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イギリス人の「民主主義観」に学ぶべきこと

 チャーチルの「民主主義は最悪の政治であるが,今までに存在したいかなる政治制度よりもましである」という言葉は有名ですが,

 同じイギリス人のジャーナリスト,エモットという人が朝日新聞に寄せた記事のコメントも,民主主義の本質をよく表しています。

 
 「民主主義は良い政府を実現するための方法ではない。・・・悪い政府を罰するための方法だ」

 歴史をさかのぼって考えてみると,確かに「民主主義」の「民主主義」らしさは,そういうところに表れてきたように思えます。

 だれがどのように考えても・・・民主主義の原則に従って言えば,多くの人が「悪い政府だ」と考えていたら,それは「悪い政府」として,つくり変えられるのが民主主義です。

 では,つくり変えられた政府が,「良い政府」になったのかと言えば,そうとは言えない。

 どの政党とはここでは書きませんが,国民の一部が心底「危機感」を抱くきっかけにもなったのが,「政権交代」です。

 「あんな首相で大丈夫なのか?」・・・・という不安は,「大丈夫じゃなかった」という「気づき」によって,また「悪い政府」として,「つくり変える」ことが起こる。

 でも,こんなことを繰り返していても,「良い政府」が生まれる確信はもてない。

 「良い政治」が実現するビジョンがもてない。

 それが,「民主主義の政治」の大きな課題だということに人々は気づき始めています。

 この「教育失敗学」のブログでは,

 「こういうたぐいの失敗だけは,繰り返してほしくない」ということを,繰り返し述べてきています。

 そういう意見表明ができることが,民主主義社会のいいところでもあり,中途半端なところでもある。

 それは,「実現させる責任」まで個人が背負うことができない,ということです。

 結局,「教師一人一人の自覚と能力次第」なので,それを実現させるために「教育創造学」をかたちにしなければならない・・・という「思い」から先に進めないのが現状です。

 これが,もし独裁政治であれば,独裁者がその責任を背負って,徹底的に実現に向かわせてくれる・・・・民主主義と真っ向から対立する政治のあり方が,実は民主主義の欠点を補う効果があった・・・・ので,実際にそういう政治が行われたのが,ドイツでした。

 日本には「個人が責任を負う」仕組みが整えられなかったので,ドイツのような独裁政治は行われませんでしたが,「無責任体質」という負債を抱え込んだまま,現在に至っている国だと考えることもできます。

 大阪の橋下市長は「独裁者」と揶揄されますが,

 「改革の責任を負う人間」と表現してくれるジャーナリストはいません。

 それは,ジャーナリストというもののDNA・・・つまり,「悪い政治を探す」という民主主義の原理をそのまま行動に移しているだけでの存在だからです。

 ジャーナリストは,クリエイターではない。改革者でもない。

 「悪い政治探し」の人間にすぎないのです。

 こういう問題を見つけました。私はこう解決しました。

 こういう「ジャーナリスト兼政治家」みたいな人をつくるのが,私たち教師のつとめです。

 教育実践をしているうちが,自分が語る資格がある期間だというのは,私のただの持論です。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より