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2013年9月

「子どもに届く言葉」が話せない「道徳の専門家」に一言

 何度も繰り返し主張したいことは,

 「言語活動の充実」に最も真剣に取り組むべきなのは,教師自身である。

 子どもに届く言葉が話せない教師がいる。

 「子どもに言葉が届く」という言葉の意味がわからないと先に進めなくなるが,

 ここではそれがわかる人を対象として書くことにする。

 教育の現場に出ると,

 「授業を聞いてないから成績が上がらない」という言い訳をする教師に出会うことができる。

 子どもの反論が想像できるだろうか。

 そもそも聞いているだけで成績が上がるなら,今のような教師は必要なくなる。

 一人分の給料で,二人以上が雇える環境に教育現場が変わっていく。

 その教師がどのような道徳の授業をしているかによって,

 「子どもが自分の成長のために必要としている教師」かどうかはすぐに判断がつく。

 「道徳の時間」は教科指導ではなく,しかも,担任が授業を行うのが原則とされているため,担任を持たせられない教師は授業をする機会もない。

 教師の仕事のあり方を,「道徳」という側面から評価してみたら,どんな結果が出てくるだろう。

 以前もやったことだが,とりあえず「主として自分自身に関すること」として・・・・

(1) 心身の健康の増進を図っているか?

(2) より高い目標を目指して,着実にやり抜く強い意志をもっているか?

(3) 自主的に考え,誠実に実行してその結果に責任をもてているか?

(4) 理想の実現を目指して人生を切り拓いていこうとしているか?

(5) 自己の向上を図るとともに,個性を伸ばして充実した生き方が追求できているか?

 一人の人間として,自分がどうしているかを子どもに語りかけることができるのか?

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「反転授業」の成立で,「予習用だけの教師」は不要になる

 「反転授業」という,困ったことに言葉から容易に想像ができない教育用語が目につくようになってきた。

 アメリカの一部の学校の成功に飛びついた「教育熱心」な方々がいる。

 「反転授業」とは,簡単に言えば,ビデオ教材で予習してきて,学校では個別の課題に取り組ませたり,グループで課題解決を行う授業のスタイルである。

 私なりに「反転授業」の定義をすれば,教室で教師が新しい内容の説明をする時間を省くために,あらかじめビデオで撮った説明場面を家庭で予習させておき,学校ではそれによって習得したものを活用してより高度な内容に取り組ませる,というものである。

 大手の中学受験進学塾が毎週やっているテストは,こうやって学習させている。

 公立学校としては,授業時間数を「標準時数」よりプラスさせ,それを教員の勤務時間外で消化してしまうという「裏ワザ」である。

 私は予習を強いる学習や,家庭に学校の学習の負担を負わせるこの「授業」に反対である。

 こういうのは,たとえば今の「免許更新講習」のような「学習」にこそふさわしい。

 本を読めばすむような話を,長時間聞かされ,中学生でも解けるようなテストをやって免許が更新されるような今の制度は,時間の無駄である。
 
 「反転授業」の予習を,小学生や中学生に強いることができる法的根拠を知りたい。

 子どもにも親にも,家庭ではすべきことがある。

 私は宿題を家に持ち帰ったことがほとんどなかったが,こういう「家庭事情」の子どももいるはずである。

 教育産業の方にどう考えても有意性及び優位性がある学習スタイルを学校が採用するのは,自分で自分の首を絞めることになりかねない。

 「反転授業」のためのビデオ教材を堂々と家庭で見させることができる公立学校の教師が,日本にどのくらいいるだろう。

 この授業が親から「分かりにくい」というクレームが寄せられたら,どうするのだろうか。

 すぐに「ビデオ用」の優秀な教材は絞られてしまい,一般の教師たちは

 「分かりやすく教える」努力をしなくてよくなってしまう・・・・ほどに普及するわけがないこの「反転授業」だが,

 これを「先進的でよい」という風潮になれば,当然,次のようなことになる。

 「反転授業」にも,「復習」は必要である。

 学校で行われた授業も,「復習」したい。

 そこで先生がしてくれた説明を「復習」したい。

 ・・・ということで,予習用のビデオだけでなく,復習用に,毎回の授業を録画していつでもどこでも再生できる仕組みが求められるようになる。

 ある意味,今までにない画期的なことかもしれない。

 その教師の授業の質が,公開され,比較対照の材料になる時代が来るということである。

 しかし,日本の公立学校の教師に,そこまでの覚悟はあるまい。

 アメリカのように,教師の実力主義,成果主義を徹底させる覚悟はあるまい。

 分析すれば,Aという教師の方がBという教師の方より指導力が優れており,当然の結果として,Aという教師が教えた子どもの習熟度が高い,という「結論」が導き出されることになる。

 26歳の若者が校長になり,56歳の教師の授業を「ダメだな」と評価してクビにできるような仕組みが日本に定着するだろうか?

