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「間違い」「ケアレスミス」に寛容な日本

 私の高校時代の担任との初体面の場面は今でもよく覚えている。

 お名前を板書され,「年賀状の宛先の字を間違える生徒がいる」ことに立腹されていた。

 だから,その担任に手紙を書くときは,注意力をいつもの倍にして書いていた。

 安倍総理が東電への視察の際,「安部」と誤記された件について,

 中国の人々が興味深い反応をしてくれている。

 「某国なら大変なことだ」

 「某国」がどこか,言うまでもない。

 現場での安倍総理の反応がどうだったのかは知らないが,

 おそらく日本では「ああ,間違えちゃったのね」で終わりであろう。

 何しろ,国名の呼び方が「ニッポン」でも「ニホン」でも,どっちでもいいですよ,という国である。

 こういう「あいまいさ」が,一方では「ゆとり」「余裕」「寛容」の表れであり,

 他方では「いい加減さ」の象徴となる。

 私は自分の学校のテストで,「漢字の間違い」には寛容である。

 あくまでも社会科のテストであって,国語の漢字テストではないからだ。

 もちろん,間違うべきではない漢字もある。

 そう書いてしまうと,意味が全く異なってしまう,という類はそれに当たる。

 「きちんと正確に。失礼のないように」という配慮は,とても大切である。

 しかし,それを気にしすぎて,「何も書けなくなる」のはもったいない。

 私の娘の名前の漢字を,幼稚園の先生も小学校の担任教師も誤記したことはかつてここでも紹介した。

 文句を言ったことはないが,わざとらしく間違った漢字を大きく書いてみたことはある。

 東電に関しては,漢字の間違いよりも,大事な「間違ってはいけない仕事」がある。

 こっちに全神経を使ってほしい。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より