽しかったですか」「おもしろかったですか」という質問には何の意味もない。

 「何がどのように楽しかったですか,おもしろかったですか」と聞く。

 そうすると,学習目標とは全く異なること・・・たとえば「班で話し合ったこと」などと答える子どもが出てくる。

 これが,「気分」「ノリ」で子どもを動かす教師の罪である。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

学校の「ムダ」は,いったいどこまで省くことができるか?

 教育の予算は削られていく。

 最も削りやすい場所だからである。

 「税金の無駄を減らしてからにしろ!」

 と文句を言うのは自由だが,

 学校の教師の場合は,まずは自分がしているムダをどこまで

 減らせるか,ということを考え,実践するべきである・・・・

 という批判は当然考えられるだろう。

 そこで,管理職に「税金の節約」にどのくらいの自覚があるか,

 教育委員会として,あるいは住民として,調べる方法がある。

 教師の一人に,

 「この学校の電気代は1月いくらか?」

 「1学期あたりの紙代はいくらか?」

 と聞いてみればよい。

 もし答えられないなら,

 「いくら分,節約してみようか」などという考えることすらできない。

 あしもとのことができずに,

 人の話をしてはならない。

 個人の趣味なら,家にどんなに無駄な機械をそろえようが自由だが,

 学校は「家」ではない。

 ましてや,「いくらでも電気や紙は使い放題」なんていう場所ではない。

 プールに水をひく水道を開きっぱなしにして,

 ある学校が「どぶに捨てた税金」がいくらか,など,

 教育委員会はただ情報を流すだけでなく,

 「その金をどうやって取り返すか」を真面目に考えるべきである。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
 

