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いいのこすこと-1 正しい成績の見方

 (再追記) 何だか,タイムマシンに乗って四十年以上前の人とやりとりをしている

 気になります。新しい本の紹介はあっても,書かれている内容ははるか昔のことばかり。

 私の父親が大学で習っていたようなことしか書かれていない。

 やはり,学習指導要領の意味や目標準拠評価の課題が分かっていない人と,

 「教育論・教育問題」の場で話すのは無駄のようです。

 すでに退職しているからいい,というわけではありません。

 このような人が今でも現場にいることを忘れてはならないのです。

 

 (追記) そこまで露骨な「逃げ」を打つとは・・・・。

 中学生の「成績」の話から,「企業」の話に飛んでいる。

 それは,「評定がつけられない教師」であることがばれるのを防ぐためですかね。

 「企業」の話ですら,「数字」にこだわっている「視野の狭さ」も十分に批判の対象になっているのに・・・。

>広い意味での例を挙げて書いてあるのに、それらを統合して解釈できないのは、統合する能力に欠けるのではと思います。

 また登場。自分が書いていることの方が「視野の狭い」「小さい」話なのに・・・・。

 「視野の広さ」などと言っているものが,学校が「別の点数がものをいうもの」にすり替わっているだけであることにすら,気がつかないことを,私は

 ~の能力に欠けるなどとは「評価」しません。

 質問に答えなくていいように,逃げているだけ,というのが「真相」でしょう。

 だれの何のためのブログなんでしたっけ?

 「目標は何か?」ということへの関心や探究心がない人が「成績」を語るのは

 哀れでしかありません。


******************************

 どのような回答が寄せられるでしょうかね?

 たいていは無視してくるタイプの内容です。

 下線は,私がここで引きました。

*****************

>成績は順位や割合に基づいて行うのではなく、ある点数に達すれば人数に関係なく、相当の成績をつけるというのが絶対評価である。

 目標準拠評価になってから,もう10年以上もたつのですが,dolceさんはご存じないようですね。

 上記に引用した表現や記事の内容は,「テストでよい点がとれたら自動的に成績は上がる」という誤解を生むおそれがあります。

 「テストで測定できる力は限られている」というのは常識的なことで,dolceさんも述べられています。

 それなのに,今,実施されている「目標準拠評価」と「絶対評価」を混同しているのは,「教科の目標の実現」を意識して授業をしてこなかった長年の経験のせいなのでしょうか。

 音楽の成績を想像してみてください。dolceさんは厳密なる採点基準をもって,音楽の表現能力を「点数化」できるのかもしれませんが,「点数化」はできないが,「十分満足できる」とか,「そのなかでも特に優れている」という質的な評価を行うのが,いわゆる「絶対評価」,正しくは「目標に準拠した評価」のあり方です。

 学校の教師ではなく,音楽の専門家の指導を受けた子どもの能力が急に高まっている,という実感をもっているのは,ご自身も経験があるのではないですか。

 理科の実験の技能や観察の表現力も,評定には十二分に反映されてるのですよ。

 「成績が上がった」といったら,普通は「評定が上がった」という意味です。

 そして,「評定が上がった」ということは,目標に照らした学習状況が改善したこと・・・簡単に言えば,学力が向上したことを示すのです。

 「おおむね満足できる」学習状況にも達していなかった生徒が,きちんとした個別指導を受けることで,「おおむね満足できる」状況には達した,というとき,「評定は上がる」のです。

 「成績が上がる」ことの意味はこのように捉えるのが普通であり,

>ある集団を、ある指導者が指導した時、その集団のその後の伸びはどうなっているのか、全体と個人の両方で考察すべきである。

 これは小学生を受け入れている中学校の教師が,小学校の授業を参観することでよりよく「発見」できるような内容で,普通の読者はそんなことを考えないのが「ふつう」だと思われます。

****************

 ご自分の中学校時代の「音楽」の評定の付け方をご説明いただければ,

 「学習の評価」とはどのような意義があるのか,より明確になるのですが,

 まず99%,そういうことは書くことができないでしょう。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
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    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
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    「太公望 中」より
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    「孟夏の太陽」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より