 日本の教育で問題なのは,そもそも「反転授業用のビデオ教材」だけようなの授業をやっていて,それで教師がやっていけている現状があることである。

 「反転授業」に取り組む教師が増えると,当然の結果として,「ビデオ教材」のような授業が本番でも繰り返されるだけ,という事態が生じ始めるだろう。

 こういう授業を変えるところからスタートしないと,「反転授業」の本当の良さはどこにも生きてこない。

 
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静岡県の学校の管理職には説明責任が求められている

 「知る権利」を重視するのは,民主主義社会では当然のこと。

 質問されたら,持っている情報を公開するのが教育委員会のつとめである。

 「秘密にしなければならない情報」を調べるために,わざわざ税金をつかって(学力調査を)実施しているわけではない。

 静岡県というところは,管理職の異動についての「予想記事」が掲載されるような,それがどの程度,特殊であるのかは調べていないのだが,少なくとも東京都ではあり得ない「慣例」がある地域である。
 
 その新聞記事には管理職の細かい「業績」までもが掲載されている。

 「業績」が強く求められているのが静岡県の公立学校の管理職であり,あわせて「説明責任」も問われているから,並の「教師」や普通の「神経」では務まらないということがよくわかる。

 当たり前の話だが,副校長や校長になったとしても,その職責を果たせないことが分かった人物は,すぐにでも降格すべきである。静岡県ならそこまでできるだろう,という期待をもっている。

 学力調査の結果が悪い学校の校長名を公開するというのは,それぞれの校長の「説明責任」を果たさせるという意味では,非常に「趣旨」が分かりやすい方針だったのだが,それが知事の圧力によって「上位校」の校長名の公表となった。

 そんな名前を知ったところで意味はない,というのが「知る側」の意見だし,「出す側」の意見でもあるだろう。

 校長名などよりも,学力調査関係のデータで知りたいことは,山ほどある。

 たとえば,学級の人数と得点の相関関係である。

 少人数の学級ほど,たとえばB問題の得点が高いという傾向が認められれば,「それだけ言語活動を充実させられる環境であることが大切なのだ。だから,少人数学級を目指すべきだ」という主張の根拠になる。

 それが聞こえてこないのは,簡単な話,そういう相関がないことがわかってしまっているからだろう。

 下手に30人学級などとやると,1学年31人だと15人と16人の学級になってしまう。

 こんな小さな規模では,教育効果が望めないような活動を,今まで日本の学校ではやってきたはずである。

 学級の規模を小さくすればするほど,教員の質が落ちていくことを,校長は主張できる立場にある。

 校長は今まで,あまりにも「無色透明」な存在であり過ぎた。

 学校の教師が犯罪などの不祥事を起こしたり,児童生徒が不幸な事故等にまきこまれたときだけ,「存在感」が出せる(しかも,非常に情けない姿で)のが,学校の管理職だった。

 これからは,「よりよい人材=教師を強く求める」活動を推し進めるような存在であるべきである。

 ・・・・そんな管理職像を思い描ける場所は,今のところ,静岡県しかない。

 現文科大臣は,今から10年前は,「公設民営を推し進めたい」という意欲を持っていた。

 どういうタイミングでしかけようとしているか。

 国にお金はないのだから,民間に頼るしかない。

 半分のお金で,2倍以上の能力のある人間が集まる・・・つまり,

 「公立」をやめれば「効率」が4倍

 と言われる日が来るのがおそろしい。


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砂の黒板とタブレット機

 「黒板にチョークなんて授業はもう古い!」

 なんていう教師は,一度,アフリカの電気が通っていない村の学校に連れていってあげたい。

 砂をつかって字を書く練習をしている子どもと,タブレット機の上で線をなぞっている子どもは,同じことをしているだけである。

 黒板にチョークでまともに字が書けない実習生がいる。

 中学生の方がはるかに上手に,速く書ける。

 こういう「実力格差」は,教育実習が始まってからどうこうできる問題ではない。

 大学にはホワイトボードしかなくて,「チョークの使い方」を知らない大学生が多い。

 小中学生のうちに,黒板に意見や数式を書きに来る積極的な人とか,書記をつとめてきた人には,アドバンテージがある。

 授業で「お客さん」として,ノートだけ取っていた生徒時代を過ごした実習生の中には,「黒板に書く」という技能が決定的に欠けている人がいる。

 こういう実習生と変わらない教師に,「黒板にチョークは古いですよ」と言われたとすると,

 こんな質問を逆にしてみたくなる。

 「タブレットなんて,古いですよ」という時代はあと何年後に訪れるだろう?

