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「発言」と「応答」の区別ができているか?

 授業中の子どもの「発言」の意義に関する記事の内容について,

 「異論」を出されたが,「反論」しなければならないほどの「論」は書いていない。

 ただの思いつきと印象である。

 うまくいっている授業はいくらでもある。

 下手くそな授業も,いくらでもある。

 いい「発言」は,たくさんある。

 それ以上に,まずい「発言」もある。

 一つ,確認しておきたいのは,

 教師は「発言が大事」「発言を増やそう」などと言っているが,

 多くの場合,教師の質問(発問)の「応答」に過ぎないことを

 「発言」と呼んでいる。

 それは,本当に「発言」なのか?

 単なる「応答」ではないのか?

 少なくとも,職員会議における「発言」とは異なる趣旨のものを

 「授業における子どもの発言」と呼んでいないか?

 ある子どもの「応答」に対して,

 「自分の考えはそうじゃない,これが自分の考えだ」というのを「発言」

 と考えたい人もいるだろうが,

 それも実は「応答」に過ぎない。

 教師が「問い」を発しないと,出てこないのが「応答」である。

 

 小学校の教師ほど,

 「主体的な学び」「能動的な学習」などを大事にしようとしている。

 しかし,私のような人間が見ると,

 どう考えても子どもは「教師に動かされている」ようにしか見えない。

 「そこまでお膳立てしないと,だめなのか」というくらい,

 教師が板書を緻密に構成していく。

 そんなものは,子どもに書かせればよいのに。

 でも,それでは「都合が悪い」のだろう。

 授業が「うまくいった」ことにしなければならないからである。

 研究会の板書を見ると,「うまくいったでしょう」という字が書かれているように見える。

 実際,何%の子どもが,それを理解したか分からないまま。

 「分からない」ことが「分かったつもり」「分かっているはず」で終わらせてしまうのが,

 まずい授業の典型である。

 
 主体的な学習というのは,子どもの「問い」から始まるものを指すはずである。

 「問い」こそが「発言」の中核であるべきで,

 「問える」力こそが「学力」である,

 なんていうと,「発言」を促すことになろうか。


 対話とはこのように行うものであり,

 授業も同じである。


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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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