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見苦しさの極致だった 『半沢直樹』の最終回

 親の仇に土下座させる。

 気持ちはもちろん分かるが,「頭取」の言う通り,

 「それはやりすぎ」である・・・というのが私の感想。

 「すっきり爽快!」という感想の人が多いだろうことは想像つくが,

 私には非常に見苦しく感じた。

 今の子どもたちは,「土下座」がいかに屈辱的なものか,理解できないのではないか。

 親と一緒に『半沢直樹』をみていた子どもたちは,

 学校で真似をすることになるだろう。

 「土下座しろ!」

 何を隠そう,私は二校目の荒れ果てた中学校で,

 生徒の一人に「土下座」を強要された経験がある。

 詳しいことはここでは書かないが,その場はお互いに「土下座」し合って解決となった。

 学校を建て直す過程で,本当に様々な経験をすることができたが,

 「土下座すればすんでしまうなら,それも悪くない」と思うこともあった。

 1対20という経験でなければ,今もあのときの「土下座」はトラウマになってしまっていたかもしれない。

 『半沢直樹』の場合は,「圧勝」後の場面で,「追い打ち」をかけるための「土下座」であった。

 もちろん銀行員としてでなく,親の仇をうつための一個人としての行動と解釈すればよいのだろうが,

 それにしてもえげつなさすぎる。

 あれを「すばらしいラストだ」と実感したのは,どういう世代なのか,調査してくれる人はいないだろうか。

 日本ではなく,中国とか韓国製のドラマのようだ,というのが私の感覚である。

 話は変わるが,学校現場には,

 何の力もない代わりに,どんなことがあっても子どもに土下座などできない,

 というプライドだけの教師が存在する。

 こういう教師の不祥事のために,

 土下座・・・・いや,深く頭を垂れてお詫びするのは赤の他人である。

 実習生!

 もし,中学生に「土下座しろ!」って言われたら,どうする?

 地面につけた頭を上から靴で踏みつけられても,耐えられるか?

 唾を吐きかけられても耐えられるか?

 中学校の教育現場は,TVドラマの収録現場ではない。

 そういう生徒も教育するのが学校というところである。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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