 そんな先の話ではないと思われる。

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見苦しさの極致だった 『半沢直樹』の最終回

 親の仇に土下座させる。

 気持ちはもちろん分かるが,「頭取」の言う通り,

 「それはやりすぎ」である・・・というのが私の感想。

 「すっきり爽快!」という感想の人が多いだろうことは想像つくが,

 私には非常に見苦しく感じた。

 今の子どもたちは,「土下座」がいかに屈辱的なものか,理解できないのではないか。

 親と一緒に『半沢直樹』をみていた子どもたちは,

 学校で真似をすることになるだろう。

 「土下座しろ!」

 何を隠そう,私は二校目の荒れ果てた中学校で,

 生徒の一人に「土下座」を強要された経験がある。

 詳しいことはここでは書かないが,その場はお互いに「土下座」し合って解決となった。

 学校を建て直す過程で,本当に様々な経験をすることができたが,

 「土下座すればすんでしまうなら,それも悪くない」と思うこともあった。

 1対20という経験でなければ,今もあのときの「土下座」はトラウマになってしまっていたかもしれない。

 『半沢直樹』の場合は,「圧勝」後の場面で,「追い打ち」をかけるための「土下座」であった。

 もちろん銀行員としてでなく,親の仇をうつための一個人としての行動と解釈すればよいのだろうが,

 それにしてもえげつなさすぎる。

 あれを「すばらしいラストだ」と実感したのは,どういう世代なのか,調査してくれる人はいないだろうか。

 日本ではなく,中国とか韓国製のドラマのようだ,というのが私の感覚である。

 話は変わるが,学校現場には,

 何の力もない代わりに,どんなことがあっても子どもに土下座などできない,

 というプライドだけの教師が存在する。

 こういう教師の不祥事のために,

 土下座・・・・いや,深く頭を垂れてお詫びするのは赤の他人である。

 実習生!

 もし,中学生に「土下座しろ!」って言われたら,どうする?

 地面につけた頭を上から靴で踏みつけられても,耐えられるか?

 唾を吐きかけられても耐えられるか?

 中学校の教育現場は,TVドラマの収録現場ではない。

 そういう生徒も教育するのが学校というところである。


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時代に乗ったつもりで「人間のつながり」を破壊するな!

 何か新しいものを利用し始めると,

 まだ利用していない人間を「遅れている」とけなしたくなる「おのぼりさん」がたくさんいる。

 最近,メールで部活動の連絡を流す中学生が増えている。

 一斉送信ができて,簡単だから。

 しかし,学校では,これを認めていない。電話連絡網を作らせて,こっちを利用するように指導している。

 メールができない中学生もいるし,そもそも学校には携帯電話を持ち込ませないようにしているからだ。

 「メールをしないやつは他人に迷惑をかけている」なんていう評価を下す人間は,人間としての決定的なものが欠けてしまっていると考えていい。

 大人の世界も同様である。

 「携帯電話はもたないし,インターネットも利用しない」

 という生き方は,十分に成立する。

 通信費にかかる1万円を,読書に使ったら・・・積み立てて旅行に使ったら・・・・。

 そういう生き方をしている人を,「仲間として認めない」ような人間がいるグループは,ビジネスとしてならわかるが,趣味のグループなら人間としてどうかしている。

 人と人とのつながりが,「メールをしないから迷惑な奴だ」と評価するような人間によって,壊されていくのである。

 「メールをしない」人間が「つながり」を壊すのではない。

 「メールをしない人間を迷惑と思う人間」が人と人との「つながり」を壊すのである。

 電話連絡をしてあげればよいのだ。

 昔はみんなそうだった。

 いろいろと気をつかった。

 何時ころかけるか。

 本人以外が電話に出たら,どんな言葉づかいをするか。

 留守だったらどんなふうにメッセージを残すか。

 ・・・・電話連絡をしていたころは,みんなコミュニケーションのために「頭を使っていた」のである。

 それが,「どうしてあいつはメールをしないのだ」なんていう言い方をする人間がでてくるから,

 「人間のつながりを壊すのは,・・・・なんだ」という印象がより強くなっていく。

 LINEの問題が今後,どれだけ深刻なものになっていくか,

 教育現場にいる人間なら容易に想像がつくだろう。

 人間のつながりを壊していくのは,人間である。

 コミュニケーションツールに罪はない。

 人間が罪を背負っているのである。


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操作主義を一掃せよ!

