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砂の黒板とタブレット機

 「黒板にチョークなんて授業はもう古い!」

 なんていう教師は,一度,アフリカの電気が通っていない村の学校に連れていってあげたい。

 砂をつかって字を書く練習をしている子どもと,タブレット機の上で線をなぞっている子どもは,同じことをしているだけである。

 黒板にチョークでまともに字が書けない実習生がいる。

 中学生の方がはるかに上手に,速く書ける。

 こういう「実力格差」は,教育実習が始まってからどうこうできる問題ではない。

 大学にはホワイトボードしかなくて,「チョークの使い方」を知らない大学生が多い。

 小中学生のうちに,黒板に意見や数式を書きに来る積極的な人とか,書記をつとめてきた人には,アドバンテージがある。

 授業で「お客さん」として,ノートだけ取っていた生徒時代を過ごした実習生の中には,「黒板に書く」という技能が決定的に欠けている人がいる。

 こういう実習生と変わらない教師に,「黒板にチョークは古いですよ」と言われたとすると,

 こんな質問を逆にしてみたくなる。

 「タブレットなんて,古いですよ」という時代はあと何年後に訪れるだろう?

 そんな先の話ではないと思われる。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
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