高視聴率番組の制作現場から学べること

 俳優の堺雅人さんが語ったとされる,『半沢直樹』撮影の舞台裏は,

 学校現場の教師たちへのメッセージにもなると思われる。

 厳しい監督。

 納得のいくまで,繰り返し同じことに取り組ませるこだわり。

 今,学校現場に,

 この厳しい監督と,本物を求めて演技を繰り返す俳優の関係が見えるところはあるか。

 校長と教員,教員と生徒。

 どこかにあるだろうか。

 「楽しいこと」「飽きないこと」ばかりを重視する,どこかの先生に聞かせてあげたい。

 本当に納得のいくまで,苦しさに耐えるような学習ができる環境をつくらなければ,

 少なくとも作文だけの「生きる力」は身についたような気になっても,

 本当の「生きる力」など手にすることはできないだろう。
  
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
 

全国学力調査結果の活かし方

 全国学力調査の問題は,新聞に公開されるようになっているので,

 教育に関心のある人は,その難易度や子どもの「でき」について,様々な考えをお持ちだろう。

 私としては,特に基礎的な問題ばかりで構成される「A問題」については,

 「全国的にできがよくない」と考えている。

 新聞も個人のブロガーも,「相対評価」=「順位」ばかりを気にしているが,

 今,学校の評価は「絶対評価」が基本になっていることをご存じだろうか。

 「全体の中でどこにいる」

 ということよりも,

 「目標に対する達成度がどうか」を評価するのである。

 だから,本当は,「何点以上取ることが望ましい」という基準があって,

 平均点ではなく,「それを上回ることができた生徒」が何%いるか,

 というデータの出し方もあり得るのである。

 これが,自治体によっては,中学生の「成績上位者」が私立に抜けてしまっており,

 「上位者が少ない」ことがバレるのは困る,というタイプの心配をするかもしれない。

 そういう場合は,小学校と連続したデータがある生徒だけを抽出した,

 「小中の比較」をしてもよいはずである。

 いずれにせよ,

 「どこかと比べて上か,下か」を知りたくなるのは,仕方がない。

 税金を使って集めた情報は隠すものではなく,税金を出した人間のために公開すべきである。

 その公開の方法も,工夫すべきである。

 繰り返すが,私は,「合格基準」を明示すべきだと考える。

 「何点以上なら,『おおむね満足』と言えるのか?」という問いに,調査を実施している国は答えるべきである。

 もちろん,「観点」を指定してもらってよい。

 公的な基準を設けることが,「絶対評価」の「絶対評価」らしさに結びつく。

 ・・・・・なんてことを書いて,

 「そんなことはできるわけがない」

 というのが行政を経験した身としての実感である。

 「目標に準拠した評価」ほど,あてにならないものはない。

 全国で全く一緒の問題を解かせていて,もし

 A県では「70点以上でおおむね満足」

 B県では「60点以上でおおむね満足」

 と判断してしまったとしたら,「おかしい」話になってしまう。

 が,現実としてはそういうところだろう。

 「上位20%の生徒の平均点」などといった

 「きめの細かい」情報公開を,とりあえずは望みたい。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
 

全国学力調査の学校別成績公表に反対する主張の裏にあるもの

 中学校の学力調査は,「国語」「数学」で実施されている。

 この結果を行政が公表する意義や目的には様々なものがあろうが,

 学校を選ぶ保護者たちが「それを知りたい」と望むならば,公開しなければならないのが行政のつとめである。

 データを隠すことが「教育的配慮である」という考え方もわからなくはないが,

 どう考えても「知る権利」の方が重要である。

 「データが公開されれば,人気校と不人気校に二分される」という考え方がネット上に見られるが,それは非常に極端なものである。

 もちろん選択で迷っている二校があったとして,最終的に,調査結果の点数が高い方に決めるという人は出てくるかもしれない。

 「調査結果の数字」は,あくまでも選択肢の一つにすぎない。

 「調査結果を重視して学校は選択される」と強硬に主張したければ,それだけの根拠を示すべきである。

 そういう主張をすること自体が,保護者や子どもをバカにしているのだと気が付いてほしい。

 仮に,「成績が悪い」ことだけを理由に,入学希望者が激減する中学校があったとしたら,

 そんな中学校にはそもそも存在意義がなかったと考えることもできる。

 中学校には,部活動をはじめとして,保護者や子どもが期待を寄せている機能がたくさんある。

 たかが「国語」と「数学」の成績が悪いだけで,そっぽを向かれてしまうような魅力のない学校があるのなら,それは税金の無駄というものである。


 中学校の教師に対して「結果の公開に賛成か反対か」と真面目にインタビューしたら,

 教師は「子どもの立場」と「自分の立場」のいずれを重視するにせよ,どちらかというと「反対」と答える人が多いだろうと思われる。

 しかし,ここで想像してみてほしい。

 調査結果が非常に悪い学校(の校長や教師)が,

 「できのよくない子どもたちが多いことがばれるのはよくない」ことを理由に情報の公開を拒むことを。

 「●●中は勉強ができない学校」というレッテルを貼られたくない。