 「こうすれば,うまくいく」

 「こうすれば,興味がひける」

 「こうすれば」をもし知りたければ,安物の本に飛びつくのではなく,

 子どもに問うべきである。

 自分で試し,失敗し,また次を試す。

 そのうち,「そんなことにとらわれている場合ではない」ことに気づくだろう。

 自分の操作に合わせた子どもは,「本当の子ども」ではない。

 「操り人形」と同じである。

 中学校では部活動,小学校では体育の指導について,

 「操り人形」の生産技術がそこらじゅうに転がっている。

 「本当の子ども」に出会えない場所は,もはや「学校」ではない。

 「本当の子ども」に出会えない取り組みは,「教育」とは言えない。

 子どもが何に注意を向けているか,何に向けていないか。

 それが見える場所は,他人がやっている授業である。

 授業を見よう。

 もちろん,教師ではなく,子どもを見るために。

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自信をもつ前に,自分の言葉に責任を持て!

 自信のなさそうな教師や教育実習生を見ると,生徒や指導教諭は不安になる。

 しかし,大事な一言を思い出すだけで,すべての人間にそれぞれの「責任感」が芽生えてくる。

 「良い教師をつくるのは,良い生徒である」

 ・・・これは教育を語る上で,名言中の名言であると私は思っている。

 この言葉の深さを理解するには,それなりの経験が必要であろう。

 自信のない教育実習生にとって必要なのは,「責任感」である。

 「責任感が強すぎて,それに押しつぶされようとしているのでは?」

 という心配はわかる。

 ただ,責任感が本当に強ければ,つぶれている場合ではないことに気づける。

 自信などは,教育の現場では,すぐに吹き飛ばされる類のものであることを,真面目な教師ならだれでも知っている。

 それでも,「自信を持て!」とアドバイスするとしたら,

 それは「自信を持たせる」ためのアドバイスではなく,

 「自信を失う経験をさせる」ためのアドバイスだと考えてくれたらいい。

 そういう場面はいくらでも訪れるから。

 根拠のない自信,人を不安にさせないように,取り繕うとした自信は,破滅の最大要因である。

 「自信はありませんが,責任感だけはあります」ときっぱり言いきれるような教師や実習生でありたい。

 面接で,ヘンな虚栄はすぐに見破られる。

 そして,無責任な「決断」は下さないことだ。

 意見を求められて,すぐに答えるような「反射神経」など若い教師には特に必要ない。

 「決断」を下すのに自分に何が足りないかを示せることの方が大事である。

 ここでは面接官が喜びそうなことはこういうことだ,という内容も書けるが,それはやめておく。

 
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不自由なブログ村に帰ってきました

 ご挨拶が遅くなりました。

 ブログの夏休みを明けて,村に戻ってきました。

 もちろん,大きな恨みを抱えて。

 夏休み中に私が立ち上げたもう一つのブログは,事前通告なし,詳しい説明なしでブログ村から即時退去させられてしまいました。

 散々,嫌がらせをしてきた人間のブログは残り,抗議のためのブログは消される。

 この村は,どこかの国と同じかそれ以下の環境だということがわかったのですが,やはり村を介して初めて訪問して下さる方もいると思い,再び足を踏み入れることにしました。

 基本的に,村のルールを守るという意識をもって・・・・。

 でも,教育の世界には,本当に「勘違い系」の人間が多くて,しかも簡単に騙されていく・・・・

 ・・・それは,最も大きな理由が「ラクにできるから」なのですが,・・・・・

 これをストップさせたい,という気持ちが非常に強いのは確かです。

 しかし,「ご意見番」はブログ村の規定では禁止されている。

 仕方がないですね・・・・。

 あとは,さりげなくやっていくだけです。

 「不自由さをエネルギーに変えるワザ」を中学生に示せないような人間が,教師なんかやっていけませんからね・・・。


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タブレット機を活用した授業の効果

 教室にICTを。

 ICT関係の研究をしている方に,お願いです。

 まずは,教師の普通の授業を参観してみてください。

 「この先生は,授業が上手です」と校長が太鼓判を押す人と,

 「この先生は,まだ経験が浅いです」という人と,

 「この先生は,現在,この学校で最も課題を抱えている教師です」という人の3人。

 そして,タブレット機を活用した授業を,1番目の先生ではなく,

 2番目と3番目の先生に行ってもらってみてください。

 ICT教育の前に,何をすべきかがわかります。

 (追記) 絶対にやってはいけないこと。

  タブレット機を最初から使いこなせるような教師を,事業の検証のために使ってはいけません。

  最も機械音痴と呼べる教師ばかりをあえて選んで,検証しなければだめです。

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「自信」と「プライド」の区別ができない教師が現場を混乱させる

 教育実習生に,「授業がうまくいく自信がありますか?」と質問して,

 「はい,あります」と答えた場合,指導教諭だったらどういう反応を示せばよいでしょう。

 「よし,その気持ちで頑張れ」と励ますのか?

