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いいのこすこと-4 正しい「テスト」の見方・考え方

 「目の上のたんこぶ」がなかなかなくならないで,

 いらいらしてしる人の顔が目に浮かぶようです。


 学習指導要領が改訂された趣旨を一度も読んだことがないことが

 分かってしまう人が,「教育改革」の記事を書いています。

 その人はもう公務員ではないから,それを読む「義務」はないのですが,

 教育改革について元教員として発言したいのだったら,


>私が改革しなければいけないと思うのは、簡単に言えばテストの結果が人間としての力と乖離しているということです。


 まさに,資格はとっても,全くお話にならない社会性のなさを

 わざわざ紹介されているご自分を指して言っているだけのこと。

 それを自らさらけ出しているのが,最後に指摘した内容です。


 金融機関には,お金を引き出しに来た人が,そのお金をどう処理するかを調べて,

 その結果に応じて,

 「あなたにこのお金をお支払いすることができません」なんて判断する責任がありますか・・・・・?


 「~ということになっている」

 というのは,法令を遵守する立場の人間としての「決まり文句」であって,

 「それでは困る」と言っても始まらないのです。

 「平等に権利があります。だから,3人には,お渡ししたお金を平等に分けてもらえる権利があります。そういうことになっているのです。でも,1人が全額自分のものにしてしまうなんて,信じられません。私には理解できません。許せない人ですね」
 
 なんて発言を金融機関の人間がするわけがないのです。


 「あとは察してください」という「気持ち」が伝わらない人間かどうかは,テストで見破ることはなかなかできません。


 現金を受け取った後,それを分けなければならないのであれば,分ければよい,それだけのことでしょう。

 独り占めする人がいたら,金融機関が責任をとらないといけないでしょうか?

 自分の仕事と,ほかの人の仕事の区別ができない人間は,

 資格がとれないように「改革する」必要があるのではないでしょうか。

 
 3人で1000円ずつ出して,ジャンボ宝くじを買ったとします。

 当たったら,3等分する約束で。

 3000万円が当たりました。

 銀行には,3人の口座に1000万円ずつ振り込む責任がありますか? 
 

 「お話にならない」というのは,こういうことです。


 教育について,何十年前と全く同じことを言っていないで,

 少なくとも現行の指導要領は,どのような趣旨によって改訂され,

 その趣旨に沿って今,どのような教育が行われているか,

 考えてみるべきなのですね。

 そして,もしご自分の勤務状況もふり返って見て,

 「そういう趣旨の指導ができない教師がいる」ことに

 気づけるのであれば,そこを問題にすべきなのです。

 「テストでいい点がとれれば,それだけでいい」

 なんて評価をしている学校は,よほどそのテストが難しく,

 論文みたいなものまで書かせるようなところは別として,

 今の公立学校にはほとんどありません。

 大事なことは,「テストがよくても~ができないとだめ」ということで,

 「~ができれば,テストはできなくてもよい」というわけではない,

 ということです。

 小学校の教員が,中学校に異動すると,様々な困難に直面するのは分かります。

 ただ言われたことを機械的にこなすだけならできるかもしれませんが。

 こういう教師のなかに,上記のような「テストの意味」が分かっていない

 人がいる。そもそも,「テスト問題」が作れない。

 今時,マークシートで採点できる「四択問題」ばかりのようなテストを

 つくっている教師は,よほどたくさんのことを授業中に書かせたり

 宿題にしたりして,テストをはるかに上回る評価材料をもっているのでしょう。 

 
 「テスト」については,たとえば,東大の入試と慶応や早稲田の入試問題を

 比較してみてください。

 
 難易度だけの問題ではありません。

 
 それだけで,大事なことがたくさんわかるでしょう。

 
 最後に一つ。

 資格をとっただけで,それで浮かれてはいけないのです。

 教員の初任者がどういう立場かは多くの方はご存じでしょう。

 「仮免許」みたいなものです。

 
 自動車運転免許も,免許をもらってすぐに事故を起こす

 高校生や大学生がいるのはなぜかをよく考えてください。

 
 免許を手にしたら,「うれしさ」を感じるのは勝手ですが,

 ハンドルを握ったら,「責任」を感じてほしいのです。


 無免許運転による事故と,免許を持っている人間の事故の比率を

 ご存知ですか?

  
 警察のような話になってしまいました。

 
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より