 少なくとも公開をしなければ,そういうレッテルを貼られる心配はなくなる。

 ・・・・なんていう「思考」を働かせているとしたら。

 そもそもそんな低レベルな中学校など,あるわけがない。

 もしあったとしたら,そんな中学校は本当になくすべきである。

 ダメな学校というところは,止めどなく「後ろ向き」なものである。

 「前進した結果」という「未来」を想像することができない。

 「明るい未来」を創造する気がない。

 ・・・・・・・・・こういう発想をする親がいることを忘れてはならない。

 学校選択自由化を実施した地域でつとめていた経験からすると,

 学校間格差は,現実的に存在し,「不人気校」になってしまう理由は,本当に様々である。

 部活動が活性化しなくなるから,そもそも生徒数が少ない中学校は,ますます少なくなる傾向がある。

 しかし,部活動の指導に熱心な教師が異動してきて,一部の部が強くなると,また人気が復活することもある。

 中学校の経営努力と生徒のがんばりによって,

 学力調査の結果が劇的に向上すれば,それだけで注目材料になってしまうということはあり得る。

 いずれにせよ,
 
 学力調査の結果は,「隠さなければならない情報」とは言えないというのが私の考えである。

 あと,選挙に敗北した党の代表者は最も叩きやすい「素材」なのである。

   
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ
 

中学校という職場は女性蔑視の世界だった

 女性蔑視が体に浸みついて拭い去れない亡霊がいる。

 その亡霊の影響を受けたベテラン教師たちが,今日もどこかで愚痴をこぼしているかもしれない。

 「おれも育児やってんだぞ!遅く来て早く帰りやがって!」

 ・・・・・・。勤務時間を守っている人への風当たりは強いのが中学校という現場である。

 今も昔も,一般企業が,「職場の環境のために女性を雇う」なんてことをしていると公言できるわけがない。

 「職場の花」は「仕事などできなくてもよかった」なんて言いたげな亡霊は,

 そこかしこで不快な印象を振りまいている。

 こういう汚染源が学校現場に一人,二人いると本当に困るのである。

 「口害」という環境破壊は,女性の過剰反応を生んでいった。

 年配の女性教師の中には,「女性だからと陰口をたたかれないように」

 結婚も育児もせずにやたらと学校で気合いを入れている人もいた。

 指導主事にも「過剰に女性らしさを消す」人がいた。もちろん逆もわずかにいるが。

 そういう女性教師を生んだのは,中学校や行政の「男性社会」である。

 「中学校に求められる母性」「中学校に求められる父性」を語り始めると朝が来てしまいそうなので,

 ここは簡単に締めくくっておく。

 日本の女性は本当に強いと思うが,

 オトコがあまりにも情けなくなっている分,

 その強さがまぶしくて仕方がない。

 何が言いたいのかわからなくなった。

 妻と,母と,祖母に感謝したい。

 ひどい話を悪びれもなく書いている亡霊が本当に目障りだが,

 正直なところ,静かに仕事をしてくれる女性が職場にいると,ほっとする。

 また,自分に足がないことをしっかり自覚している亡霊は将来が有望である。
 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

いよいよ始まった「土下座強要」(「半沢」効果か?)

 もちろん,「半沢」効果かどうかはわからない。

 昔から,客に対して失礼な態度をとった店員が,「土下座」を強要されるケースはあっただろう。

 今は,その場面を携帯で撮影し,すぐさまネットで公開してしまうような時代である。

 「土下座」は顔が写らないから,抵抗感なく公開できてしまうという問題もあるだろうが,

 「謝っている場面が公開される」のは,不祥事を起こした企業のトップや学校の管理職だけではない時代になった。

 「土下座」は,それに応じれば,とりあえず「騒ぐ」ことはしなくなるので,

 他の客への迷惑を考えれば,すぐにしてしまうケースが多いのではないか。

 接客にかかわる仕事のマニュアルで,「土下座」規定が存在する企業があれば,ぜひ教えてほしい。

 教師がそういう場面に遭遇したとき,どうしたらよいか,の参考になるかもしれない。

 つい最近書いたように,私には「土下座」の経験がある。

 ただ,頭を低くしただけで,顔は上げたまま,相手の中学生も私とほぼ同じポーズをとっていたので,

 「正式な土下座」ではないかもしれない。

 それにしても,視聴率40%のTVドラマでの土下座強要が,

 視聴者に何の影響も与えない,ということは考えにくい。

 これから,「土下座ツイート」が続々と登場するだろう,というのが私の予想である。

 ・・・しかし,「土下座」されられた仕返しが「土下座」というのが,

 何とも平和な国の象徴である気がしないでもない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ


 

部活指導でしか役に立たない教師にならないために

 中学校という職場は,部活動の指導があるために,

 高校で言えば昼間と夜間の定時制の仕事を両方やっているようなところがある。

 もちろん,私が勤めていた中学校のような,夜の9時まで部活動がやれる学校などもうほとんどないだろうが,部活動が終わってから次の日の授業の準備をすると,深夜になることも少なくない。

