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通知表の所見は,担任の思いつきを伝えるものではない

 教育実習で実際に書くことがまずないものが,

 「通知表の所見」である。

 これは,担任の教師が書くことになっている。

 「所見」とは,日頃の観察の結果を書くのではない。

 内容についての指導が全く行き届いていない学校があるが,

 校長印が押されているので,それは担任教師だけでなく,校長の質の問題である。

 たいてい,通知表を渡す1週間くらい前に書いて,管理職がチェックし,校長印が押されて担任に戻されたものを,終業式の日に担任から子どもを通して保護者に渡されるものである。

 子どもに対しては毎日の生活や面談で話しているような内容なら,「そんなことはないよ」と子どもから指摘されるようなことは書かれない。

 指導要録に残す記録とは異なり,保護者へ「通知」されるものだから,たいていの場合,「主にどこをどう頑張ったのか」「どこが最も気がかりなのか」を伝えるのだが,そんな情報は,もっと日常的に家庭にフィードバックしなければならない,という考え方も成り立つ。

 2学期制の学校も増えていることから,1年に2回しか「通知」されない情報が,それほど重要なものと考える方がおかしい。

 では「あるべき所見」とは何なのか。

 私の考えは,生徒本人が次の学年,学期のスタートに向けて,最善の「個人目標」を立てるヒントになる内容を中心に書くことである。

 一段階高い目標に当たる内容をあえてぶつけてみる場合もあるし,無理をさせないために,スモールステップの目標を具体的に示してしまう場合もある。

 キーワードは,「非日常性」である。

 通知表は,子どもや保護者への「お手紙」ではない。

 校長の印が押されて保護者に届けられる,学校からの生徒への「評価」の集大成である。

 私の勤務していた学校では,「担任所見」以外に,「教科担任所見」も入った通知表を作成していた。

 ただ欠席日数が多い,少ない,で苦情がくる時代は,いい加減に終わりにしてほしい。

 問題は,「所見」の質=「評価」の質である。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「沙中の回廊(下)」より
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  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
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  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より