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静岡県の学校の管理職には説明責任が求められている

 「知る権利」を重視するのは,民主主義社会では当然のこと。

 質問されたら,持っている情報を公開するのが教育委員会のつとめである。

 「秘密にしなければならない情報」を調べるために,わざわざ税金をつかって(学力調査を)実施しているわけではない。

 静岡県というところは,管理職の異動についての「予想記事」が掲載されるような,それがどの程度,特殊であるのかは調べていないのだが,少なくとも東京都ではあり得ない「慣例」がある地域である。
 
 その新聞記事には管理職の細かい「業績」までもが掲載されている。

 「業績」が強く求められているのが静岡県の公立学校の管理職であり,あわせて「説明責任」も問われているから,並の「教師」や普通の「神経」では務まらないということがよくわかる。

 当たり前の話だが,副校長や校長になったとしても,その職責を果たせないことが分かった人物は,すぐにでも降格すべきである。静岡県ならそこまでできるだろう,という期待をもっている。

 学力調査の結果が悪い学校の校長名を公開するというのは,それぞれの校長の「説明責任」を果たさせるという意味では,非常に「趣旨」が分かりやすい方針だったのだが,それが知事の圧力によって「上位校」の校長名の公表となった。

 そんな名前を知ったところで意味はない,というのが「知る側」の意見だし,「出す側」の意見でもあるだろう。

 校長名などよりも,学力調査関係のデータで知りたいことは,山ほどある。

 たとえば,学級の人数と得点の相関関係である。

 少人数の学級ほど,たとえばB問題の得点が高いという傾向が認められれば,「それだけ言語活動を充実させられる環境であることが大切なのだ。だから,少人数学級を目指すべきだ」という主張の根拠になる。

 それが聞こえてこないのは,簡単な話,そういう相関がないことがわかってしまっているからだろう。

 下手に30人学級などとやると,1学年31人だと15人と16人の学級になってしまう。

 こんな小さな規模では,教育効果が望めないような活動を,今まで日本の学校ではやってきたはずである。

 学級の規模を小さくすればするほど,教員の質が落ちていくことを,校長は主張できる立場にある。

 校長は今まで,あまりにも「無色透明」な存在であり過ぎた。

 学校の教師が犯罪などの不祥事を起こしたり,児童生徒が不幸な事故等にまきこまれたときだけ,「存在感」が出せる(しかも,非常に情けない姿で)のが,学校の管理職だった。

 これからは,「よりよい人材=教師を強く求める」活動を推し進めるような存在であるべきである。

 ・・・・そんな管理職像を思い描ける場所は,今のところ,静岡県しかない。

 現文科大臣は,今から10年前は,「公設民営を推し進めたい」という意欲を持っていた。

 どういうタイミングでしかけようとしているか。

 国にお金はないのだから,民間に頼るしかない。

 半分のお金で,2倍以上の能力のある人間が集まる・・・つまり,

 「公立」をやめれば「効率」が4倍

 と言われる日が来るのがおそろしい。


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コメント

 >静岡県知事川勝平太 またの名を嘘つき平太・・・この度は、全国学力テストで小6が最下位だったことから事は始まったようですね。
 >下位100校の校長名を公表すると唐突に表明したからさ~大変!
 >学校名を公表しないが文科省のルール、校長名とは記載されていないからこれはOKだとする県知事。
 >これに対し文科省では校長名イコール学校名との認識を示し県教委はこれを順守すべきだとの見解。
 >今回の件で、嘘つき平太に屁理屈平太がプラスされた。

学校長は、学校教育に責任のない人なのか。ただ、他の教員よりも金を多く貰っているだけなのか。
その責任者であるならば、問題があれば、名前を明らかにされても仕方がない。
問題の解決には、何よりも責任者の自覚が必要である。

意思のあるところに責任はある。
意思のないところには、責任がない。
責任者は、責任を持って問題の解決を図ることを期待されている。
無意思の責任者には、問題を解決する力はない。

死刑執行人は、殺人罪に問われない。
彼らは、殺意がないからである。彼らは ‘頼まれ仕事’ をしているのである。学校長の仕事もそのような ‘頼まれ仕事’ なのであろうか。

日本人には、意思がない。
意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制がない。
だから、日本人には、意思がない。

非現実 (過去時制と未来時制) の文章内容が表現できなければ、際立った個人差は出ない。どんぐりの背比べというか、犬と犬の違いに終始する。
個人主義を理解することも難しい。

我が国がひっくり返った時にも、国の政治責任者は出なかった。
「責任者を出すな。犠牲者を出すな」と言う声が上がった。
意思のない人が責任を追及されることがあれば、彼はまさしく犠牲者であろう。動物愛護の精神が必要。
学校長も、そのようなものか。とかく、この世は無責任。

心のある人とは、どのような人か。
自分の感情を表現する人か。ならば、歌詠みの人か。
自分の意思を表現する人か。ならば、行動の人か。

日本人には、意思がない。だから、自分の意思を示さない。
我が国は、世界の中にあって、世界に属さず。
日本人は、無為無策で高踏的*なのか。
我々は自分自身の意思を示すよう心掛けて、来るべき国際化社会に備えなくてはならない。

 *高踏的 (自分ひとり高いとしているようす。おたかくとまるようす。)

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


コメントありがとうございました。

開示する側も,法に則って公開できる情報を公開しなければならない,という話ですね。

たとえば静岡県の校長も,「うちの学校の平均点が低いのは,軽度とは言えない障害をもっただれさん,だれさん,だれさんの得点が~であり,この~人の得点をのぞけば,平均点は~点となります」という話を具体的にすることはできません。

結果責任と説明責任は教育の仕事では一致しにくいのが現状です。

まずは,自分たちがどのような教育を行ってきたか,という説明責任が果たせない学校をなくすことが第一でしょう。

説明責任を果たさない、教育関係者にとって都合の悪い事実を書いたら削除か、な~んだ。
さすがに教育関係者はモンスターだね。

ところがすごいのが、いじめにあって不登校になった娘の自己情報の開示請求をしたら、板橋区教育委員会が出してきた文書で墨塗りでない部分は、娘の氏名、住所、生年月日、担任氏名のみ。
こんな卑劣な生き物が教育関係者であり、いじめ隠蔽するような教師は手厚く守られる。
因みに文部科学大臣様様のお膝元でこれだから。
「学校なんていらない」
もちろん、もっともっとひどいエピソードはたくさんあって、いざ、自分達が被害にあったとき、教育関係者がどういう対応をするのか、という事実は広く知らされるべき、それこそ情報開示、共有すべきだと思う。

コメントありがとうございました。
 
説明責任は,相手が企業なら消費者である私たち,学校なら市民である私たちが相手に求めるものです。

それを果たさせる最も簡単な方法は,「質問すること」です。

その回答によって,相手を評価することが可能になるのです。

いじめ自殺など、子供の命に関わることですら説明責任を果たさないような卑劣な人種が、この内容のことに説明責任なんて感じるわけ、ないんじゃないかな。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「春秋の色」より
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    「沙中の回廊(下)」より
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    「子産(上)」より
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    「青雲はるかに(上)」より
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    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
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    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より