 テストの準備や採点,成績をつける時期,行事の前,研究発表会の前なども遅くなりがちである。

 土日の部活に加えてさらに私的・公的な研究会に属していたら,本当に

 「どっぷりと」教育に浸かることができる。
 
 私も芯まで浸かっていて,よく結婚できたものだと思う。

 これは私の母親と家内の母親に感謝しなければならない。

 本人同士が会う前に,両者で意気投合したのが結婚の最大のきっかけである。

 結婚してすぐに家内が気づいたことは,

 私が土日に家にいないということである。

 もちろん一日中ということではないが,

 「一日,お出かけする」という予定が立てられない。

 「部活未亡人」の話は以前も書いたが,

 これは女性の教師にとっても似たようなところがあるかもしれない。

 さて,本題に戻ると,

 部活動の指導ができない若い教師が

 同僚や生徒たちから白い目で見られるのは,
 
 ほとんどの教師希望の大学生も同じような経験をしているからわかると思うが,

 逆に,部活動の指導しかできないというのは,

 同僚にとって半分は(部活動の指導をしてくれることは)ありがたいが,

 その教師がやるべき仕事の多くを肩代わりしなければならない部分については,

 何とも耐えがたいところがある。

 残念ながら,大会で上位に入るような部の顧問は,それだけで十二分な「居場所」を確保できるのが中学校というところである。

 もし,生徒にもめぐまれたそんな地位にはつけないと感じている人は,
 
 初任者か二年目くらいの時期,まず,学年主任くらいの目から見た「役に立つ教師」「使える教師」とは何かを見定めてほしい。

 「足を引っ張るレベル」にはならないですんだ場合を考えてみる。

 (これは「役に立たない」どころではない話であるから)

(1) 問題行動を起こした男子への指導ができるか

(2) 問題行動を起こした女子への指導ができるか

(3) 200人規模の集団を静かにさせ,同じ指示を徹底させることができるか

(4) 部活動の指導ができるか

(5) 学年集会の司会・進行ができるか

(6) 学年行事の企画・運営ができるか

(7) 学年の委員の指導ができるか

(8) 保護者会で気の利いた話ができるか

 最低限,クリアしなければならないのが上の8つである。

 これらがだめでも,

(9) 成績処理ができるか,HPの更新ができる

 場合は,ただこれだけで,「役に立つ」教師の仲間入りができる。

 ただし,これは「事務職員」と同じレベルである。

 重宝がられるのでそれだけで気分がよくなる人がいるかもしれないが,

 (9)もできて(1)~(8)もできる人が登場したときの悲劇は想像するのもつらい。

 
 「学習指導の話はどこに行ったのですか」

 と質問されそうだが,中学校という職場には,

 学習指導の技能を教員同士が高め合うという機能はない。

 (なかった・・・というべきか。教育委員会としては,努力はしている)

 だから,授業が崩壊しない程度にできていれば

 (簡単に言えば,授業中に生徒が教室から抜け出なければ)

 特に問題はない。

 高校になると,「生徒の模擬試験の結果が悪い」という

 教師の学習指導の能力の低さの証明となる(もちろんなるわけないのだが)

 データを突き付けられてしまうから,

 模擬試験対策のような授業をする必要が出てくるかもしれないが,

 業者テストが廃止になってからの中学校では,

 指導力不足の教師にとっては「天国」「楽園」となってしまった。

 (免許更新で免職にする野望は潰えてしまっている)

 
 学習指導では,最低限,「自分ができる」ことと「生徒ができるようになる」ことは

 別のことだという認識をもっていることが大事である。

 ・・・なぜそんな当たり前のことを? と疑問に思われるかもしれないが,

 その違いがわからない教師が,おそらく「大学」>「高校」>「中学」>「小学」という量で

 存在する。

 授業で「独り言だけ話して帰っていく」(これは,ただしゃべっているだけ,という意味)教師の量は,上の式が正しいはずである。

 学習指導の力を測る簡単な方法は,

 生徒がやることをうけて,

 教師がどういう反応を示すことができるかを見ればよい。

 中には,何の反応も示せない人がいる。

 こういう人は,家で本を読む方が向いているわけだから,

 一日も早く転職してほしい。
 
 自分に対する批判的な反応に対しては非常に敏感なのに,

 疑問を感じて困っているような人への反応が全くできない人がいる。

 こういう人を,面接で見破る方法を教えてあげたい。

 話がまた逸れてしまった。

 「どういう人が,求められているのか」

 「どういう行動が,求められているのか」

 これを,職場,授業の現場で,見定められる力をまず養いたいものである。

 それには,何かをまずは「やってみる」ことが大事で,

 「相手が喜ぶかどうか」を判断基準にしてみるのもいい。

 なお,子ども(中学生や小学生)に限らず,日本では「お世辞文化」がある。

 「本当に喜んでいるかどうか」は,「言葉」だけを頼りに判断してはならない。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