 「思い上がるな」とたしなめるのか?

 いきなり出鼻をくじくような指導教諭はいないと思いますが,

 「自信」と「プライド」の違いを理解してもらうためのよい機会にしてほしいものです。

 「自信」を裏付けるものは何か?

 それは,「準備にかけた努力」で十分なものか?

 そうではありません。

 やはり「良い経験」「成功体験」が本当の自信につながるのです。

 「プライド」とは何か?

 「誇り」なのか,「虚栄心」なのか?

 自問自答してもらった結果,

 生徒から見て,教師が「自信に満ち溢れている」と思われるか,

 「傲慢な奴だ」と思われるかは,紙一重であることに気づいてもらう必要があります。

 「俺は実習生とはいえ,教師なんだから,言うことを聞け」というオーラを出してはいけないのです。

 しかし,そういうオーラが足りないと言って嘆く人間が社会にはいる。

 それで人が動くほど・・・思春期の中学生が動かされるほど,

 教育は簡単なものではない・・・ことが分からない人がいる。

 「授業がうまくいく自信がありますか?」

 「全然ありません」・・・なら,「では,今日の授業はやめにしましょう。私がやります」

 と答えればいい。これが教師の教育者としての「プライド」です。

 「授業がうまくいく」ということの意味が,

 「生徒がだまって聞いている」ことだと勘違いしている人がいるのも,日本の教育が「発展途上」であることを裏付ける問題の一つです。

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「間違い」「ケアレスミス」に寛容な日本

 私の高校時代の担任との初体面の場面は今でもよく覚えている。

 お名前を板書され,「年賀状の宛先の字を間違える生徒がいる」ことに立腹されていた。

 だから,その担任に手紙を書くときは,注意力をいつもの倍にして書いていた。

 安倍総理が東電への視察の際,「安部」と誤記された件について,

 中国の人々が興味深い反応をしてくれている。

 「某国なら大変なことだ」

 「某国」がどこか,言うまでもない。

 現場での安倍総理の反応がどうだったのかは知らないが,

 おそらく日本では「ああ,間違えちゃったのね」で終わりであろう。

 何しろ,国名の呼び方が「ニッポン」でも「ニホン」でも,どっちでもいいですよ,という国である。

 こういう「あいまいさ」が,一方では「ゆとり」「余裕」「寛容」の表れであり,

 他方では「いい加減さ」の象徴となる。

 私は自分の学校のテストで,「漢字の間違い」には寛容である。

 あくまでも社会科のテストであって,国語の漢字テストではないからだ。

 もちろん,間違うべきではない漢字もある。

 そう書いてしまうと,意味が全く異なってしまう,という類はそれに当たる。

 「きちんと正確に。失礼のないように」という配慮は,とても大切である。

 しかし,それを気にしすぎて,「何も書けなくなる」のはもったいない。

 私の娘の名前の漢字を,幼稚園の先生も小学校の担任教師も誤記したことはかつてここでも紹介した。

 文句を言ったことはないが,わざとらしく間違った漢字を大きく書いてみたことはある。

 東電に関しては,漢字の間違いよりも,大事な「間違ってはいけない仕事」がある。

 こっちに全神経を使ってほしい。

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一世代とばしの世襲教師

 日本では世襲議員とか二世議員というと,たいていは悪いイメージがつきまとっている。

 なりたくてなったにもかかわらず,「親の築いたものを引き継ぐ」というだけで「悪」「ずるい」「お前の力じゃない」などという半分やっかみ入りの言葉が投げかけられる。

 無条件でその職に就けるようなものではないのに,他の立候補者と「平等でない」という理由で批判される。

 「平等」を最も重視すべき原則にしてしまうと,社会は崩壊することを歴史が証明したにもかかわらず,外国で起こったことと日本で起ころうとしていることを「別物」と見立てる人々は,他人の失敗がまるで生かせない。

 ・・・・などというだれでも思っていることをわざわざ述べたのは,

 「では,一世代とばした世襲ならどうなのか」と思ったことがきっかけである。

 私は教師だが,母方の祖父母は高校の教師だった。

 私の両親は自営業者である。

 先週まで教育実習をしていた学生は,祖父母が小学校の教師だったらしい。

 両親は仕事で忙しい人が多いから,何かとめんどうを見てくれて,人格形成に大きな影響を与えているのは祖父母である・・・・というのは何十年か前のことかもしれないが,今でもそういう人は少なくないはずである。

