ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« いいのこすこと-4 正しい「テスト」の見方・考え方 | トップページ | 彩雲 »

いいのこすこと-5 二山の成績分布がクラスの「まとまり」に与える影響

 「テストだけで成績が決まるわけではない」とはいいながら,

 「テストの得点」と「評定=成績」の間にはそれなりの相関がありますから,

 テストの得点が二山ある場合は,「できる方の生徒」と「できない方の生徒」が

 はっきりと分かれている学級であるということになります。

 私の経験では,数学でこのような分布が見られることがあります。

 「できる子はできるが,できない子はできない」とはっきりしている。

 どこにその原因があるか,「小中連携」では明らかになっていますか?

 ・・・・ところで,「成績の二山」は,すべての教科で起こり得るものなのでしょうか。

 もし,すべての教科でそれが当たり前のように起こっている状況では,

 「習熟度別・少人数学習集団」の編成が効果的になる場合がありますが,

 実際のところ,それほど極端な「2グループ」「3グループ」はできにくいのが一般的です。

 

 まだお子さんが小さい方が,何十年か前のことばかり書かれているブログを読むと不安になられるかもしれないので,私のここ20数年来の経験で申し上げますと,


 「クラスのまとまり」と「成績の分布状況」に相関関係はありません。

 つまり,成績がいい生徒と悪い生徒に分かれてしまっているようなクラスで,

 「まとまりがない」という状況は,逆に生じにくいとも言えるのです。

 いろいろ,想像力を働かせてみると,その理由に気づかれるかもしれません。

 要は,クラスのリーダー次第,学年主任や学級担任の経営能力次第,ということです。

クラスの「まとまり」といっても,それがいい意味で発揮できる場面と,

 決してよくない「まとまり」もあるわけですから,

 「まとまっていないといけない」というのも一面的な子ども観,教育観です。

 

 ごくごくまれに,二つの小学校から一つの中学校に進学してくる子どもたちが,

 小学校のグループに分かれて対立する,なんてことが起こることはあり得ます。

 そして,荒れ放題だった片方の小学校の生徒が軒並み低学力だったりすると,なおさらに。

 
 クラスのまとまり,というのは,だれでも小中学校時代を思い起こせばわかるように,

 「成績」とはあまり関係がないのです。


 しかし,担任教師などが「先入観」「固定観念」にとらわれて,

 「二山あるクラスは,まとまりがない印象がある」なんて思い込んでいると,

 実際にそのようになってしまう,というのが中学校の学級というものです。


 言っている通り,思っている通りの学級になっていく。


 二山がある学級を受け持って,「チャンスだ」と思えるような教師が,

 「指導力のある教師」だろうと思われます。


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

« いいのこすこと-4 正しい「テスト」の見方・考え方 | トップページ | 彩雲 »

教育」カテゴリの記事

学習指導要領」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« いいのこすこと-4 正しい「テスト」の見方・考え方 | トップページ | 彩雲 »

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より