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閉ざされた「思考回路」のなかで自分を守っている人の「教育論」

 無責任な人間の「思考回路」の見本が公開されている。

 「おれは悪くない」ことを言いたいのだが,

 どう見ても「責任逃れ」のための主張である。
 


 私は塾でアルバイトをしていたとき,

 「学校の教師を信用していない」

 「学校の教師を嫌っている」

 「学校の教師に嫌われていると思っている」

 多くの子どもたちと接してきたし,相談にものってきた。

 学校が楽しくなるコツも,教えてきた。

 授業を大切にすることが,学力向上の一番のコツだと教えてきた。

 それを実行できた子どもは学力も自信も伸びていった。

 塾で子どもを教える人間のなかには,

 担任の教師以上のアドバイスができる人がたくさんいる。

 アルバイト時代,私の父親が教育長と親しかったので,

 学校教育の現場の状況は,よく耳に入っていたが,

 少なくとも,

 子どもたちは様々な意味で

 「塾で救われている」ことを実感していた。

 塾は,受験指導だけをしている場ではない。

 単純な「思考回路」しか持たない者にとっては,

 「塾とは,こういうところ」

 「だから,塾はこういうところではない」

 と判断してしまって,仕舞には「教育」の話で

 塾の人間が学校の教師と「対等に張り合おうと思うな」

 などとくる。

 最も単純な「思考回路」に基づく「教育観」とは,

 学校は法律でこのようなことをすることが定められている場である。

 塾はそうではない。

 そもそも,塾の人間の中には教員免許をもたない人間がいる。

 だから,教員免許をもってからの話だ。

 こんな調子である。お前とは,教育論はかわせない・・・などという,「門前払い」の立場となる。

 こんな人間と「教育論」をかわすのがそもそも無理なわけであるし,

 無意味なわけだが,

 このような話しかできないのは,

 採用試験に出るレベルの法律の内容すら知らないことも背景にあり,

 「教育」にかかわる身としては,いろいろと教えてあげたくなる,というのが私の心情である。

 「思考回路」のレベルが低すぎるから,そんな努力もほとんど無になってしまうのだが。

 学校は法律で定められている内容を教えているのだから,

 その内容が身に付かないのは子どものせいだ,ということも以前に書いていた。

 日本の学校は,年齢になると,学力がついていなくても進級させるのだから,

 教師には学力がつかないことについて責任がない,とも書いていた。

 こんな人間が教育現場にいたし,今もいるのである。

 公立学校の質の低下は以前から問題になっているし,

 国立大学の附属学校にも,同じような教員の質の低下が問題になり,

 そもそも公務員を減らしたい国の意向から,附属学校そのものの不要論も

 以前から続けている。

 アルバイトをしていたころの率直な印象は,

 塾がなければ,この国の子どもは救われない,というものであった。


 ピアノを習わせることが「教育」の一環であるのと同じように,

 塾で学習させることも,「教育」の一環である,というのが

 一般的な家庭の親がもっている認識であろう。

 あえてそこに異論を唱える意味がどこにあるのか。

 そんなに自分が行ってきた「学校教育」における「教育」の質が高いと言いたいのか。

 今,そんなふうに胸をはれないで苦しんでいる「学校」や「教師」がどれだけいるか,

 そういうことへの想像力を欠いた人間に,

 「教育」を語る資格はない。

 そもそもが,道徳教育を行う資質・能力のない人間が,

 教育現場に立っていたということが,

 この国の教員の質や教員採用の質の問題を象徴している。
 


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より