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学校の授業は分からないけど,塾の授業は分かる

 塾でアルバイトをしていたころ,

 不思議だったのは,なぜ「学校の授業が分からない」と

 子どもが話すのか,ということだった。


 私は英語の教師を志していた人間ではない。

 中学から大学まで,自分が通っていた学校で教師に

 英語を習っていただけである。

 
 以前にも書いたように,耳で音を聴いて理解できるように

 することを心がけた結果,中2になって英語が得意になった,

 英語が好きになったという子どもが増え始めた。


 もちろん中学校の教師は,私が教えていたレベルの子どもたちに

 個別指導をしてくれたわけではない。

 授業ではできないまま,放置していたわけではないかもしれない。

 でも,学校では「できる自信」「分かる喜び」が味わえなかった。

 なぜだろう。

 「学校の授業は分からない」という言葉の「裏」にあるものに

 気づいたのは,自分が教師になってからであった。

 「授業が分からない」と生徒が言う理由には三通りある。

 「本当に理解できていない場合」と,

 「本当は理解できるのに理解しようとしない場合」と, 

 「理解できてない部分が理解できている場合」である。

 私は三番目の意味で「分からない」と言ってほしいから,

 テストでも「以上の資料だけからは『分からないこと』は何か」

 なんて問題を出したりする。

 塾で生き生きしている子どものパターンは,

 一番目も多いが,二番目の場合であるケースが多いのではないか。

 「理解しようとしない」生徒を「理解しようとする」ようにすれば,

 塾で何も教えなくても,学校の成績は向上するはずである。

 
 でも,それはなかなか実現できなかった。

 「おまえが勉強しないのが悪い」

 「おまえの授業態度が悪い」

 などと悪態をつく教師の姿が目に浮かんだ。


 これが「法治国家」の現実なのだ。

 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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