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いいのこすこと-3 正しい成績の見方・考え方

 中学校では,担任教師がクラス別の得点分布をながめながら,

 「ああ,うちのクラスは下が多いな」とか,

 クラス数が多い時は,

 「A先生のクラスは高くて,B先生のクラスは低いな」

 などといった会話がかわされることがあります。

 ただ,これはグラフを見ただけで,中学生でもわかることです。

 「B先生の授業を,もっと真剣に受けるように!」なんていう

 アドバイス?は,生徒でも予想できるものです。

 二つのテストを比べた時,後の方のテストの得点分布が,

 100点に近い方に移動した・・・つまり,平均点が上がった・・・・
 
 とき,どんな素人でも,「先生の指導力が高い」とは

 考えず,「問題が易しくなった」と考えるのが普通です。

 あるいは,「易しい内容の範囲だった」とか。

 「正しい成績の見方・考え方」とは,言うまでもなく,

 あくまでも「個人」を対象にするものです。

 中学校では,得点分布を公開しているところが多いと思いますので,

 自分の子どもの順位を教えてくれなくても,何位から何位までにいそうだ,

 ということは分かってしまうようになっています。

 ただ,順位を見ても,学習状況は分かりません。

 もし得点だけで分析したかったら,得点の推移だったり,偏差値だったり(平均点より,何点上とか,下とかいう見方でもかまいません),2つの教科の得点の相関を考えなければなりません。

 学習状況は,「評定」で見るのです。

 そうすれば,「テストの得点は高いのに,評定が低いということは,・・・・ができていないのだな」などということが想像できます。

 保護者としては,担任教師と面談があれば,「どこができていなかったのか」が聞けるメリットがあります。

 ここで,学校による格差がはっきり出てきてしまう。

 担任教師は,自分が受け持っている教科の学習状況は語れても,情報が入ってこなければ,他教科の状況は評定でしか判断できないのです。

 つまり,数学を教えている担任に,「どうして歌が上手いのに,音楽の評定がこんなに低いのか」と聞かれても,理由を伝えられていなければ分からないことはあるのです。


 「成績」のことで言えば,「評定分布」というのも,それなりに大切なものです。・・・・たとえば,国語では5が何人,4が何人といったもの・・・・が示されていれば,全体の学習達成度のなかで,子どもがどんな状況かを知ることができます。

 「5」が異常に多かったりすると,「怪しいな」と感じられるのが,中学校の教科の成績です。

 

 今回のあのあてにならない記事で気を付けたいのは,次のことです。 

 大事なことは,

 「成績」というのは,生徒個人の学習状況を示すものであって,

 「教師の指導力」を考える材料にはなっていない,ということです。

 もちろん,目標準拠評価ですから,

 全員が「十分満足な状況」にさせることもできるだろう!

 という批判も分かりますが,小学校はともかく,中学校や高校になりますと,目標そのものがやや高度になるため,学校では「おおむね満足な状況」を「最も多くの生徒が示す」ことを想定して指導を行います。

 保護者としては,5段階評価で「2」がついていた子どもが,もし「3」になったら,褒めてあげてほしいと思います。そして,励ましてあげることが大切です。

 あまり書くと私が勤務していた学校がばれてしまいますが,

 中学校の教科担任は,学期末,単に「評定」という数字によって,子どもに「成績」を示すだけではなく,何がどのようにできていて,どのような課題が残っているのかを生徒に自覚させることが大事です。自分の課題を生徒自身が語れるような「自己評価能力」も高めながら,日々の授業を行っていくべきなのです。

 教育のド素人が,数字を打ち込んだだけでできあがる表を得意気に出していますね。

 あれでは「塾以下」です。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より