 中学校では,「職業体験」「職業調べ」などの進路に関する学習を行う(これを総合的な学習の時間にカウントして実施している中学校が多い)。特別活動の時間の活動である。

 道徳も,特別活動も,総合的な学習の時間も,もっと「祖父母」にかかわってもらえるような学習環境を整えるべきだと考えるようになったのは,以上のような理由からである。

 そうした活動を通して,あるいは「祖父母」と同じか関係が深い職業にたずさわる人が増えるかもしれない。

 それはそれですばらしいことである。

 もちろん,自分の祖父母に話を聞けるのが一番いいが,それは家庭でもできる。

 学校は,どんな人にでも話を聞くことができる「公共空間」である。

 こういう実践を行っている中学校はあるだろうか。

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公募校長・民間人校長のトラブル

 教育改革の「歯止め要因」の一つに,改革の失敗がある。

 「だから改革はだめなんだ」という類の無責任発言は,「教育発展途上国」の日本では影響力をもつ。

 それだけ,「改革にかかわる仕事」をしている人には,「失敗と呼ばせない強い責任感」が求められる。

 責任に見合うだけの仕事をしてもらうことが求められる。

 教師が授業不成立の原因を生徒にせいにし,

 校長が教育不成立の原因を教師のせいにし,

 社会が教育失敗の原因を教育改革のせいにしているうちは,

 日本の教育は何も変わらない。

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イギリス人の「民主主義観」に学ぶべきこと

 チャーチルの「民主主義は最悪の政治であるが,今までに存在したいかなる政治制度よりもましである」という言葉は有名ですが,

 同じイギリス人のジャーナリスト,エモットという人が朝日新聞に寄せた記事のコメントも,民主主義の本質をよく表しています。

 
 「民主主義は良い政府を実現するための方法ではない。・・・悪い政府を罰するための方法だ」

 歴史をさかのぼって考えてみると,確かに「民主主義」の「民主主義」らしさは,そういうところに表れてきたように思えます。

 だれがどのように考えても・・・民主主義の原則に従って言えば,多くの人が「悪い政府だ」と考えていたら,それは「悪い政府」として,つくり変えられるのが民主主義です。

 では,つくり変えられた政府が,「良い政府」になったのかと言えば,そうとは言えない。

 どの政党とはここでは書きませんが,国民の一部が心底「危機感」を抱くきっかけにもなったのが,「政権交代」です。

 「あんな首相で大丈夫なのか?」・・・・という不安は,「大丈夫じゃなかった」という「気づき」によって,また「悪い政府」として,「つくり変える」ことが起こる。

 でも,こんなことを繰り返していても,「良い政府」が生まれる確信はもてない。

 「良い政治」が実現するビジョンがもてない。

 それが,「民主主義の政治」の大きな課題だということに人々は気づき始めています。

 この「教育失敗学」のブログでは,

 「こういうたぐいの失敗だけは,繰り返してほしくない」ということを,繰り返し述べてきています。

 そういう意見表明ができることが,民主主義社会のいいところでもあり,中途半端なところでもある。

 それは,「実現させる責任」まで個人が背負うことができない,ということです。

 結局,「教師一人一人の自覚と能力次第」なので,それを実現させるために「教育創造学」をかたちにしなければならない・・・という「思い」から先に進めないのが現状です。

 これが,もし独裁政治であれば,独裁者がその責任を背負って,徹底的に実現に向かわせてくれる・・・・民主主義と真っ向から対立する政治のあり方が,実は民主主義の欠点を補う効果があった・・・・ので,実際にそういう政治が行われたのが,ドイツでした。

 日本には「個人が責任を負う」仕組みが整えられなかったので,ドイツのような独裁政治は行われませんでしたが,「無責任体質」という負債を抱え込んだまま,現在に至っている国だと考えることもできます。

