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「教えたくてしかたがない」という情熱に出会う幸せ

 「人に教えたい」という情熱に満ちた教師と出会う子どもは幸せである。

 ある程度の経験を積まないと,「こういう経験をさせて,成長させたい」

 などというレベルの高い「指導観」はもてない。

 そういう「指導観」を耳で聴いたり本で読んだりして,

 「知識として分かったつもり」になっている教師が,

 それらしく子どもにかかわろうとしても,

 自分自身で子どもの成長だけでなく挫折に寄り添う経験がないと,

 本当の意味での「指導」はできないのが,教師という仕事である。

 だから,若い教師は,「人に教えたくてしかたがない」という

 情熱を優先してほしい。そして,自らが挫折する経験をして,

 それを乗り越えて成長するプロセスを体感することが,

 「よい教師」になるための条件であると考えることができる。

 誤解してはならないのは,「生徒と同じような挫折」なんかではだめなのだ。

 「同情するなら,どうすればいいか教えてくれ!」

 という生徒に寄り添いながら,大事なことを「教える」のが教師の仕事である。

 寄り添ってくれるのは友達でよい。

 教師としての挫折が,強い教師をつくる。

 自分で挫折を乗り越えられない人間に,

 挫折した子どもに寄り添い,導くことはできない。

 教師の「試用期間」は,1年では短すぎるかもしれない。

 1年目に挫折できるほど,重たい仕事をさせられることはまずないからである。

 さて,

 小学校の教師に限らず,「学ぶ意欲にあふれている子ども像」,

 「積極的に自分の考えを発表する姿」を理想としている人が多いと思う。

 そのとき,教師の一方的な講義形式の授業が,

 それを阻害するまずいものだ,という「主張」を耳にしたり,自分でも

 語っている人が多いと思う。

 しかし,そういう人たちは,一方的な講義にもかかわらず,

 子どもが「学ぶ意欲にあふれ」,表現はしないまでも,

 頭のなかで「自分の考えをめぐらせる」ことで能力を高めている姿を

 見たことはないのだろうか。

 自分がそういう講義を受けたことは一度もないのだろうか。

 そういう講義ができる人でなければ,教師をやる資格はないと

 考えたことはないのだろうか。

 子どもたちは,「教えたくてしかたがない」という情熱にあふれた人

 から,知識以上のものを学ぶことができる,ということの意味が

 分からない教師はいるだろうか。

 「教えたいという情熱」は,どこから生まれるのだろうか。

 それは,「自ら学ぶ」ところからである。

 「自ら学ぶ」ところから,すべてが始まる。

 小学校の若い教師にはとても気の毒なことに,

 小手先の授業を成立させるための「ノウハウ本」が書店に

 あふれている。

 「小手先の技術」を教えたいという情熱こそが,

 教師を劣化させている最大の原因である。

 それを大学で教えるようなことになっていたとしたら,

 すでに「教職教育」は絶滅していると言ってもよいだろう。

 
 小学校6年生の教科書には,「参勤交代」の「大名行列」を示す絵が載っている。

 これで教師は何を教えているのだろうか。

 幕府はなぜ「無駄な出費をするな」と命令したのだろうか。

 大名は,平和な社会のなかで,将軍にどうやって「奉公」すればよかったのだろうか。

 どうやって「忠誠心」を示せばよかったのだろうか。

 上から目線をやめるだけで,全くちがった歴史が見えてくる。

 なぜ,「儒学」が重んじられるようになったのだろうか。

 近代の戦争を行っていくなかで,軍部は歴史教育をどのような目的で進めていたのだろうか。

 織田信長や豊臣秀吉,徳川家康を通して,軍部は,何を学ばせたかったのだろうか。

 今,小学生たちが学んでいる歴史と,当時の歴史には,どのような違いがあるのだろうか。

 ピンボケした,目的も意味も分からない,史実とも合致しない,

 そんな授業を展開していたら恥ずかしい,と心配になる教師はどのくらいいるだろうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より