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「反転授業」の成立で,「予習用だけの教師」は不要になる

 「反転授業」という,困ったことに言葉から容易に想像ができない教育用語が目につくようになってきた。

 アメリカの一部の学校の成功に飛びついた「教育熱心」な方々がいる。

 「反転授業」とは,簡単に言えば,ビデオ教材で予習してきて,学校では個別の課題に取り組ませたり,グループで課題解決を行う授業のスタイルである。

 私なりに「反転授業」の定義をすれば,教室で教師が新しい内容の説明をする時間を省くために,あらかじめビデオで撮った説明場面を家庭で予習させておき,学校ではそれによって習得したものを活用してより高度な内容に取り組ませる,というものである。

 大手の中学受験進学塾が毎週やっているテストは,こうやって学習させている。

 公立学校としては,授業時間数を「標準時数」よりプラスさせ,それを教員の勤務時間外で消化してしまうという「裏ワザ」である。

 私は予習を強いる学習や,家庭に学校の学習の負担を負わせるこの「授業」に反対である。

 こういうのは,たとえば今の「免許更新講習」のような「学習」にこそふさわしい。

 本を読めばすむような話を,長時間聞かされ,中学生でも解けるようなテストをやって免許が更新されるような今の制度は,時間の無駄である。
 
 「反転授業」の予習を,小学生や中学生に強いることができる法的根拠を知りたい。

 子どもにも親にも,家庭ではすべきことがある。

 私は宿題を家に持ち帰ったことがほとんどなかったが,こういう「家庭事情」の子どももいるはずである。

 教育産業の方にどう考えても有意性及び優位性がある学習スタイルを学校が採用するのは,自分で自分の首を絞めることになりかねない。

 「反転授業」のためのビデオ教材を堂々と家庭で見させることができる公立学校の教師が,日本にどのくらいいるだろう。

 この授業が親から「分かりにくい」というクレームが寄せられたら,どうするのだろうか。

 すぐに「ビデオ用」の優秀な教材は絞られてしまい,一般の教師たちは

 「分かりやすく教える」努力をしなくてよくなってしまう・・・・ほどに普及するわけがないこの「反転授業」だが,

 これを「先進的でよい」という風潮になれば,当然,次のようなことになる。

 「反転授業」にも,「復習」は必要である。

 学校で行われた授業も,「復習」したい。

 そこで先生がしてくれた説明を「復習」したい。

 ・・・ということで,予習用のビデオだけでなく,復習用に,毎回の授業を録画していつでもどこでも再生できる仕組みが求められるようになる。

 ある意味,今までにない画期的なことかもしれない。

 その教師の授業の質が,公開され,比較対照の材料になる時代が来るということである。

 しかし,日本の公立学校の教師に,そこまでの覚悟はあるまい。

 アメリカのように,教師の実力主義,成果主義を徹底させる覚悟はあるまい。

 分析すれば,Aという教師の方がBという教師の方より指導力が優れており,当然の結果として,Aという教師が教えた子どもの習熟度が高い,という「結論」が導き出されることになる。

 26歳の若者が校長になり,56歳の教師の授業を「ダメだな」と評価してクビにできるような仕組みが日本に定着するだろうか?

 日本の教育で問題なのは,そもそも「反転授業用のビデオ教材」だけようなの授業をやっていて,それで教師がやっていけている現状があることである。

 「反転授業」に取り組む教師が増えると,当然の結果として,「ビデオ教材」のような授業が本番でも繰り返されるだけ,という事態が生じ始めるだろう。

 こういう授業を変えるところからスタートしないと,「反転授業」の本当の良さはどこにも生きてこない。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より