 大阪の橋下市長は「独裁者」と揶揄されますが,

 「改革の責任を負う人間」と表現してくれるジャーナリストはいません。

 それは,ジャーナリストというもののDNA・・・つまり,「悪い政治を探す」という民主主義の原理をそのまま行動に移しているだけでの存在だからです。

 ジャーナリストは,クリエイターではない。改革者でもない。

 「悪い政治探し」の人間にすぎないのです。

 こういう問題を見つけました。私はこう解決しました。

 こういう「ジャーナリスト兼政治家」みたいな人をつくるのが,私たち教師のつとめです。

 教育実践をしているうちが,自分が語る資格がある期間だというのは,私のただの持論です。


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教師の存在自体が子どもの悪いストレスになっている

 教育実習生なら,気づくことができるだろう。

 子どもが毛嫌いしている教師が学校にはいるものである。

 指導が厳しい教師とは限らない。

 不必要に生徒に近づきすぎる教師がそれである。

 「近づく」というのは,空間的な距離とは限らない。

 中学生にとって,「距離感」というのは非常に微妙なものである。

 こういう教師が,子どもたちのストレスを高め,

 いじめを誘発しているのだと気づいても,実習生の立場では何も言えないだろう。

 しかし,学校を変えることができるのは,

 内部の人間ではない。

 これは99%断言できる。

 どんなにおかしい教師だと思っても,同僚の問題をきちんと指摘できる教師はまずいない。

 万が一,違っていたら,大変に失礼なことだ,と思ってしまえば,何も言えなくなる。

 教育実習生も,単位が気になるはずである。

 評価をしてくれる相手に対して,「あなたが問題なんだ」なんて言えるはずがない。

 ・・・・なんて思っている人間は,「教師の卵」を甘く見ている人間である。

 自分の評価を子どもの人権より優先するような人間が,教師を目指す資格はあるのか?

 自分の考えを,きちんとぶつけてみたい,という教育実習生の声を聴く最高の場所は,教育委員会である。

 教育委員会には,教育実習生の聞き取りから,指導教諭の力量を知ることができるというメリットもある。

 人事考課は校長だけに任せておいてはいけない。

 ありとあらゆる方面から,それを100%取り入れるわけではないにしろ,参考にすべき情報は入手すべきである。

 教育実習生は,子どもの声を聴くべきである。

 それを,該当の教師に直接ぶつけることができて,その教師を改心させることができたら,単位をとり,合格させる以上の価値がある。

小中学校の放課後の教室には,だれがいる?

 小学校の放課後,教室に児童が残っている場合は,どのようなときなのでしょうか?

 中学校の場合は?

 だれもいない中学校の教室で,小学校から来た教師が一人で仕事している風景は怖いものがあります。

 生徒がいる?

 部活動に入っていない中学生が,放課後の教室で時間を過ごすことが許されている中学校はどのくらいあるのでしょうか?