教育実習で何を得たかを採用試験の面接官が知る方法

 「毅然とした態度を取れ」

 「教師らしくしろ」

と指導教諭から注意されたとき,教育実習生のあなたなら,どのような「態度」をどう改めようと思いますか?

 まずは,どのような場面の,どういう「態度」が問題だったかを確かめてみよう。

 廊下ですれ違ったときに,生徒が壁に向かって唾を吐いた。

 あなたならどうしますか?

 選択肢は4つ。

(1) だまって通り過ぎる。

(2) 呼び止めて注意する。

(3) 呼び止めて,雑巾で唾を拭かせる。

(4) 呼び止めず,雑巾で唾を拭く。

 たとえばこの場面で,(1)の選択肢をとったことを教師に知られてしまって,冒頭の注意をされたとします。

 どうすべきだったのでしょう。

 こういうケースの場合,指導教諭によって,当然「指導方針の違い」があるでしょうから,「これが正解」というものはありません。

 注意の仕方からして,その指導教諭は(2)か(3)を求めていたことは想像できます。

 しかし,私の場合の正解は,(4)です。

 (2),(3)の場合,「指導力」のない教育実習生なら,すぐさま対教師(学生)暴力が発生する恐れがあるからです。

 教育実習生にとって,決定的に足りないのが,

 生徒一人一人の『個性』に関する情報です。

 もしかしたら,その「唾」は「歓迎のしるし」かもしれません。

 「挨拶」の代わりなのかもしれないのです。

 もちろん,通りかかったときにたまたま唾を吐いたという「偶然」かもしれませんが,それはここでは考えないことにしています。

 唾を吐いた生徒が,どういう生徒なのかを担任の教師からじっくり聞くことが,掃除した後にすることです。

 少なくとも教育実習中は,しっかりを「目をかけていく」ことが求められる生徒であることは確かです。

 こういう「頭のはたらかせ方」ができない

 「単純棒振り(指揮者のこと)型」の教育実習生・・・特に,体育会系(体育会的文化部系も含めて)の,

 「上下関係に厳しいことが当たり前の世界」で長く生きてきた大学生の場合は,

 ここで「事件」に発展する行動を起こすかもしれません。

 学校というところは,

 休み時間の廊下はもちろん,

 授業中でも,

 生徒は「教師が適切な反応をすべき」さまざまな言動をとってきます。

 「指導力不足教員」というのは,端的に言えば,

 こういう場面で「適切な反応ができない教師」のことです。これは私の考えです。

 一般社会では,そうではなく,「不適切な反応をしてしまう教師」の意味なので,数はある程度は限られていますが。

 教育実習生は,経験がないのだから,「適切な反応ができなくて当然」という考えもあるでしょう。

 大事なことは,「適切な反応ができなかった」自覚がもてること,「適切な反応をする」ことへの自覚を強く持つことです。

 実習中は,「実習手帳」というものがあり,詳細を毎日指導教諭に報告し,アドバイスをもらっていると思います。

 採用する側から言えば,この実習手帳こそ,採用試験の面接で活用したいものです。

 「突っ込みどころ」の宝庫が「教育実習手帳」です。

 大学で学んだことも大事ですが,教育実習を行った学校現場で何を学んだか,

 それが教師になってからの財産になりそうな人を採用すべきです。

 逆に,「負の財産」を背負ってしまった人には,大学院に進んで,「二度目の教育実習」を実施する機会をもってもらいたいと思います。
 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へ

« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より