 一言で中学校と表現しても,そこには恐ろしいほど多種多様な教師たちがうごめいています。

 学校の常識は世間の非常識と呼ばれる学校ですが,何校か異なる学校で勤務した教師から見ても,「あり得ない」習慣が許されている学校があるものです。

 放課後に生徒が校内をうろうろしているのが許されている「荒れた学校」って,本当に怖そうですよ。

 もう何十年か前の話かもしれませんが・・・・。

中学生にはだまされないと思う「思い上がり」

 中学生はまだ子どもだから・・・となめてかかっている教師は,自分があっさりだまされている事実を認めたがりません。

 中学生は,「いじめの気配」を瞬時に消す能力を持っています。

 いじめが起こることを知っていて,その場に行けば,そういう事実を目の当たりにすることができるのです。

 いじめの複雑な構造は,そのままお蔵入りになることもあるし,十年以上たってから明らかになることもあります。

 自分がいじめられていたことに気づかない教師というのは,ある意味,幸せなもの。

 いじめ自殺が問題化する以前から,いじめを問題として学級で取り組んでいた教師はたくさんいたはずです。

 もう何十年たつでしょうか。

 教育は,本当に難しい取り組みです。

 教師だからできる,というのは単なる思い上がり。

 教員採用試験に合格して,正規に採用されたんだから,できる,なんていうのはただの無知。

 子どもから学ぶしかないのです。

 子どもは,簡単には教えてくれません。

 学ぶしかないのです。

教師はオーケストラの指揮者などではない

 思い上がりもここまでくると哀れになる。

 生活指導に力を入れすぎて・・・という言い方ができる生活指導を強く実施してきた学校で「それらしいこと」をすることは不可能ではないかもしれないが,

 中学校教育というものの目標,教育の本質を考えた際,教師は「指揮者」などであってはならない。

 教師がいなければ何も始まらないような集団をつくって,「教育」をしましたなんていうのは,誤解も甚だしい。

 教師の仕事をオーケストラにたとえれば,自分よりまともな「指揮者」を養成することに限る。

 実際,そういう「活動」がカリキュラムの中にあふれている。

 教科指導においてもである。

 小学生を基準にして教育を考えてしまうと,教師は何でもできる錯覚に陥ってしまう。

 小学校の教師なら,すべての教科を教えることは不可能ではないだろう。

 それが何を物語っているか,真面目に考えたことがある教師はどのくらいいるだろう。

 中学校では,どれだけの「勘違い」の結果を引き受けているか,考えたことがある教師はどのくらいいるだろう。

通知表の所見は,担任の思いつきを伝えるものではない

 教育実習で実際に書くことがまずないものが,

 「通知表の所見」である。

 これは,担任の教師が書くことになっている。

 「所見」とは,日頃の観察の結果を書くのではない。

 内容についての指導が全く行き届いていない学校があるが,

 校長印が押されているので,それは担任教師だけでなく,校長の質の問題である。

 たいてい,通知表を渡す1週間くらい前に書いて,管理職がチェックし,校長印が押されて担任に戻されたものを,終業式の日に担任から子どもを通して保護者に渡されるものである。

 子どもに対しては毎日の生活や面談で話しているような内容なら,「そんなことはないよ」と子どもから指摘されるようなことは書かれない。

 指導要録に残す記録とは異なり,保護者へ「通知」されるものだから,たいていの場合,「主にどこをどう頑張ったのか」「どこが最も気がかりなのか」を伝えるのだが,そんな情報は,もっと日常的に家庭にフィードバックしなければならない,という考え方も成り立つ。

 2学期制の学校も増えていることから,1年に2回しか「通知」されない情報が,それほど重要なものと考える方がおかしい。

 では「あるべき所見」とは何なのか。

 私の考えは,生徒本人が次の学年,学期のスタートに向けて,最善の「個人目標」を立てるヒントになる内容を中心に書くことである。

 一段階高い目標に当たる内容をあえてぶつけてみる場合もあるし,無理をさせないために,スモールステップの目標を具体的に示してしまう場合もある。

 キーワードは,「非日常性」である。

 通知表は,子どもや保護者への「お手紙」ではない。

 校長の印が押されて保護者に届けられる,学校からの生徒への「評価」の集大成である。

 私の勤務していた学校では,「担任所見」以外に,「教科担任所見」も入った通知表を作成していた。

 ただ欠席日数が多い,少ない,で苦情がくる時代は,いい加減に終わりにしてほしい。

 問題は,「所見」の質=「評価」の質である。

教育実習に向けての不安

 ある大学生に質問された,

 教育実習で「自己紹介」で盛り上がる1時限目の授業に対し,2時限目も同じような「受け入れられ方」で授業に臨むには,どうしたらいいですか?

 という質問に対し,その場でお答えしたのは,

 2時限目までにすべての生徒の名前を憶えておき,出席簿を見ずに名前を呼ぶ

 でした。

 答えは,本当に何通りもあります。

 1時限目の授業で,2時限目の楽しい学習活動の予告をしておく,とか,

 2時限目が待ち遠しくなるようなおもしろい授業を1時限目にするとか・・・・。

 いずれにせよ,教育実習に向かう上での「不安」からくる質問だということはわかりました。

 そんな「不安」を感じているようでは,教師にはなれませんよ・・・・

 なんて厳しい言葉をかけてくれる人が,今まで近くに何人いたのでしょうか・・・・。

いじめをつくり出す教師の「空気感」

 まだちょっとブログを書いている暇はないのですが,

 「また始まった」という記事があったので,記録を残しておこうと思います。

 いじめを起こすもとになるのは,「この空気,気に入らない」というような,「異物を排除しよう」とする心の動きです。

 「居心地のよい空間にしよう」とする,身勝手な「性癖」です。

 小学生や中学生のいじめには,気に入らない生徒を学級委員にしていじめてしまうというものもあります。

 これだけ単純な図式が見えない教師がいたんですね。

 「社会」という翻訳語をあてた,ソーシャルという言葉と,

 「共同体」という翻訳語をあてている,コミュニティと言葉の違いが分かっていない人間が日本では教師をしているのです。

 というより,教師は「共同体」を作りたがる傾向のある人が多いようです。

 「社会」で生きていくのが苦手な人が,集まってくる職業と言えるのかもしれません。


 今日は,毎年,授業参観に来てくれる大学3年生と話をする機会がありましたが,

 いろいろなところで「ゆとり世代」「低学力世代」と呼ばれ,自信を失いかけているのか,

 やたらと「知識の量」を気にしている様子が見受けられました。

 
 今や,「知識量」で勝負できる時代ではないのに,どうも学科試験をクリアする自信のない人にとっては,よほどのプレッシャーのようです。

 「知識量」に関することしか表現できないブログを読めば,

 「これじゃ意味ない」ということが分かるでしょう。

 「見えている」のに,「全く見えていない」教師の典型がよく分かるブログをよろしければ秘密でご紹介いたします。 

 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より